細川宗孝
細川 宗孝(ほそかわ むねたか、正徳6年4月27日(1716年6月16日) - 延享4年8月15日(1747年9月19日))は、肥後熊本藩の第5代藩主。熊本藩細川家6代当主。
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人物・生涯
第4代藩主・細川宣紀の四男で、第6代藩主・細川重賢の兄にあたる。幼名は六丸、初名は紀逵(のりみち)または紀達[1](のりたつ)。また、初めは長岡姓であったが、兄たちが夭折したために嫡男となり、細川に改姓した。正室は紀州藩第6代藩主・徳川宗直の娘・友姫。官位は従四位下、侍従、越中守。院号は隆徳院。
享保17年(1732年)、父・宣紀の死去に伴い16歳で家督を相続、まもなく将軍・徳川吉宗(元・紀州藩第5代藩主)より偏諱を賜い宗孝(「孝」は祖先の細川藤孝(幽斎)より1字を取ったものであろう)と改名。当時の熊本藩は、父・宣紀の時代から洪水・飢饉・旱魃などの天災に悩まされて、出費が著しいものとなっていた。また、宗孝が藩主となった翌年には参勤交代に使用される大船・「波奈之丸」の建造費、さらには洪水・飢饉・疫病などの天災が起こり、その治世は多難を極めた。
人違いにより横死
延享4年(1747年)8月15日、月例拝賀式のため登城し、大広間脇の厠に立った際、旗本寄合席の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ、まもなく絶命した。享年31。
勝該には日頃から狂気の振る舞いがあり、このときも本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった。ところが細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである。
これにより、細川家は窮地に陥った。31歳になったばかりの宗孝にはまだ子がおらず、養子も立てていなかったのである。殿中での刃傷にはただでさえ喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては細川家は改易必至だった。
この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村である。宗村は機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。これを受けて家臣たちは、宗孝の遺体を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主宗孝の弟・紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、その頃までには人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た。
細川の「七つ紋」
宗孝横死の報はたちまち江戸市中に広がり、口さがない江戸っ子はさっそくこれを川柳にして
- 九つの星が十五の月に消え 剣先が九曜にあたる十五日
と詠んでいる。「剣先」は「刀の先の尖った部分」を「身頃と襟と衽の交わる部分(=剣先)」に引っ掛け、また「九曜」は細川家の「九曜」紋を「供養」に引っ掛けた戯れ歌である。
家紋の見間違いが人違いの原因となったことから、事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更した(細川九曜)。さらに、通常は裃の両胸・両袖表・背中の5ヵ所に家紋をつける礼服のことを「五つ紋」というが、その「五つ紋」に両袖の裏側にも1つずつ付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」[2]と呼ばれて、氏素性を明示する際にはよく引き合いに出される例えとなった。
脚注
- ↑ 『大名細川家の至宝 文武の歴史と雅の文化・永青文庫名品展』(編:山梨県立美術館)掲載系図より。
- ↑ 家紋World - 細川七つ紋
参考史料
- 家紋についてのコラム1 - 家紋ネット