答志島
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答志島 | |
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座標 |
北緯34度31分13秒 東経136度52分39.4秒 |
面積 | 6.98 km² |
海岸線長 | 26.3 km |
最高標高 | 167.2 m |
所在海域 | 伊勢湾 |
所属国・地域 | 日本(三重県鳥羽市答志町・桃取町) |
地図 |
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東西約6キロメートル、南北約1.5キロメートル。面積約7平方キロメートルで、鳥羽湾および三重県内では最大。鳥羽市の無形民俗文化財に指定されている寝屋子制度が残る。
Contents
地理
- 岬:築上岬・観音崎・テンマ崎・平手崎・島ヶ崎・ブト崎・大崎
- 湾:刈谷湾
歴史
古くは『万葉集』にて、持統天皇の伊勢行幸にあたって都に残った柿本人麻呂により、
- 釧着く答志(手節)の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(巻一・41)
とよまれた地である。平城京跡から発見された和銅5年(712年)木簡にも『志摩国志摩郡手節里』、養老7年(723年)木簡に『志摩国答志郡和具』の文字がみえる。『和名抄』でも、答志郷・和具郷との名もみられる。
答志には志摩国の国衙があったとされ、その跡と思われる大畑遺跡が発見されている。
沿革
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、答志郡答志村が成立。
- 1896年(明治29年)3月29日 - 答志郡と英虞郡の合併により所属郡が志摩郡に変更。
- 1897年(明治30年)5月31日 - 答志村から桃取村と菅島村が分離。
- 1954年(昭和29年)11月1日 - 昭和の大合併により、桃取村、菅島村とともに鳥羽市の一部となる。
集落
- 島の北東部に答志(とうし)、南東部に和具(わぐ)、北西部に桃取(ももとり)がある。
- 住所表記上は答志と和具が答志町(郵便番号:〒517-0002)、桃取が桃取町(郵便番号:〒517-0003)になる。
- Port of Tōshi.JPG
答志集落
- Port of Wagu.JPG
和具集落
- Port of Momotori.JPG
桃取集落
交通
鳥羽港の佐田浜桟橋から、鳥羽市営定期船で北東部の答志集落まで約30分、和具まで25分。桃取まで約15分。
運賃は2015年6月現在、それぞれ答志・和具が540円と桃取まで440円。
島内交通
- 三重県道759号答志桃取線(答志島スカイライン)
主な産業
九鬼水軍
"「九鬼嘉隆」"
嘉隆は、信長、秀吉に仕えて志摩地方一円に名をはせる。しかし関ヶ原の戦いでは情勢の見きわめに悩み、家名存続のため嘉隆が大坂の豊臣方に、子の守隆は家康の東軍について戦うことになる。敗れた嘉隆はこの地にのがれ、ついに自刃する。嘉隆の遺言により、自ら築城した鳥羽城を望む岬の頂きに首塚、その麓に胴塚が残されている。
教育
島内には以下の学校がある。
小学校
- 鳥羽市立答志小学校
- 鳥羽市立桃取小学校
中学校
答志島を舞台とした作品
その他
- イギリス人のリチャード・ゴードン・スミスは、明治時代の日本を訪れ、様々な記録を残している。その中で答志島へも訪れ、海女たちに会った当時の感想を述べている。[3]
- この島にはTSJ48というアイドルグループがいる。
- 答志町では家の戸に「マルハチ(○の中に八)」の印が書かれてある家が多く見られる。これは八幡神社で出た炭で家の戸にその印を書くと魔除けになるという独特の風習から来ている。家だけでなく、店や工場、さらには学校にも書かれてあったりする。
脚注
参考文献
- 『日本の神々 第6巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊≪新装復刊≫』(2000年7月5日発行、編者:谷川健一、発行:白水社)ISBN 4560025061
- 国土地理院発行2万5千分の1地形図「二見」(平成19年更新、平成19年8月1日発行)
- 国土地理院発行2万5千分の1地形図「答志」(平成16年更新、平成17年6月1日発行)