白河の関
白河の関(しらかわのせき)は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所である。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い。
福島県白河市旗宿がその遺構として認定されており、国の史跡に指定されている。
概要
その設置の年代は不明である。六国史における白河の初出は718年(養老2年)5月2日 (旧暦)に陸奥国から「白河」など5郡を分割して石背国を設置するという記事で、その後728年(神亀5年)4月11日 (旧暦)には白河軍団の新設[1]を許可、そして769年(神護景雲3年)3月13日 (旧暦)には陸奥国大国造道嶋宿祢嶋足の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、白河郡では丈部某と大伴部某がそれぞれ阿部陸奥臣および阿部会津臣を授かっている。また780年(宝亀11年)12月22日 (旧暦)には陸奥鎮守府副将軍の百済王俊哲が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。
こうしたことから、ヤマトの軍事的要衝としての白河関の機能は平安中期には解消したものと考えられている。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した時に、梶原景季に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。 関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。
1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年(昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された。
なお、白河関にちなみ東北地方および北海道をまとめて「白河以北」と称する場合がある。宮城県の地方紙「河北新報」の名は、これに由来する。
ギャラリー
- Sando.jpg
白河神社 参道入口
- Shirakawa jinja.jpg
白河神社 参殿
- Moat.jpg
白河の関 堀跡
- Shirakawa-no-Seki monument.jpg
松平定信による古関蹟
- Sugi, Shirakawa no Seki.jpg
従二位の杉
- Shirakawanoseki-kuhi.jpg
奥の細道の句碑
白河検問所
白河警察署が西白河郡西郷村大字小田倉字稗返103(北緯37度06分39.3秒東経140度08分44.7秒)の国道4号沿いに設置している常設の検問所。関東からの犯罪流入を防ぐことを目的とし、「現代の白河関」と称している。1975年(昭和50年)に設置された後、東北自動車道の開通に伴い交通量が減ったため1984年(昭和59年)から実質休止していたが、2004年(平成16年)5月27日に復活した。
脚注
- ↑ 白河軍団の新設と同時に丹取軍団を玉作軍団に改めるとある。
関連項目
- 北海道・東北の史跡一覧
- みちのく
- 日本の高校野球 - 2018年現在、選抜高等学校野球大会・全国高等学校野球選手権大会共に、現在東北6県の学校が未だに全国制覇していない事から「優勝旗は白河の関を越えていない」と評される事がある。
- 都市対抗野球大会 - 2006年にTDK硬式野球部(秋田県にかほ市)が東北のチームで初制覇した際、「黒獅子旗は白河の関を越えた」と言われた。
外部リンク
- 芭蕉と白河の関 - おくのほそ道文学館(「白河の関」を歌枕とする和歌の一覧有り)
- 国指定文化財等データベース