相対性理論
相対性理論(そうたいせいりろん、独: Relativitätstheorie, 英: theory of relativity)または相対論[1]は特殊相対性理論と一般相対性理論の総称である。量子論に対し古典論に分類される物理の分野としては、物理史的には最後の「大物」であった。量子力学と並び、いわゆる現代物理の基本的な理論である。
特殊論・一般論ともアルベルト・アインシュタインにより記述された。まず、等速運動する慣性系の間において物理法則は互いに不変であるはずという原理(相対性原理)と光速度不変の原理から導かれたのが、特殊相対性理論である(1905年)。特殊相対性理論は、時間と空間に関する相互間の変換が、相対速度が光速に近づくと、従来のいわゆる「ニュートン時空」的に信じられていたガリレイ変換の結果とは違ったものになること、そういった場合にはローレンツ変換が正しい変換であることを示した(「ミンコフスキー時空」)。
続いて、等価原理により加速度によるいわゆる「見かけの重力」と重力場を「等価」として、慣性系以外にも一般化したのが一般相対性理論である(1915〜1916年)。
命名
1908年(明治41年)にマックス・プランクが、相対性理論という語を作り、どのように特殊相対性理論(のちに一般相対性理論も)相対性原理を適用するのかを説明した。
日本での名称
大正年間に相対性理論が日本語に翻訳された時に、「相対(あいたい)」が男女の仲を意味し(「相対死に」は心中の意味)、かつ“性”の字がついていたため、世間の誤解を招いた。実際京都大学の教授が行なった講演会に対して社会的非難をあびせられたという。そのため当時は「相対原理」と訳した学者が多かった。
反『相対性理論』
相対性理論は、その意味することが正しく理解されたかということを別論として、物理学を始めとする自然科学の分野のみならず、社会的現象として広く受け入れられた。
その反面として、その結論に同意できない立場などが、科学的反論ではなく、反-相対性理論とでも言うべき一種の社会的運動となった。特に、これはアインシュタインがユダヤ系であり平和主義者であるということが、国家主義者に嫌悪され、第一次世界大戦にドイツが敗戦した後には、パウル・ヴァイラントによる、反相対性理論キャンペーンがはられたりもした。
1921年にアインシュタインはノーベル物理学賞を受賞するが、これは光電効果の発見を理由としており、相対性理論を対象としての授与ではなかった。
物理学者の世界においても、ユダヤ的であるという理由でアインシュタインの業績を認めない、フィリップ・レーナルトやヨハネス・シュタルクらの一派があった。彼らは、相対性理論の結果は認めるがそれをアインシュタインの成果としないという立場のゆえに、E=mc²の発見はフリードリヒ・ハーゼノールに帰せられるなどの主張を行い、アインシュタインを攻撃した。これらの一派は、ナチス政権が成立するとそれに同調し、政権崩壊とともに勢力を失った。
画廊
- World line-es.svg
- World line2-it.svg
- Sagnac effect 1 NT.PNG
- Michelson-Morley experiment (en).svg
英語版より。
- Kennedy-Thorndike experiment DE.svg
英語版より。
脚注
関連項目
参考文献
- メラー 『相対性理論』 永田 恒夫, 伊藤 大介(訳)、みすず書房、1959年。