益谷秀次

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益谷 秀次(ますたに しゅうじ、1888年1月17日 - 1973年8月18日)は、日本政治家

衆議院議員(14期)、衆議院議長(第46代)、副総理建設大臣行政管理庁長官などを歴任した。

来歴・人物

1888年1月17日、石川県鳳至郡宇出津町(現在の鳳珠郡能登町)に生まれる。旧制海城中学校から神田神保町にあった大成中学に4年編入後、専検から東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科、京都帝国大学法科大学仏法科を卒業。浦和地方裁判所判事から、弁護士となった。

1920年第14回衆議院議員総選挙立憲政友会公認で石川5区[1]から立候補し初当選[2]1924年床次竹二郎一派が政友会を脱党し、政友本党を発足したあたりから政友会で鳩山一郎派に所属していた。戦後の1945年、鳩山一郎を総裁とする日本自由党の結成に参加する。しかし、鳩山が公職追放されたため、吉田茂首相兼外相の下、外務政務次官となり、吉田の知遇を得る。

以後、第2次吉田内閣建設大臣、自由党総務会長、第3次吉田内閣建設大臣(副総理格)を歴任し、大野伴睦林譲治とともに「党人御三家」と称された。吉田退陣後は、池田派に所属した。1955年に、全野党から推される形で与党候補の三木武吉を退けて衆議院議長に就任する。最初の自民党総裁選では2票獲得。その後も、第2次岸内閣の副総理、池田内閣で自民党幹事長の要職を歴任する。

1964年、内閣総理大臣の池田勇人が病気退陣を表明した際には、後継総裁に佐藤栄作を据えるため両者の仲介役としての労を取った。1972年政界を引退し、後継に自らの秘書の瓦力を指名。1973年8月18日85歳にて死亡。林譲治・大野伴睦とともに「政界三酒仙」といわれるくらい、政界きっての酒豪として知られた。

1972年には、学校法人金沢医科大学の理事長に就任。また、世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会第6代会長であった。

選挙履歴

栄典

脚注・出典

  1. 当時の総選挙の選挙区制度は小選挙区制だった。
  2. 第14回衆議院議員選挙 - 石川5区 - 株式会社VoiceJapanが運営する選挙政治の総合サイト・ザ・選挙内のページ。
  3. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  4. 読売新聞「晴れの勲一等親授式 第2回生存者叙勲 清瀬、正力氏ら」1964年11月7日付け朝刊1面
  5. 読売新聞「故益谷氏に正二位」1973年8月21日付け夕刊2面
  6. 読売新聞「[おわび]「故益谷氏に正二位」の記事」1973年8月22日付朝刊3面

参考文献

  • 益谷秀次写真集 同編纂委員会、1974年
  • 戦後政治への証言 : 益谷秀次とその周辺 北国新聞社編、1974年 追悼本
  • 益谷秀次 中正雄 伝記刊行会、1967年 非売品

関連項目


議会
先代:
松永東
日本の旗 衆議院議長
第46代:1955年 - 1958年
次代:
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公職
先代:
石井光次郎
日本の旗 国務大臣副総理
1959年 - 1960年
次代:
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先代:
山口喜久一郎
日本の旗 行政管理庁長官
第19代:1959年 - 1960年
次代:
高橋進太郎
先代:
一松定吉
日本の旗 建設大臣
第2・3代:1948年 - 1950年
次代:
増田甲子七
党職
先代:
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自由民主党幹事長
第6代 : 1960年 - 1961年
次代:
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先代:
河野一郎
自由民主党総務会長
第5代 : 1959年
次代:
石井光次郎
先代:
星島二郎
広川弘禅
三木武吉
自由党総務会長
第2代 : 1950年 - 1951年
第4代 : 1951年 - 1953年
第6代 : 1953年 - 1954年
次代:
広川弘禅
三木武吉
大野伴睦
名誉職
先代:
松村謙三
最年長衆議院議員
1969年 - 1972年
次代:
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