細川持之
細川持之 | |
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時代 | 室町時代 |
生誕 | 応永7年(1400年) |
死没 | 嘉吉2年8月4日(1442年9月8日) |
幕府 | 室町幕府管領、摂津・丹波・讃岐・土佐守護 |
主君 | (足利義持→)足利義教→足利義勝 |
氏族 | 細川氏(細川京兆家) |
細川 持之(ほそかわ もちゆき 1400年~1442年9月8日)は、室町時代の武将・守護大名。第14代室町幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐守護。第10代細川京兆家当主。細川満元の次男で兄に持元、弟に持賢がいる。妻は京極高光の娘。嫡男に勝元、成賢(しげかた、持賢養子)。
Contents
生涯
元服に際して4代将軍・足利義持より偏諱を受けて持之と名乗る。
永享元年(1429年)に死去した兄・持元の跡を継ぎ、永享4年(1432年)に斯波義淳の後を受けて管領に就任し、6代将軍・足利義教(義持の弟)が専制政治を行う中で管領を務め、関東で発生した永享の乱、結城合戦にも対応する。嘉吉元年(1441年)5月26日に義教を自邸に招いて結城合戦戦勝の祝宴を開いた[1]。
嘉吉元年(1441年)6月24日に赤松満祐が結城合戦祝勝会で義教を暗殺した際には、持之は同席していたが難を逃れている。義教暗殺後は直ちに朝廷に参内して変事を奏上した[2]。さらに満祐が義教の首級を返還すると述べた使者を斬り殺して赤松家との敵対を明確にした[3]。
持之は幕府重鎮達と評定を開いて義教の嫡子で8歳の足利義勝を室町御所に移して第7代将軍に就任させ、在京の諸将を結集させて赤松氏を討伐(嘉吉の乱)するための対策をとった。しかし討伐はなかなか進まず、7月6日に等持院で行なった義教の葬儀は持之のみが出席する体たらくであったという[4]。しかも満祐から持之に挑戦状まで送られた[5]。持之は赤松家の討伐を決定。山名宗全や一族の細川持常らを主力とした大軍を播磨など赤松領国に送り、さらに西国大名も動員して討伐した。7月26日には満祐追討の綸旨を朝廷に求めたが、朝廷では義教の恐怖政治を終わらせた満祐に対する同情も多かったためなかなか出されなかったが、8月になって持之が永享の乱における持氏討伐の綸旨の先例を出して嘆願したため、遂に赤松討伐の綸旨が下された[6]。こうして赤松家を9月までに滅ぼした。
以後、幼い義勝に代わって幕政を主導した。嘉吉2年(1442年)6月24日、管領を辞任して出家し常喜(じょうき)と改名、8月4日に死去。享年43。家督は嫡男の勝元が継いだが、少年のため弟の持賢が後見人となった。また、後任の管領に畠山持国が就任し、以後の幕政は持国が主導した。
偏諱を与えた人物
脚注
参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 12 ふ - ほ』吉川弘文館、1991年。
- 佐藤和彦、錦昭江、松井吉昭、櫻井彦、鈴木彰、樋口州男共編『日本中世内乱史人名事典』新人物往来社、2007年。
- 高坂好『赤松円心・満祐』吉川弘文館(人物叢書)1970年。