竹村健一
たけむら けんいち 竹村 健一 | |
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生誕 |
1930年4月7日(94歳) 日本大阪府大阪市東成区 (現・生野区) |
国籍 | 日本 |
出身校 |
京都大学文学部英文科[1] シラキューズ大学 アメリカ合衆国[1] |
職業 | ジャーナリスト、新聞記者、司会者 |
テレビ番組 |
『竹村健一の世相講談』 『竹村健一の世相を斬る』 『報道2001』 |
配偶者 | 加賀葵 |
子供 |
竹村真一 竹村英二 |
竹村 健一(たけむら けんいち、1930年(昭和5年)4月7日[1] - )は、日本のジャーナリスト、政治評論家[2]。1989年第5回「正論」大賞受賞[3][1]。
Contents
来歴
大阪府大阪市東成区(現在の生野区)生まれ。旧制大阪府立生野中学校の1年生の時に、父の実家のある和田山町(現在の朝来市)に引っ越す。旧制兵庫県立生野中学校に転校。卒業後、旧制姫路高等学校文科甲類(現在の神戸大学文学部)に入学するが、学制改革により翌年新制京都大学に編入。アメリカ・フルブライト財団主催のフルブライト奨学金制度の第1号として、アメリカ合衆国のシラキュース大学、イェール大学、ソルボンヌ大学(現在のパリ大学)で学ぶ[1]。シラキューズ大学大学院新聞科修了[1]。
1955年から英文毎日の記者を経て、1963年に山陽特殊製鋼へ入社し調査部長となる[1]。しかし、1年後に山陽特殊製鋼を退社し[4]、以後は追手門学院大学英文科助教授[1]、拓殖大学客員教授などを経て、マーシャル・マクルーハンのメディア論の紹介で注目されて文筆活動をはじめる。並行してテレビ・ラジオにも出演。
1980年(昭和55年)頃、講演やテレビ番組などで「仕事ができない奴=資料を持ち過ぎの奴」との持論を展開し、自身は1冊の手帳に情報を集約して使っていることを紹介した。自らの監修によりオリジナルの手帳「これだけ手帳」を発刊し、その後30年にわたって発行され続けたが、2012年度版をもって発行を終了した。
1982年(昭和57年)9月、同年夏に出した『もっと売れる商品を創りなさい』が月刊誌『アクロス』同年2月号の記事から盗用していることが発覚。記者会見で盗用の事実を認めて謝罪し、回収することになった。全文コピーが7ヶ所で87行、文意盗用が10ヶ所で67行というもの[5][6][7][8]。
1985年(昭和60年)より、ニューヨークマンハッタンのモット・ストリートとプリンス・ストリートの交差点付近にあるビルの壁面に、竹村の肖像壁画が描かれている[9][10]。アデランスのCM撮影用に描かれたものであるが、絵を消すには1200万円の費用がかかることや、街路樹との位置関係でビルの壁面が広告スペースとしては適さなかったため広告会社が手をつけなかったこと、ビルの所有者も気にいっていること、地元の人たちの評判も良いことなどの理由から、2012年(平成24年)現在もそのままになっている。
先述の「これだけ手帳」発売終了以後、メディア出演や著書発表などの活動は行っていない。
思想・論調
論調は基本的に保守的・親米的で、ハイテク、情報産業を重視する傾向が強い。リゾートとリサーチの「二つのR」が日本の未来を決する、と繰り返し強調。原子力発電の旗振り役もしている。友人・知人にも保守派の論客が多く、日本共産党や公明党とは主張が異なるものの、政党傾向や人物に偏らず、良いと思えるところは率直に評価すると自認する[11]。
竹村は著述業を通じて精力的にマーシャル・マクルーハンの思想を紹介した[12]。
人物
執筆スタイルは、口述筆記で喋ったことをテープに録音してそれを原稿起こししたり、新聞の切り抜き記事を編集者にリライトさせると言われており、1981年には36冊を出版するという量産ぶりで、1冊あたり最低3万部を売っていた[13]。
広い見識を持ち、テレビなどでも度々『英国エコノミスト』、『フィナンシャル・タイムズ』など、日本の新聞では紹介されにくい紙面からの情報も幅広く紹介する。自身のブログでは、日本のマスメディアに出てこない重要なニュースや記事を定期的に発表していた。
趣味はテニス、麻雀、スキー、スキューバダイビングなど[1]。また、実業家として太陽企画出版・善光寺温泉ホテル(現在は廃業)を経営[1]。2006年からは『AICJ中学校・高等学校』を運営する学校法人AICJ鴎州学園の理事長も務め、その母体である鴎州コーポレーションの取締役相談役も務めている。
パイプを銜えた独特な風貌、「大体やね」「ブッシュさんはね」(日本国外の政治家を「さん」付けで呼ぶことは稀)など、独特の口調や語の強調による特徴的かつ辛辣なトークによる評論を行う。この言葉が生まれたきっかけはTBSラジオ『ミッドナイトプレスクラブ』で外国人特派員らと議論を交わした時に出て来たとしている[14]。このため物真似芸として、タモリが芸能活動初期の持ちネタとしており、「だいたいやねぇ」という口癖を使用した[15]。本人がバラエティ番組に出演することもあった。
批判
ベストセラーとなった著書『マクルーハンの世界』で竹村はテレビはラジオと異なり大衆を扇動しない「クールなメディア」だと説明したが、この点がマーシャル・マクルーハンの思想と全く異なるとして竹村は佐藤毅に批判された[12]。竹村は同書はマクルーハンの紹介ではなく「一種の創作みたいなもの」だったと弁明した[12]。
交遊録
- 中曽根康弘(元首相)
- 首相になる前からの付き合いで敬愛しているという。
- 渡部昇一(上智大学名誉教授)・堺屋太一(元経済企画庁長官、作家)
- 竹村を含めた3人で三ピン(一)と渾名され、共著書を出したり合同で講演会を催したりする。
- 石原慎太郎(元東京都知事、作家)
- シャイで毒舌な海の男として著書に度々紹介されている人物。
- 盛田昭夫(ソニー創業者の一人)
- 生前テニス、スキーを共に楽しみ、家族ぐるみの付き合いをしており親友と呼んでいた仲。
- 渡邉恒雄(読売新聞グループ本社会長)
- 年齢が近いことから時に意見交換をすることがある。本人の弁によると、その場合大抵は、中曽根が仲介しているとされる。
- 大前研一(経営コンサルタント)
- 大前の著書の中で、スキューバダイビングを共にしている写真が紹介されている。
家族
メディア出演
テレビ番組
- 竹村健一の世相講談(日本テレビ、1978年4月 - 1985年3月)司会
- 竹村健一の世相を斬る(フジテレビ、1979年10月 - 1992年3月)司会
- 経済ホットチャンネル(テレビ東京、1985年10月 - 1987年3月)
- 竹村健一の食卓外交(朝日放送・テレビ朝日、1986年10月 - 1987年6月)司会
- 報道2001(フジテレビ、1992年4月 - 2008年3月)コメンテーター
ラジオ番組
- 竹村健一のミッドナイトプレスクラブ(TBSラジオ、1974年10月 - 1980年10月)
- 竹村健一 パイプ片手に(TBSラジオ、1993年4月 - 1997年3月)
- 竹村健一のずばりジャーナル(ニッポン放送、1978年4月 - 2006年3月31日)
- 世相ホットライン ハイ!竹村健一です(文化放送、1983年10月3日 - 2010年4月4日)
CM
- 明光商会「MSシュレッダー」(1980年)
- キッコーマン「デリシャスソース」(1981年)
- カシオ「ウォーキングディクショナリー」(1982年)
- トヨシマビジネス(1984年)
- アデランス(1985年)
- 金鳥「キンチョール」
- オリエントファイナンス(現:オリエントコーポレーション)
- オムロン(立石電機時代。テニス編とエアピアノ編がある)
- 郵政省(現:日本郵政)
- シャディ
- ロート製薬「パンシロン液」(1993年)
音楽作品
- 竹村健一の手帖/ぼくなんかこれだけですよ。(1981年発表 SM28-5078)
- 収録曲「MOU CORI GORI DA」は、「愛のコリーダ」(チャズ・ジャンケル、クインシー・ジョーンズ)にあわせて「大体やねぇ」「デリーシャスですよ」などの竹村の名言がサンプリングされた曲。なお、編曲は後にTHE SQUAREにキーボード奏者として加入する和泉宏隆が担当している。後にCD『ウルティメイトベシャリストCLASSICS』に収録された。
- 収録曲「「ベティ・ディビス・アイズ事件」における竹村氏の国際関係論的見地からの警告」(キム・カーンズの「ベティ・デイビスの瞳(Bette Davis Eyes)」のカヴァー)では、まだBOØWYのメンバーとしてメジャーデビューする前の布袋寅泰が編曲とギターで参加している。なおこれが布袋のプロ・ミュージシャンとしての初仕事である。
- 「MOU CORI GORI DA」と「「ベティ・ディビス・アイズ事件」における竹村氏の国際関係論的見地からの警告」の2曲は、非売品プロモーション盤としてシングルカットされた。
著書
2000年までに300冊以上の著書がある[1]。
単独著
共著書
- (堀江貴文)『世界一の金持ちになってみろ!-単純に考えればうまくいく』(太陽企画出版、2004年10月、ISBN 4-88466-409-4)
- (日下公人・渡部昇一)『日本の黄金時代が始まる-何を守り何を変えるのか』(太陽企画出版、2005年3月、ISBN 4-88466-413-2)
註記
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 『現代日本人名録2002』3 p343 (2000年1月)
- ↑ 自著では職業の肩書きはないと語っており、名刺にも「竹村健一」とだけ表記している(『この人が忘れられない 私が出会った素晴しき一流人間37人』)
- ↑ 正論大賞の歴史
- ↑ それから1年後に山陽特殊製鋼は倒産する。
- ↑ 「竹村健一さん盗用 月刊誌から著書に転載」『中日新聞』1982年9月4日付
- ↑ 「竹村健一センセイ『盗作事件』一部始終」『週刊現代』1982年9月25日号
- ↑ 「今週のことば ビジネス誌からの盗作で謝罪と回収 こうしたトラブルは初めて」『週刊文春』1982年9月16日号
- ↑ 「紳士と淑女 ビジネス雑誌の中身をそっくりいただいて本を書いていたことを謝った」『諸君!』1982年11月号
- ↑ 「NYのマンハッタンで竹村健一の壁画を発見 アデランスCM撮影用の残骸」『噂の眞相』1991年9月号、p.9
- ↑ [1]
- ↑ 竹村健一『つき合い方人間学』青春出版社、p.221
- ↑ 12.0 12.1 12.2 井上ひさし『ベストセラーの戦後史 2』「マクルーハンの世界」
- ↑ 青木貞伸、井家上隆幸、植田康夫「座談会 テレビは出版を変えたのか!?」『創』1982年8・9月合併号、pp.20-21.
- ↑ “我がマスコミ人生「流行語を生み出す時代の寵児に」”. 竹村健一資料館. . 2015閲覧.
- ↑ 『タモリ学』(イースト・プレス)「大タモリ年表・1976年(31歳)」のページ
- ↑ 『人生のレールは一本ではない -悔いのない生き方をしよう-』三浦雄一郎・竹村健一 共著、2007年、太陽企画出版、27頁より「(竹村健一の)父は、兵庫県の生野という町からずいぶん奥に入った黒川村という寒村の生まれです。長男だったけど、戸数が10軒ほどしかない村の暮らしに飽きたらず、次男に家督を譲り、自分から勘当されるようにして大阪に出てきた」
外部リンク
- 竹村健一資料館
- システムブレーンのプロフィール
- ルネッサンス・アイズのプロフィール
- 竹村健一の世界の見る目(ブログ)※Webarchiveの保存キャッシュリスト