竹田の子守唄
テンプレート:みんなのうた 竹田の子守唄(たけだのこもりうた)とは、現在の京都府の被差別部落に伝えられた民謡、およびそれを基にしたポピュラー音楽の歌曲である。日本のフォーク、ロック歌手達によって数多く演奏されている。
概要
この曲は複数の被差別部落に伝わる子守り歌(子守の仕事をしている子供の労働歌)である。
この民謡・歌曲が注目されたきっかけは1969年(昭和44年)にフォークグループの「赤い鳥」が「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」で演奏したことである。しかし、そもそもは住井すゑの『橋のない川』が舞台化される際、音楽担当であった尾上和彦が被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区で採集した民謡を編曲して使ったもので、それが竹田地区の部落解放同盟の合唱団のレパートリーとなり、フォーク歌手達にも広まったと考えられている。尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったので、「竹田の子守唄」とされた。それ以前は題名が付いていなかった。
他のフォーク歌手が歌うのを聴き、赤い鳥も歌うようになった。最初は、この曲の由来や意味も理解していなかったが、ヒット後に背景を調べ自分達のものにしていった。1971年2月5日にシングル・カットして3年間でミリオンセラーとするが、被差別部落絡みの楽曲であったために日本の放送局はこの楽曲を放送したがらなくなり[1]、いわゆる「放送禁止歌」(封印作品)として長い間封印されることになったが、1990年代に封印は緩和され、赤い鳥の解散後に結成された紙ふうせんを始め、多くの歌手によってカヴァーされている。B面曲は「翼をください」である。
1974年12月 - 1975年1月には、NHKの『みんなのうた』でペドロ&カプリシャスによって歌われたこともある(編曲はヘンリー広瀬)。放送は大幅にアレンジされ、2番の歌詞とコーダ部分が省略された。同時期放送の『北風小僧の寒太郎』が何度も再放送され、また他の楽曲[2]も再放送されたのに対し、本曲の再放送は長期にわたって行われなかったものの、2015年(平成27年)10月-11月にラジオのみで41年振りに再放送される。
ロック・バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」の別動チンドン楽団「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」も、震災被災地慰問ライヴの中、同曲をカバーしているが(アルバム『アジール・チンドン』に収録)、のちに彼らは、竹田地区の人々との交流により二つの元唄ヴァージョン(「竹田こいこい節」「竹田の子守唄(元唄)」)をレコーディングし、発表した(アルバム『デラシネ・チンドン』に収録)。
歌詞
民謡なのでいろいろな歌詞があるが、大きく分けて、広く歌われる歌の歌詞と、元唄の歌詞がある。
広く歌われているもの
守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし
盆がきたとて なにうれしかろ
帷子(かたびら)はなし 帯はなし
この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら
はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて
むこうに見えるは 親のうち
1番
子守も自分が子供の頃は、楽しいお盆休みがあったけど、それも無い。
お盆が過ぎると秋が深まり、雪がちらつき寒くなって、子供が泣きます。
2番
子供の頃楽しかったお盆休みが来ても、何もうれしくは無い。
きれいに着飾る服も無い。
3番
この子はよく泣いて、子守の私を苛めます。
奉公先の親から叱られないかと心配で、やせる思いです。
4番
早く奉公の期間が終えて、奉公しているこの場所から、親の住む家に帰りたい。
向こうに見えてるのは親の家なのに、こんなに近くても奉公だから帰れない。
元唄
こんな泣くぅ子よ 守りしぇと言うたか
泣かぬ子でさい(さえ) 守りゃいやにゃ
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
来いや来いやと 小間物売りに
来たら見もする 買いもする
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
寺の坊んさん 根性が悪い
守り子いなして 門しめる
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
久世の大根飯 吉祥(きっちょ)の菜飯
またも竹田のもん葉飯
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
盆がきたぁかて 正月がきぃたて
なんぎな親もちゃ うれしない
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
はよもいにたい あの在所こえて
むこうにみえるんは 親のうち
どうしたいこーりゃ きーこえたーか
替え歌
赤い鳥のメジャーデビュー曲「人生」は、「竹田の子守唄」の歌詞を変更したもの(替え歌)であった。原曲の歌詞では意味が分かりづらいという判断から歌詞が変更されたものの、ヒットはしなかった。しかし、東芝レコードの新田和長ディレクターの判断で、原曲の歌詞のまま発売したところ、ヒットとなった[3]。
中華圏では、世界の平和を願う内容の歌詞がつけられ「祈祷」というタイトルで歌われている。ジュディ・オングが父親による中国語詞で歌いはじめたのが最初で、のちに王傑ら台湾人歌手によってカバーされ広く普及した。