督姫
督姫(とくひめ、永禄8年[1](1565年)あるいは天正3年(1575年)[2]11月11日- 慶長20年2月4日(1615年3月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の次女。母は家康の側室・西郡局(鵜殿長持の娘)。実名はふう。
別名は富子、播磨御前、良正院。
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生涯
三河国の生まれ。松平信康、結城秀康、徳川秀忠、松平忠吉、松平忠輝らは異母兄弟、亀姫、振姫は異母姉妹にあたる。
天正10年(1582年)、本能寺の変により父の同盟者だった織田信長が死去して甲斐国や信濃国が無主状態となると、父と北条氏直による甲信地方を巡っての領土争いが始まる(天正壬午の乱)。当時の徳川氏と北条氏を比較すると、国力面や動員兵数においては北条氏が上回っていたが、黒駒の戦い、信濃豪族の取り込みでは徳川氏が有利という状況であった。このまま戦えば手痛い打撃を受けると考えた両者は、旧織田領の甲斐と信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が治めることを互いに認めて和睦した。この時の和睦条件の一つとして天正11年(1583年)8月15日、督姫が氏直の正室として嫁いだ。督姫は氏直のもとで二女を生む。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で戦国大名としての北条氏は滅亡する。この時、氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に流された。督姫は後に赦免された氏直の下に赴くも、翌天正19年(1591年)に氏直が死去したため、父の下へ戻った。なお、氏直との間の2人の女子は、一人が文禄2年(1593年)に没し摩尼珠院殿妙勝童女と諡され(実名は不明)、もう一人の万姫は慶長7年(1602年)に没した。
文禄3年(1594年)12月27日、秀吉の肝煎りで池田輝政に再嫁した[3]。この時、北条氏に伝来していた「酒呑童子絵巻」(狩野元信筆、現在はサントリー美術館所蔵)と「後三年合戦絵詞」(重要文化財、東京国立博物館所蔵)を持参している。輝政との夫婦仲は良く五男二女をもうけた。輝政の死後、家康と会うため滞在していた二条城で疱瘡にかかりそのまま死去した[4]。享年41または51。
法名は良正院殿隆譽智光慶安大禅定尼、華光院殿妙春日厳[5]。墓所は知恩院の塔頭・良正院(京都市東山区)。
墓は知恩院山腹の墓地内にある。東京国立博物館には法体後の姿を描いた「良正院像」が所蔵されている。
元和2年(1616年)、輝政の長男・池田利隆は継母の督姫の後を追うように死去した。利隆の遺児・池田光政は岡山藩主となり、後に本多忠刻と千姫(秀忠の娘で督姫の姪にあたる)の長女・勝姫を正室に迎えた。
子女
- 摩尼珠院:文禄2年(1593年)に夭折。
- 万姫 :慶長7年(1602年)に没する[7]。法名は宝珠院殿華庵宗春大禅定尼、縁了院殿秀真妙幻。
京都本禅寺塔頭の心城院に墓がある。横には祖母にあたる西郡局の墓がある。
また鳥取市の正栄山妙要寺に肖像画がある。
- 池田忠継:慶長4年(1599年)2月18日、伏見の池田屋敷で生まれる。幼名藤松丸。
- 池田忠雄:慶長7年(1602年)10月18日、姫路城で生まれる。幼名勝五郎。
- 池田輝澄:慶長9年(1604年)出生。幼名松千代。
- 池田政綱:慶長10年(1605年)出生。幼名岩松。
- 池田輝興:慶長16年(1611年)1月15日に生まれる。幼名小七郎。
督姫の生年について
永禄8年とする史料と天正3年とする史料が両方存在するが、永禄8年説の場合末子の輝興を出産したときの督姫の年齢が47歳になる[9]。
天正3年説でも北条氏直と結婚したときの年齢は9歳になり、氏直と死別した17歳前後までに二女をもうけたことになる[10]。
現時点では生年を検証するような論考がないが、督姫の没年に「督姫が疱瘡を患ったが四十餘歳なので以ての外大儀である」という旨の記述[11]があり、
享年を41とする天正3年説とは合致するが、享年が51となる永禄8年説では違和感がある。
義演が督姫の年齢を勘違いしていた可能性もあるが、義演は輝政の没後に督姫から忠継の身上のための祈祷を依頼されていて[12]
督姫とも交流があるため年齢も把握していたと見る方が自然である。
毒饅頭事件の虚構性について
16歳で亡くなった忠継の死には以下のような伝説がある。
忠継の母・督姫が実子の忠継を姫路城主にすべく、継子で姫路城主であった利隆の暗殺を企て、岡山城中で利隆が忠継に対面した際、饅頭に毒を盛って利隆に勧めようとした。女中が掌に「どく」と書いて見せたため、利隆は手をつけなかったが、これを察知した忠継は利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、死亡した。こうして身をもって長兄で正嫡の利隆を守ったという。また、督姫もこれを恥じて毒入りの饅頭を食べて死亡したとされる[13]。
史実として忠継は、慶長20年(1615年)2月23日に岡山城内で疱瘡で死去し、督姫は同年2月4日に二条城で死去しているため、死亡した場所や順番、死亡原因全てにおいて異同がある。池田家は利隆系と忠継系に分かれ、それぞれの子孫が岡山藩と鳥取藩の藩主となっていくが、両方の藩の史料で毒殺は否定されている[14][15]。加えて利隆の嫡男・光政は忠継の跡を継いだ忠雄が死去した際に、親密な関係を窺わせる追悼歌[16]を残しており上記のような経緯があったとは考えにくい。
また、昭和53年(1978年)に忠継廟の移転の際に発掘調査が行われ、その際に毒死疑惑検証のため遺体の調査が行われた。その結果でも毒物は検出されることはなかった。
脚注
- ↑ 『徳川幕府家譜』.
- ↑ 『池田氏家譜集成 慶安寺略記』. .
- ↑ 田端泰子 『山内一豊と千代―戦国武士の家族像―』 岩波書店〈岩波新書〉、2005年、229頁。
- ↑ 『本光国師日記』.
- ↑ 福昌山本教寺にある督姫の肖像画の裏書より
- ↑ 二人の並びは没年順であり、姉妹の生年順とは一致していない可能性もある。
- ↑ 『因府年表』では池田利隆の許嫁とし、『池田氏家譜集成 池水記』では妙玄院(法名の誤記と思われる)が死んだとき十七歳だったとする記述がある。
- ↑ 下記の生年は池田氏家譜集成に収録されている因州鳥取慶安寺略記による。
- ↑ 実年齢ではおおよそ45歳になり、現代でも高齢出産の範囲になる。
- ↑ 氏直とは13歳差になる。当時の結婚で夫と年齢差があるのはよくあることだが、初婚で子もいない氏直がまだ出産できない年齢の女性を正室に迎えたということになる。
- ↑ 『義演准后日記』の元和元年正月晦日の条
- ↑ 『義演准后日記』の慶長18年6月16日の条
- ↑ 『武徳編年集成』.
- ↑ 『池田家履歴略記』文禄三年甲午 良正院殿入輿.
- ↑ 『池田氏家譜集成』.
- ↑ “『池田忠雄追悼歌』”. 林原美術館. . 2018年5月20日閲覧.