福昌寺 (鹿児島市)

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福昌寺(ふくしょうじ)はかつて鹿児島市に存在した曹洞宗の大寺。薩摩藩島津氏菩提寺であったが、廃仏毀釈により明治2年に廃寺となった[1]。山号は「玉龍山」であった。曹洞宗大本山總持寺の御直末である。

沿革

応永元年(1394年)、島津氏第7代当主島津元久が一族出身の僧・先に妙円寺 (日置市)を建てた石屋真梁を開山として招いて建立[1]。その後代々の島津氏当主の墓が建てられるようになり島津本宗家の菩提寺となる。天文15年(1546年)に後奈良天皇勅願所となる[1]

江戸時代に書かれた『三国名勝図会』によると大伽藍を備えた南九州屈指の大寺であり、最盛期には1500人の僧侶がいたという。

明治廃仏毀釈により薩摩国大隅国など旧薩摩藩領内にある寺はほとんどが破壊されたが、福昌寺は島津氏の菩提寺ということで特別に残っていた。しかし、島津忠義の妻・暐姫(島津斉彬の長女)が1869年に亡くなり葬儀を神式で行うことになった際に福昌寺も破壊されることが決定した(72世時)。この時に歴代藩主が奉納した寺宝の多くが破壊されたり行方不明となったりしたままで、鹿児島県文化財過疎県である一因になっている。

廃寺後

現在は歴代島津氏当主の墓地群のみが残っている。跡地には鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校(現在の鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校)が建てられた。1953年9月7日、県指定史跡に指定された[1]

また、廃仏毀釈の収束後、有志が同地に福昌寺を再建しようとしたが許可されず、1898年、現在の薩摩川内市に後裔寺院にあたる「福昌寺」が建立された。

キリスト教と福昌寺

フランシスコ・ザビエルは鹿児島滞在中、島津貴久によってこの福昌寺を宿所としていた。この時に当時の福昌寺住持であった15世忍室とはかなり親しくしており、ザビエルは書簡で忍室のことを激賞している。

また1870年浦上四番崩れの際には浦上(現・長崎市)のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。

所在地

現在の地番

鹿児島県鹿児島市池之上町48

交通アクセス

参考文献

関連項目

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 福昌寺跡 鹿児島県

外部リンク


座標: 東経130度33分40.94秒北緯31.6113778度 東経130.5613722度31.6113778; 130.5613722

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