珠洲原子力発電所

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珠洲原子力発電所(すずげんしりょくはつでんしょ)は、石川県珠洲市に建設する計画であった原子力発電所である。

北陸電力中部電力関西電力電力会社3社(以下電力3社と表記)による共同運営が予定されていたが、1975年の計画浮上から28年目の2003年12月5日に計画が凍結された。

概要

電力3社が共同で運営を予定していた原子力発電所で、中部電力側が珠洲市三崎町寺家地点で、北陸・関西両電力が珠洲市高屋地点(関西側が主導)で発電施設を共同開発するものであった。

2か所で合わせて135万kWクラスの原子炉2基を設けて、2014年平成26年)に運用を開始する計画を立てていた。

計画から28年間、地元からの反対運動や産業構造の変化や景気低迷に伴い、電力会社側の判断により計画が凍結されることとなった。

沿革

※記載の役職名は当時のもので表記(以降同じ)。

  • 1975年
  • 1983年12月16日 - 市議会において、珠洲市長の谷又三郎が原発推進を表明
  • 1984年
    • 3月5日 - 電力3社が原発立地調査を珠洲市に申し入れ
    • 4月1日 - 北陸電力珠洲営業所内に「珠洲電源開発協議会」を設置
  • 1986年6月14日 - 市議会で原発誘致を議決
  • 1987年4月26日 - 珠洲市議会議員選挙。定数18名の中、反原発の国定正重が初当選して1議席を奪還
  • 1988年12月14日 - 北陸・関西両電力が珠洲市に高屋地区での立地可能性調査を申し入れ
  • 1989年
    • 5月12日 - 関西電力が高屋地区での立地可能性調査に着手
    • 5月22日 - 建設反対派住民が珠洲市役所内で座り込みを開始、その後40日間続けられる
    • 6月16日 - 関西電力が立地可能性調査を一時見合わせることを表明[1]
  • 1993年
    • 6月29日 - 珠洲原子力発電所1号機・2号機を国が要対策重要電源に指定
    • 9月28日 - 市議会が電源立地促進を議決
  • 1996年5月31日 - 1993年4月18日に実施された珠洲市長選挙の無効訴訟で最高裁が上告を棄却し推進派である林幹人(はやし みきんど)の当選無効が確定
  • 2003年12月5日 - 電力3社が珠洲市長へ珠洲原子力発電所計画の凍結を申し入れ

建設計画の浮上

珠洲市での原子力発電所建設計画が浮上したのは、1975年8月に発覚した、能登半島先端部における北陸電力の原子力発電所共同開発計画が端緒となっている[2]。同年10月30日、珠洲市議会は全員協議会において「原子力発電所、原子力船基地等の調査に関する要望書」を国に提出することを議決し、やがて石川県知事の中西陽一に手渡した。当時中西は能登半島への原子力発電誘致を加賀・能登の格差是正や産業振興、過疎化抑制の手段とし、原発推進の姿勢を示していた。その中で、珠洲より先に羽咋郡志賀町志賀原子力発電所の建設が決定した。

この動きから、電力3社は珠洲市内での原子力発電所建設構想を打ち出した。要望書提出後の国による立地予備調査を経て、珠洲市側は一度は静観するものの、1983年12月16日に珠洲市長の谷又三郎が市議会で原発立地推進を表明した。

翌年には電力3社による珠洲市への立地可能性調査の申し入れと「珠洲電源開発協議会」の設立が行われ、原発立地への動きが進められた。

建設反対運動

電力3社と珠洲市側による建設推進行動と平行して、市民側でも原発建設反対への流れが進んだ。1978年には市民および漁協など地域単位での建設反対運動により「珠洲原発反対連絡協議会」を設立し、総評系労働組合や日本社会党珠洲総支部などの支援を受けた。 1989年5月12日には関西電力が高屋地区での立地可能性調査に着手するが、建設反対派による阻止行動や珠洲市役所での座り込みにより、同年6月16日に調査を一時見合わせることを決定した。建設反対派は調査見合わせ決定の翌日に「珠洲原発反対ネットワーク」を設立し、その後珠洲市議会や石川県議会へ建設反対派議員を送り込むことになった。

珠洲市長選挙をめぐる混乱

1993年4月18日、当時原発立地を推進していた現職の林幹人(はやし みきんど)と建設反対派の樫田準一郎(かしだ じゅんいちろう)で珠洲市長選挙が行われたが、投票数に対し投票総数が16票多かったことから不正選挙の疑惑が浮上した。

建設反対派は選挙無効を石川県選挙管理委員会に申し立てたが、委員会はこれを却下した。建設反対派は同年12月に名古屋高等裁判所金沢支部に選挙無効を提訴し、1995年12月11日に選挙無効の判決が出された。その後、石川県選挙管理委員会は最高裁判所に上告するが、1996年5月31日に上告を棄却する決定が行われ、選挙の無効が確定した。

同年7月14日にやり直し選挙が行われたが、不正を行ったとされる林は立候補できず、珠洲市職員だった貝蔵治(かいぞう おさむ)を後継候補に指名した。この時も原発立地推進を唱える貝蔵が当選した。

その後、推進派は継続したが、2006年、反対派である現市長(2016年現在)の泉谷満寿裕が立候補し初当選。住民の意思のもと原発設置の反対が確立された。

建設計画の凍結

建設計画浮上から28年後の2003年12月5日、電力3社の社長3人(北陸:新木富士雄、中部:川口文夫、関西:藤洋作)が珠洲市役所を訪れ、産業構造の変化と電力需要の低迷を理由に珠洲原子力発電所の建設計画凍結を珠洲市長の貝蔵治に申し入れた[3]。1993年に要対策重要電源の指定を受けながら、電力会社の判断で建設中止を決定した初めてのケースであった。

建設計画が凍結されたきっかけは、住民の建設反対運動に加え、計画地点での未買収用地が1割から2割残ったことも要因とされている。その後、珠洲電源開発協議会も解散し、原子力発電所の立地騒動は収束した。なお、同じ月には新潟県西蒲原郡巻町(2011年現在の新潟市西蒲区)に建設計画があった東北電力巻原子力発電所も計画を撤回している。

脚注

  1. 『関西電力五十年史』1210頁 - 関西電力(2002年)
  2. 北國新聞 1975年10月2日付朝刊1面
  3. 珠洲原発計画を断念 関西、中部、北陸の3電力 - 47NEWS 2003年11月27日

参考文献

  • 『北國新聞に見るふるさと110年 下巻』184頁 - 北國新聞社(2003年)
  • 『石川県の電源立地とエネルギー開発』34頁から37頁 - 石川県企画開発部資源エネルギー課(2002年)
  • 『ためされた地方自治 原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年』 - 山秋真(桂書房、2007年)ISBN 978-4-903351-30-8

関連項目

外部リンク