王政復古(フランス)

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Restauration

(1) 第1次王政復古 (1814.4.~1815.3.)  ナポレオン1世の第一帝政の崩壊に続くブルボン朝による王政復古

1814年4月6日王位に招聘されたプロバンス伯ルイ 18世は,6月4日憲章を公布した。これは一応,法の前の平等,所有権の不可侵,基本的人権を規定していたが,極端な制限選挙制度,貴族院の優位性をうたっていた。 12月には革命政府によって国有化された貴族領の未売却分を無償で旧所有者に返すという立法が行われ,ユルトラ (極右王党派) と呼ばれる旧貴族はこれを足掛りに社会的地位の回復をはかった。しかし,こうした事態は復古政権の評判を落し,また一方革命以来のヨーロッパ動乱の善後策を講じるために開かれたウィーン会議では列強の利害の対立が現れ,この状況を正確にとらえたナポレオンは,エルバ島を脱出して (15.3.) ,フランスに上陸,ルイ 18世はリールに逃れた (15.3.19.)

(2) 第2次王政復古 (1815.7.~1830.7.)  ナポレオンのいわゆる「百日天下」のあと,再び王位についたルイ 18世とシャルル 10世の時代

この 15年間を特徴づけるものは,復古政権が旧貴族大土地所有者を基礎として,上層ブルジョアジーに対して妥協的な保護関税を維持したことである。ルイ 18世は 15年7月パリに帰り,8月の選挙ではユルトラが勝利し「またと見出しがたい議会」といわれたユルトラの支配する議会が生れた (16.9.解散) 。 18年 12月にはリシュリュー公アルマン=エマヌエルに代って .ドカーズ内閣が成立したが,ベリー公の暗殺を契機に 21年の選挙でユルトラが多数を占め,ビレール伯内閣が生れた。 24年シャルル 10世が即位するとユルトラの地位は強化されたが,不敬罪法や,国家によって売却された土地の旧所有者に対する賠償のための「十億フラン法」の成立,さらに聖職者の勢力拡大は,ブルジョアジーの反教権主義を強化した。 28年ビレールは辞職し,マルティニャック子爵が跡を継いでブルジョアジーと貴族との和合策を講じたが成立せず,続くポリニャック大公も 27年からの経済危機によって悪化した諸局面を克服することができず,30年6~7月の新選挙で議会に多数の反対派が生れた。シャルル 10世は7月 25日クーデターによる解決を望み,立憲制と言論・出版の自由を廃止する七月勅令を発布し,大土地所有者に有利な選挙法の改正を志向したがパリの小市民や労働者が反乱を起し,七月革命が勃発した。