細川頼元
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細川頼元 | |
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時代 | 室町時代 |
生誕 | 興国4年/康永2年(1343年) |
死没 | 応永4年5月7日(1397年6月2日) |
幕府 |
室町幕府侍所頭人、小侍所別当、管領 摂津・土佐・讃岐・安芸・丹波守護 |
主君 | 足利義満 |
氏族 | 細川氏(細川京兆家) |
細川 頼元(ほそかわ よりもと)は、室町時代の武将、守護大名。第4代室町幕府管領、小侍所別当、侍所頭人、摂津・土佐・讃岐・安芸・丹波守護。第7代細川京兆家当主。父は細川頼春、母は近衛経忠の娘。兄に頼之、詮春、頼有、弟に満之。異母兄・頼之の養子となる。正室は赤松則祐の娘。子に満元、満国、娘(宇都宮基綱室)。幼名は聡明丸、通称は三郎。初名は頼基(読み同じ)、のち頼元に改名(以後「元」の字は京兆家の家督継承者が用いる通字となる)。官位は右馬助、従四位下右京大夫。
経歴
兄頼之の管領就任に伴ってその補佐に務め、文中3年/応安7年(1374年)に摂津守護に就任、南朝から北朝に降った楠木正儀の救援で河内へ下向したり、橋本正督征討に向かっている。
天授5年/康暦元年(1379年)に兄が斯波義将を中心とする康暦の政変で失脚すると摂津守護を解任され兄と共に四国へ下るが、翌天授6年/康暦2年(1380年)に兄が3代将軍足利義満から赦免されると弘和元年/永徳元年(1381年)に上洛して幕府に出仕、弘和3年/永徳3年(1383年)に摂津守護に復帰した。明徳2年/元中7年(1391年)に斯波義将に代わり管領となり、同年の明徳の乱で兄と共に参戦、恩賞として翌明徳3年/元中8年(1392年)に丹波守護となった。同年の兄の死で土佐・讃岐も領有、4ヶ国の守護となった。
明徳4年/元中9年(1393年)に管領を辞任、応永2年(1395年)の義満の出家で共に出家、応永4年(1397年)に死去。享年54。法名は妙観院春林梵栄。
頼元以後、細川京兆家は三管領の一つとして室町幕府の管領を務める家柄となり、当主は官位従四位下右京大夫に代々任ぜられるようになる。