笠信太郎
笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年12月11日 - 1967年12月4日)は、日本のジャーナリスト。社長不在時代の朝日新聞で常務取締役論説主幹をつとめ、信夫韓一郎、永井大三とトロイカ体制をしいた。また、昭和研究会メンバーなどもつとめ、政界のフィクサーや、CIA協力者としても活動した。
経歴
化粧品店を営む笠与平・峯子の長男として、福岡市上土居町(現・博多区店屋町)に生まれる。幼名は与三郎。福岡県立中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)を経て、1925年東京商科大学(現・一橋大学)本科を卒業。1926年同研究科を退学する。三浦新七ゼミ出身[1]。
1928年4月大原社会問題研究所研究助手、1931年同研究員を経て、大内兵衛が朝日新聞社主筆で中学・大学の先輩でもある緒方竹虎に推薦して、1936年1月朝日新聞社に入社し、同年9月論説委員となる。同じく朝日新聞社論説委員の佐々弘雄や記者の尾崎秀実らとともに近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」に参加してその中心メンバーの一人となり、近衛を取り巻く朝食会(水曜会)のメンバーともなった。
昭和研究会には稲葉秀三や勝間田清一ら企画院の革新官僚とソ連スパイ尾崎秀実をはじめとする転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者(近衛上奏文)が結集しており、彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理念的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進し、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となった[2]。
笠は昭和研究会の東亜政治研究会委員、東亜経済ブロック研究会委員、文化問題研究会委員、政治動向研究会委員、経済情勢研究会委員を務め[3]、1939年12月に笠が出版した『日本経済の再編成』(中央公論社)は、国家総動員法の広汎な発動により日本経済を自由主義的市場経済から公益優先主義的計画経済に移行させる第二次近衛内閣の経済新体制の理論的支柱となった。
笠は、日本経済の再編成の中で、第三次近衛声明後の我が国の軍事行動は、「治安工作と並行して抗日勢力の徹底的破砕を目指して進められねばならぬ」と主張し、企業が利潤確保の為やむを得ず闇市場に物資を流し闇価格を高騰させ或いは商品の品質や労働者の待遇条件を落とすこと等、政府の物資統制や戦時インフレ抑止政策が発生させる様々な弊害の除去に藉口して、物資のみならず企業の利潤および経営にまで統制の範囲を拡大させる必要性を説いて国家総動員法の発動を推進し、また『中央公論』昭和十四年十一月号「事変処理と欧州大戦」という座談会(出席者は、笠信太郎、和田耕作、平貞蔵、牛場信彦、西園寺公一、聽濤克己、角田順、後藤勇)の中では、公然と自由経済の復活と複数政党政治と言論の自由を否定した[4]。
1940年6月から9月にかけて笠は、小川平吉のブレーンであった山本勝市が国民精神文化研究所機関紙上に発表した「笠信太郎氏日本経済の再編成批判」によって批判された[5]。同年10月ヨーロッパ特派員としてドイツ駐在を発令され渡欧するが、戦乱のため帰社の見通しが立たず、東京本社欧米部ヨーロッパ特派員として滞欧を続けることになり、1943年10月スイスへ移動、ベルンに滞在。同地に滞在していたアメリカの情報機関OSS(Office of Strategic Services:アメリカ戦略情報局、CIAの前身)の欧州総局長であったアレン・ダレス(後のCIA長官)を仲介とした、対米和平工作に協力している。和平工作時、スイスから和平締結を求める東郷茂徳外相宛て電報を緒方竹虎(当時内閣顧問)に送付(結果的には未達)したことで、緒方や近衛文麿など、政権中枢とのコネクションを有しているものと米国側に把握されていた[6]。
戦後は1948年2月に帰社。同年5月論説委員、同年12月東京本社論説主幹、1949年12月朝日新聞論説主幹、1951年11月取締役・論説主幹、1956年12月常務取締役・論説主幹となり、1962年12月に辞任するまで14年間にわたって論説主幹を務めた。
この時期の朝日新聞社の経営陣は、社主の村山長挙が1960年6月に社長に復帰するまで社長不在であり(村山は1951年11月から1960年6月まで会長)、代表取締役専務取締役の信夫韓一郎、常務取締役・東京本社業務局長の永井大三と笠のトロイカ体制を取っていた。信夫には1949年12月に東京本社編集局長に就任するまで東京での勤務経験がなく、東京の政財界に暗かったため、論説主幹の笠が対外的に朝日を代表する「顔」だった。しかし村山社主家との確執から、まず1960年6月に信夫が、続いて1962年に笠が辞任し(村山長挙の社長復帰翌日付で信夫が代表取締役専務取締役辞任)、1963年12月に村山家が永井を解任したことから村山事件となった。なお、笠の辞任は公式には「健康上の理由」となっている(河谷文夫「記者風伝」)。
1967年12月4日、心筋梗塞のため死去。66歳。
言論・活動
東西冷戦が朝鮮戦争となっても全面講和論を主張してGHQの反発を買い、GHQは朝日新聞社に笠の追放を要求したが、長谷部忠社長が激しく拒否した。1960年の第一次安保闘争においては安保条約の改定反対、岸内閣退陣の論陣を張ったが(1960年5月21日付の朝日新聞社説「岸退陣と総選挙を要求す」は1面トップに置かれた)、6月15日に安保反対デモ隊と警官隊の衝突で東大女子学生が死亡すると、一転して「暴力を排し 議会主義を守れ」という7社共同宣言(6月17日付)を発する中心的役割を担い、反対運動に冷水を浴びせた。
その後、岸信介首相が退陣すると、宮沢喜一と極秘に接触し、次の首相に朝日新聞OBの石井光次郎を就任させることを宮沢を介して池田勇人に要求するなど、政治的なフィクサーとしても活動した(2009年9月12日毎日新聞/岩見隆夫「近聞遠見」)。
また、恒久平和の実現を目指して、湯川秀樹らと共に世界連邦運動を提唱し続けており、1958年の元旦と1月16日の朝日新聞には「世界連邦を日本の国是とせよ」という社説を掲げている。
CIAとの関係
有馬哲夫は、笠がCIAと協力関係にあったとしている[7][8][9]。
日本が敗色濃厚となった1945年、スイスにおいて、米国OSS(戦略情報局)スイス支局長として活動していたアレン・ダレス(のちのCIA長官)と水面下の和平交渉を行っていた日本人グループは、戦争終結後も、秘密裡に関係を継続することをOSSに申し入れていた。スイス公使館員から朝日新聞チューリヒ特派員に転じていた田口二郎と笹本駿二が、和平交渉に関与する中でOSSとの接触を持っていたことにより、交渉グループの一角となっていた朝日新聞記者たちはそのままOSSの協力者となり、後から赴任してきた笠もその中に加わることとなった。1945年4月12日付のOSS報告書の、「田口二郎と笹本駿二がいる朝日新聞チューリヒ支局の新しいわれわれのエージェントは新しい内閣の顔ぶれに失望している」との記述における"新しいわれわれのエージェント"とされる人物が笠を指しているとみられる。
OSSスイス支局でダレスの部下だったポール・ブルームがGHQ外交局に配属され来日した際、最初に連絡をとったのが笠で、笠が和平交渉日本人の一人であり親しくしていた藤村義朗海軍中佐にそれを伝達、藤村が設立した専門商社「ジュピター・コーポレーション」の社屋にブルームは同居していた。ブルームは日本の指導的知識人との座談会を主催していたが、その日本側の主催者が、ブルーム来日後に朝日新聞に復帰し、翌49年に論説主幹に昇進して"朝日の顔"となった笠である。
1951年にCIAの副長官となったダレスが、笠や藤村海軍中佐ら、終戦工作時の人脈により獲得させた日本人協力者の中に、高校、大学、朝日新聞における笠の先輩で、日本版CIA創設を目指す緒方竹虎と、海上自衛隊創設を目指す海軍大将で駐米大使だった野村吉三郎らがいた[7][8]。
1961年、ダレスがピッグス湾侵攻作戦の失敗で失脚したためか、その後ろ盾を得ていた笠は、翌62年に論説主幹を辞めることとなった。以降、スイス終戦工作に関しては周囲に口止めした上で、ダレス同様一切語ることはなかった[9]。CIAの対日工作者としては最古参の一人にして中心的な存在でありながら、岸信介と同様、笠の機密ファイルは未だ公開されておらず、CIAとの協力関係の全貌は不詳である。
著作
- シュペングラーの歴史主義的立場 同文館 1928
- 米穀関税調査 大阪自由通商協会 1930 調査叢書
- 金・貨幣・紙幣 貨幣問題の批判 大畑書店 1933
- 通貨信用統制批判 改造社 1934 日本統制経済全集
- 日本経済の再編成 中央公論社 1939
- 新しい欧洲 河出書房 1948
- ものの見方について 西欧になにを学ぶか 河出書房 1950 のち角川文庫、朝日文庫
- いかに考えるか みすず書房 1951 教養の書
- 西洋と日本 朝日新聞社 1953. 朝日常識講座
- 私たちはどう生きるか (笠信太郎集) ポプラ社 1959
- お城と勲章 随想集 1962 角川文庫
- “花見酒”の経済 朝日新聞社 1962年 のち文庫
- いかにして二十世紀を生きのびるか 文芸春秋新社 1964
- 日本の姿勢 戦後二十年 南窓社 1965
- なくてななくせ 暮しの手帖社 1966 のち朝日文庫
- 事実を視る 講談社 1968 思想との対話
- 知識と知恵 その他 文芸春秋 1968 人と思想
- 笠信太郎全集 全8巻 朝日新聞社 1968-69
- 資本主義の運命 1976 講談社学術文庫
- 論理について 1976 講談社学術文庫
- 笠信太郎 晶文社 1998.12 21世紀の日本人へ
共著編
翻訳
参考文献
- 江幡清編『回想 笠信太郎』(朝日新聞社、1969年)
- 朝日新聞社百年史編修委員会編『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』(朝日新聞社、1991年)
- 朝日新聞社百年史編修委員会編『朝日新聞社史 昭和戦後編』(朝日新聞社、1994年)
- 坂田卓雄『スイス発緊急暗号電 笠信太郎と男たちの終戦工作』(西日本新聞社、1998年)
- 吉田則昭『戦時統制とジャーナリズム 1940年代メディア史』(昭和堂、2010年)
- 有馬哲夫『「スイス諜報網」の日米終戦工作-ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(新潮社、2015年)
脚注
- ↑ [1]一橋大学学園史資料室
- ↑ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義(三田村武夫著、自由選書、1950年初版、1987年復刊)46頁、284頁「企画院事件の記録」
- ↑ 昭和研究会(昭和同人会編著、経済往来社、1968年)巻末付属資料37~39頁、昭和研究会名簿(昭和14年2月現在)。
- ↑ 大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義263頁。
- ↑ 日本経済の再編成批判(山本勝市著/日本工業倶楽部調査課/1940年12月発行、国立国会図書館デジタルコレクション公開資料)参照。
- ↑ 「『スイス終戦工作』空白期間の謎 2 ダレスは何をしていたか」有馬哲夫(新潮45 2014年9月号)
- ↑ 7.0 7.1 「日本を動かしたスパイ 第三回 アレン・ダレス アメリカの金融資本のために天皇制を守った男」有馬哲夫(『SAPIO』2016年5月号)
- ↑ 8.0 8.1 「日本を動かしたスパイ 第五回 ポール・ブルーム 日本を愛し過ぎてしまったアメリカ諜報員」有馬哲夫(『SAPIO』2016年7月号)
- ↑ 9.0 9.1 有馬哲夫『「スイス諜報網」の日米終戦工作-ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(新潮社、2015年)
外部リンク
- テンプレート:朝日新聞社