甲本ヒロト

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甲本 ヒロト
出生名 甲本 浩人
生誕 (1963-03-17) 1963年3月17日(61歳)
出身地 日本の旗 日本 岡山県岡山市
学歴 法政大学経済学部中退
ジャンル ハードロックパンク・ロックロックンロールフォークロックブルースロック
職業 ミュージシャン
シンガーソングライター
作曲家
担当楽器 ボーカル
ギター
ハーモニカ
ベース
ドラムス
活動期間 1980年 -
レーベル BMG JAPAN
事務所 ハッピーソング
共同作業者 ザ・コーツ
THE BLUE HEARTS
ヒューストンズ
↑THE HIGH-LOWS↓
ザ・クロマニヨンズ
公式サイト 甲本ヒロト(公式サイト)
ロバート・ジョンソンビートルズローリング・ストーンズザ・フーキンクスマンフレッド・マンドクター・フィールグッドセックス・ピストルズザ・クラッシュザ・ダムドザ・ジャムラモーンズディープ・パープルキッス

甲本 ヒロト(こうもと ひろと、本名:甲本 浩人1963年3月17日 - )は、日本のミュージシャン。身長174cm、血液型O型[1]。既婚。俳優甲本雅裕は実弟。

ラウンド・アバウトTHE COATSTHE BLUE HEARTSヒューストンズ↑THE HIGH-LOWS↓を経て、現在はザ・クロマニヨンズボーカリストを務める(バンドとしての活動については、各項目を参照)。

来歴

岡山大学教育学部附属小学校岡山大学教育学部附属中学校を経て、岡山県立岡山操山高等学校(現在の岡山県立岡山操山中学校・高等学校)卒業。法政大学経済学部経済学科に進学する。

1980年亀山哲彦らに誘われ、ラウンド・アバウトに加入。1982年頃に解散し、THE COATSを結成。1984年に解散。

1985年真島昌利らとTHE BLUE HEARTSを結成。1987年にシングル「リンダリンダ」で、メジャーデビューした。1994年、THE BLUE HEARTSは活動休止。1995年に解散を発表した。

THE BLUE HEARTSが活動休止中(実際には解散状態)の1995年、ソロアルバムを制作し、ジャケットデザインやレコーディングも完了していたが、前所属事務所との契約上のトラブルにより未発表に終わった。また、真島と共に有限会社ハッピーソングを設立。 1997年9月には、真島と共に資金を出して機材倉庫を改装して造られた、アトミック・ブギー・スタジオが完成。

1995年、真島に誘われ↑THE HIGH-LOWS↓を結成。10月25日、シングル「ミサイルマン」、アルバム『THE HIGH-LOWS』を同時発表。2005年に活動休止を発表。

2006年7月、ソロ・シングル「真夏のストレート/天国うまれ」発表。ギターのみならず、ベースドラムスなど、ほぼ全てのパートを一人で演奏。

2006年春、真島らとザ・クロマニヨンズを結成、7月23日を皮切りに大型ロックフェスの出演とツアーを敢行した。9月20日にシングル「タリホー」を発表。

2007年10月に急性疾患にかかり、予定していたライブを延期する事態となったがその後、復帰した。

音楽

中学生時代、セックス・ピストルズに衝撃を受け、「中学を卒業したら高校へは行かずに、上京してロックンローラーになりたい」と親に言うも、反対される。

シド・ヴィシャスの影響で元々はベーシストに憧れていたが、「誰にでも出来る」という理由でボーカリストになった。高校3年生の夏休みに、ボーカルが抜けた友人のハードロックバンド「ラウンド・アバウト」に誘われて加入。これが甲本のバンド初体験だった。

THE BLUE HEARTS初期は、荒削りな歌声だったが、『BUST WASTE HIP』以降ハイロウズまでは歌い方が変わっている。 ザ・クロマニヨンズからは再びTHE BLUE HEARTSの頃を彷彿させるような、がなり立てる歌い方をする曲もある。 曲によっては、ギターや10穴ハーモニカ(愛用は、H0HNER社製のSpecial 20)の演奏もする。ハーモニカを始めるきっかけは、ドクター・フィールグッドのレコードを聴いて、自分でも出来そうな気がしたからだという。

パンクロックだけでなくブルースも好きで、インタビューや歌詞に、マディ・ウォーターズサニー・ボーイ・ウィリアムスン等のブルースシンガーの名前がよく出てくる。

最初に音楽をはじめるきっかけとなったのは岡山に大好きなシーナ&ザ・ロケッツがツアーで来た際、親に「不良が多いからだめだ」と言われライブには行けなかったが諦めきれず、ライブ後にシーナ&ロケッツがラジオに出ると聞いて放送局の裏口に父親と一緒に待ち伏せし、「サインをください」と駆け寄ったエピソードが有名。その際、鮎川誠シーナに初めてラジオ局の中に連れて行ってもらいラジオを見学した後、鮎川誠に「僕、まだロック未体験ですけど、僕にもロックンロールができるような気がするんです」と発言。「大丈夫。きっとできるよ!」と強く言われたことがTHE BLUE HEARTS結成のきっかけ。下北沢でバイトしていたのも、鮎川誠シーナが在住していたということからだった。また1995年↑THE HIGH-LOWS↓結成前夜には、「今、新しいことをしようって思っていて、だからもう一度2人に会ってみたかった」と、ヒロトの希望により鮎川誠シーナとの対談が初実現した喜びを音楽雑誌パチパチロックンロールの紙面で語っている。THE BLUE HEARTSのファーストアルバムはシーナ&ザ・ロケッツの奈良敏博、浅田孟(ベース)がプロデュースとして関わっている他、2014年のシーナ&ロケッツの新譜「ROKKET RIDE」の発売に際しては「憧れです。シーナ&ザ・ロケッツに憧れない奴なんかいるのか?全てのロックンロール小僧に勇気を!!」と祝福コメントを出している。

歌詞

シンプルな言葉を使いながらも、趣深さ、シュールさの溢れる世界観を表現している。

バンド、年代によってテイストが微妙に変わっており、THE BLUE HEARTS初期〜中期では飾り気なくストレートな歌詞が、人気を博し、THE BLUE HEARTS後期から↑THE HIGH-LOWS↓ザ・クロマニヨンズの現在に至るまで、初期からの平易な言葉遣いは一貫しているものの、表現力に奥深さを増し、解釈を自由に聴き手に委ねるような歌詞が増えた。

バイク(「MONKEY」「ピストン」「49cc」)、釣り(「テトラポットの上」)、NBA(「フルコート」)、ルチャ・リブレ(「Born To Be Pooh」「メキシコの星」)など、好きなものをモチーフにした歌詞がある。

ライブパフォーマンス

手足や頭を大きく振って跳んだり、舌を出したり、鼻をほじったり、全裸になったりなど、エキセントリックなライブパフォーマンスを見せる。 これ等は本人が意図的にしているというよりは、ライヴ中の高揚、ロックンロールを心から楽しんでいるという気持ちから自然に出てしまうものである。

真島昌利との関係

  • 真島昌利とはTHE BLUE HEARTSから、30年以上バンドを組み続けている。甲本のインタビューによれば、若い頃から、将来は親の世話になろうと思っていて働く気の無かった自分を[2]、真島が「お前はやれば出来る子なんだよ!」と、叱咤激励し続けてきたと語っている。また、上京して友達がなかなか出来なかった甲本にとって[3]、誰より自分を理解してくれた真島を、「自分にとって特別な存在だから、彼の期待を裏切りたくない」と言っている。真島とはプライベートでの交流も盛んであり、休日には二人で中古レコード店を回ったりすることもある。2013年2月8日放送の「ミュージャック」(関西テレビ)で、真島と一緒に東京ディズニーランドに行った際、チップのグリーティングに割り込んで(故意ではない)写真を撮ろうとして、チップに注意されたエピソードを披露した。
  • ブルーハーツ結成直後、真島とバンドの今後について話し合いをしていたところ、突然、「『バッテンロボ丸』の再放送が観たい」と言って自分の部屋に戻ってしまった。これに真島は激怒し、甲本の部屋に突入するや否や、甲本が「ちょっと待って,この番組が終わってから」と言ったその時、真島がテレビのコンセントを『ブチッ!』と抜かれ、真島が甲本に、「こんなもの(テレビ)があるからいけないだ!」と言ってテレビを撤去し、隣に住んでいた山川のりをの部屋に持っていってしまった。普段は温厚な真島のあまりの激高ぶりにショックを受けた甲本は、信頼を取り戻すために、「リンダリンダ」と「ブルーハーツのテーマ」を制作した。

人物・エピソード

  • 作曲に関して本人は「常時スランプ」と2017年の安美錦竜児との対談で語っており、1曲作ると「もう出てこないな」「出てこなかったらバイトするしかないな」と毎回思っていたという[4]
  • 好物は豆とハム。
  • 幼少時代のあだ名は「ボケ作」(小学校の担任教師が名づけた)。
  • 子供の頃、桃太郎少年合唱団に所属していて賛美歌などを歌っていたが、過去の定期演奏会パンフレットや名簿などに彼の名前は存在しない。
  • 小学校の夏休みの宿題に爪楊枝を折って「歯の裏をほじれるツマようじ」として提出した。毎年、夏休みの宿題を提出していなかったヒロトは、参観日の日に母親に褒めてもらえると期待していたが、作品に気付いてもらえなかった。それを聞いた真島は、「他の人の作品の部品が転がってると思ったんじゃない?」と追い討ちをかけた[5]
  • 高校時代は剣道部。
  • 実家はクリーニング店「ドライ甲本」を経営していた(2013年現在は閉店)。父について、「父親はアイロンを握っている姿が一番カッコよかった」と語っている。
  • 上京を志した時父親を説得できなかったため激高し殴りかかってしまい、泣きながら謝罪したと語っている。

 ・高校卒業後、大学受験を口実にして上京する。

  • 初めて買ったレコードは、西城秀樹の『薔薇の鎖』。本当は、『激しい恋』を買うつもりが間違えた。
  • 真空管アンプを自作している。
  • インタビューなどで雑誌に写真が出る時は、大抵、ロックTシャツを着ている。ファッション雑誌の表紙を何度か飾っている。
  • ザ・コーツ解散時に彼が住んでいた笹塚の廃家は、霊感の強い友人曰く、の通り道になっており、甲本も数々の心霊現象を体験している(例・を履こうとしたら中に大量の血が入っていたなど)。
  • インディーズ時代、アルバイト先のラーメン屋「珉亭」で「ロケット号」にまたがり出前をしていた。また、ほぼ同じタイミングで俳優の松重豊もアルバイトとして採用されており、松重とは現在も交流がある。
  • 甲本が周囲に薦めた事がきっかけで、バンドマンの間ではツアー中に兵庫から広島へ行く際、「ヌー」というラーメン屋に寄る事が定番となっている。しかし、実際の店名は「ヌー」ではなく「又一(またいち)」である。
  • 1981年5月、日本テレビ系列で放送されていた「スター誕生!」の前説にラウンド・アバウトで出演。甲本が生まれて初めて作った曲「Jump'in Jap 3-3-7」を演奏した。
  • ザ・ローリング・ストーンズザ・フーが訪日すると、スケジュールを開けて、出来る限りライブを観に行っている[6]
  • ソロでイベントに出演する際、セックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・U.K.」を自作の日本語の歌詞をつけて歌うことが多い。
  • お金を払って見に行った日本のバンドのライブはDragon Ashだけ(しかし1995年のライブでは「この前イエモンのチケット買うて武道館行ったんやけど‥」と発言している)。
  • 2005年に弟の雅裕がテレビ出演した際、雅裕は「(私生活は)僕より謙虚ですよ」と語っていた[7]
  • ブルーハーツ結成直後、丸坊主に白い肌着という、それまでのロックのイメージに反する様相でステージに立つことに迷いを抱くが、「ものすごくロックが好きな自分がいいと思うんだから、これでいいんだ」と思い、自分らしさを貫いた。
  • 浅草キッド水道橋博士とは岡山大学教育学部附属中学校の同級生で、ミュージシャンと芸人になってから再会して家族ぐるみの付き合いをしている友人である[8]。当時の呼び方は「こうもったん」「小野君」。甲本は中学の同級生がたけし軍団に入っていることを甲本の高校と大学の先輩である大森うたえもんから教えられるが後に実際に会うまでその人物が「小野君」だと判っていなかった。水道橋曰く、「ヒロトはいつもの自然体で答える。対して、僕はタメ口で喋っていてもぎこちない」[9]
  • 2009年5月の忌野清志郎の葬儀には、清志郎の最期の姿がステージ衣装であったことに敬意を込めて革ジャン姿で現れ、弔辞を述べた[10]
  • SPレコードのコレクターで戦前のブルースとエルヴィス・プレスリーの50年代の作品が多い。
  • 蓄音機を所有している。

趣味

趣味でやっている覆面バンド「モンキー・アンクルズ」では、ベースを弾いている。

自らカスタムする程のバイク好き(ハーレートライアンフヤマハ・トリッカー乗り)。沖縄に行くとハーレーのレンタバイクを借りて、タコス屋等を一人で回っている。

アニメ・特撮戦隊ヒーローモノも好む。アニメでは、「タイムボカンシリーズ」や「ドラえもん」、「いなかっぺ大将」を好む。『キン肉マン』も大好きで、「キン肉マン77の謎」の投稿超人コーナーに甲本が考案した超人「クアドロフェニア(名前はザ・フーのアルバム『四重人格(Quadrophenia)』から)」が掲載される。

また、 プロレス格闘技や映画が好き。同郷のプロレスラー田村潔司ジムU-FILE CAMP」の創設期の会員(No.2)で、ジムに何度か通っていた。またプロレス雑誌のKAMINOGEの表紙も飾っている。

ミュータント・タートルズ」や「ガンビー」などのフィギュアの収集をしている。

タイムボカンシリーズ

タイムボカンシリーズの熱烈なファン。タイムボカンシリーズの再放送が見たいがために、バンドの練習に行きたくないと駄々をこねたことがあった。同シリーズの音楽担当である山本正之のファンでもあり、ザ・コーツ時代から親交を深めている。それが縁で山本のアルバムなどにコーラスとして参加するなどしている。

ディスコグラフィー

ゲスト参加

楽曲提供

  • 宮沢りえ「ボーイフレンド」「恋が命中」作詞・作曲(1993年)
  • 坂井真紀「ビーナス」作詞・作曲(1997年)
  • 坂井真紀「シャボン玉」作詞・作曲(1998年)
  • 2丁拳銃「見せてごらん」作詞・作曲(1999年)
  • あのねのね「∥(ひと)」作詞・作曲(2001年)
  • PUFFY「モグラ」作詞・作曲(2006年)
  • 木村充揮「プロフェッショナル」作詞・作曲(2006年)
  • 中ノ森BAND「イソブラボー」作詞・作曲(2007年)
  • シシド・カフカ「バネのうた」作詞・作曲(2015年)
  • 大西ユカリ「ハルカロジ」作詞・作曲(2016年)

関連書籍

脚注

出典

  1. スタスケ ザ・テレビジョン
  2. 「一生、親に養ってもらって、テレビとお菓子の生活をする」のが小さい頃の人生設計
  3. 上京後は友人・知人がほとんど出来ず、原宿新宿を歩き回って友人探しに明け暮れていた。
  4. Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p58-59
  5. ブルーハーツのしおり-ひと夏の経験編 角川書店、1990年
  6. 6月13日 金曜日 水道橋博士の「博士の悪童日記」、2003年6月13日。
  7. 伝説!ザ・クロマニヨンズ甲本ヒロトのパンクなエピソード”. LiveFreak. . 2017閲覧.
  8. 水道橋博士『藝人春秋』233頁、文藝春秋社、2012年12月5日
  9. 水道橋博士『藝人春秋』234頁
  10. 甲本ヒロトから忌野清志郎へ送られた弔辞 全文 - ログミー”. . 2017閲覧.
  11. ウィキペディアの間違い情報発見!甲本ヒロトの1996年の参加CDだが、そのコピペが流布され、間違いが全体に広がっている。ここで正しい参加CDを紹介しよう。曲はあの「The Weight」”. . 2017閲覧.

関連項目

関連人物

外部リンク

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