狩野川

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狩野川(かのがわ)は、静岡県伊豆半島を流れる狩野川水系の本流で、一級河川。水系の流域面積は852km2で静岡県の面積の11%を占める[1]

友釣り発祥の地という説があるほど友釣りが盛んで[注釈 1]、「狩野川を制すれば全国を制す」と評されている[3]。源流部では天城山の清流を利用したワサビ栽培が盛んである。

特徴

ファイル:Izu Peninsula Shizuoka Japan SRTM.jpg
伊豆半島の地勢。半島を北流するのが狩野川本流。右中央が源流の天城山ランドサット衛星写真。スペースシャトル標高データ使用。
ファイル:Mt fuji and mt ashitaka.jpg
狩野川の下流。富士山の南東斜面は支流黄瀬川の源流となる。

伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流。沖積平野である田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注ぐ。静岡県内の大河川で北流するものは本川だけである[4]。これはかつて島であった伊豆半島が、フィリピン海プレートの移動によって本州側のプレートに衝突し隆起したことによる[4]。また、一級水系の大河川にしては河口付近でもそれほど川幅が広くならない。これは大支流である黄瀬川が造りだした三島扇状地(黄瀬川扇状地とも)があるためである[4]。また、水利用の大型ダムがなく、これは一級水系にしては数少ない特徴である[注釈 2]

狩野川水系は、静岡県伊豆市の天城山に発し、伊豆半島中央部の大見川等の支川を合わせながら北上し、田方平野に出て、伊豆の国市古奈で狩野川放水路を分派し、さらに箱根山や富士山等を源とする来光川、大場川、柿田川、黄瀬川等を合わせ沼津市において駿河湾に注ぐ、幹川流路延長約46km、流域面積852km²の一級河川である。

源流にあたる天城山は、年間降水量が3,000mmを越える多雨地帯であり[注釈 3][1]、豊富な水量と良好な水質により古くから繊維業、製紙業、醸造業等の発展に寄与してきた。特に、天城山の清流を利用したワサビ栽培は、全国一の生産額を誇っている。一方で、標高差が大きく流れが急なことや、下流部で蛇行することもあり、古くから洪水が多発した。

また、狩野川流域は火山地帯であり、箱根山愛鷹山・富士山・天城山・達磨山などの第四紀火山や、新第三紀に形成された火山性地層からなる静浦山地などに囲まれる。そのため流域の多くが脆弱な火山岩及び火山噴出物で地質が構成され、大雨などで崩壊しやすいことも洪水の要因である[1]

名称の由来

最も一般的な由来は『日本書紀』によるもので、応神天皇5年(274年)に伊豆の国で船を造り、その名を「枯野」と称したとあり、それが軽野(カルヌ)からカヌに変わったという説である。現在でも伊豆市の湯ヶ島地区の松ヶ瀬には、軽野の造船儀礼と深く関わっていた神社である軽野神社が残されている[1][5]

歴史

氷河期が終わり、海面が現在よりも数m高くなった約6,000年前の縄文時代には、縄文海進という海水面が高かった時代があり、その頃には伊豆の国市の旧伊豆長岡町付近までは入江で、古狩野湾を形成していた。やがて海面が低下し始めると、狩野川が土砂を堆積させ現在の田方平野を形成していった[1]

その後、約1,000年前の狩野川は、自然堤防の状況から、旧大仁町・旧韮山町のあたりでは現在よりも東側を流れていたことが確認できる。また、旧伊豆長岡町では網目状に旧河道が分布し、洪水のたびに流路が変わったことを示している。当時は中州がいくつもできて島のようになり、「和田島」や「蛭ヶ小島源頼朝の流刑地と伝わる)」などと呼ばれていた。その後、狩野川の流路は次第に西側に移り、鎌倉時代と伝えられる「守山開削」(地図)により守山の西に移され、現在とほぼ同様の流れになった[1](ただし史実としての確認はとれていない[6])。その他にも昭和期には沼津市の大平地区の湾曲部に捷水路(地図)が掘削[4]されたほか、狩野川放水路も造られた(後述)。

災害史

ファイル:Drainage Canal of Kano River 03.jpg
狩野川放水路(中央開水路)、奥は長岡トンネル
ファイル:Kanogawahosuiro20150912.png
狩野川放水路の全区間。星印は分流点と河口を表す。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

奈良時代以降、狩野川の水害で最も古い記録は、709年(和銅2年)の長雨による洪水で、稲苗の被害大と記録されている[1]

狩野川台風狩野川放水路

1948年(昭和23年)のアイオン台風の被害を受け、1949年(昭和24年)に放水路の開削を中心とした改修計画が立案され、1951年(昭和26年)6月から、中流の江間村(現伊豆の国市)から沼津市口野の江浦湾(駿河湾の一区画)に向けて狩野川放水路の建設が始まった。しかし、放水路の完成を待たずして、1958年(昭和33年)9月26日夜、関東地方に上陸した台風22号が伊豆半島を襲い甚大な被害を出した。被害は狩野川流域が最も大きく、同地域での死者・行方不明者が1,000名を越えるようなものだったため、狩野川台風と命名された。なお、放水路の完成は狩野川台風の7年後の1965年(昭和40年)であったが、たとえ狩野川台風の前に完成していたとしても、放水路より上流部での被害が大きかったため、死者を無くすことはできなかった。また、狩野川台風の被害が大きかった現伊豆の国市の神島地区では川を直線化する神島捷水路(地図)が立案され、1960年(昭和35年)に着手し、これも狩野川放水路と同じ年に完成した。

持越鉱山鉱滓ダムの決壊

1978年(昭和53年)の伊豆大島近海の地震では、天城湯ヶ島町(現伊豆市)の持越鉱山鉱滓ダムが決壊し、金製錬で排出されて堆積したシアン化合物を含む鉱滓が流出、支流の持越川を経て狩野川に混入し汚染が広がったが、懸命の除染作業により現在は清流を取り戻している。

戦後の洪水記録

  • 表は国土交通省が作成した複数の資料を基に作成[1][7]
狩野川水系の戦後の洪水記録
発生日 原因 雨量
(mm/24h)
大仁地点
流量
(m3/sec)
被害状況 流域の主な
被害河川
1948年(昭和23年)
9月16日
台風21号
アイオン台風
301
湯ヶ島雨量観測所日雨量
-
床上浸水1,962戸、床下浸水3,680戸
[8]
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -[注釈 4]
床上浸水346戸、床下浸水222戸
[9]
大場川
来光川
1958年(昭和33年)
9月17日
台風21号 229
以下、大仁上流でのティーセン分割による流域平均雨量
約930
木瀬川地点流量(黄瀬川)
負傷者1名
家屋全壊1戸、半壊4戸
床上浸水117戸、床下浸水217戸[10]
大場川
来光川
1958年(昭和33年)
9月26日
台風22号
狩野川台風
533 約4,000 死者684名、行方不明169名
家屋全壊261戸、流失697戸、半壊647戸
床上浸水3,012戸、床下浸水2,158戸[11]
狩野川本川
来光川
大場川
1959年(昭和34年)
8月14日
台風7号 302 約1,500 死者3名、負傷者34名
家屋全壊128戸、半壊537戸
床上浸水1,308戸、床下浸水2,094戸
浸水面積416ha[12]
狩野川本川
来光川
1961年(昭和36年)
6月28日
前線 401 約2,200 家屋全壊9戸、流出29戸、半壊1,195戸
床上浸水6,608戸、床下浸水6,366戸
浸水面積5,000ha[13]
狩野川本川
大場川
1976年(昭和51年)
8月9日
前線 237 約1,000
本宿地点流量(黄瀬川)
床上浸水44戸、床下浸水269戸[13] 黄瀬川
1982年(昭和57年)
8月3日
台風10号 348 約2,200 床上浸水575戸、床下浸水878戸
浸水面積794ha[13]
柿沢川
大場川
1982年(昭和57年)
9月12日
台風18号 385 約2,300 家屋全壊流出1戸
床上浸水190戸、床下浸水449戸
浸水面積302ha[13]
柿沢川
1998年(平成10年)
8月30日
前線 242 約900 家屋全壊3戸、半壊2戸
床上浸水284戸、床下浸水481戸
浸水面積371ha[13]
来光川
柿沢川
1998年(平成10年)
9月15日
台風5号 317 約2,200 床上浸水62戸、床下浸水144戸
浸水面積148ha[13]
柿沢川
2002年(平成14年)
10月1日
台風21号 232 約2,000 家屋全壊1戸、半壊2戸
床上浸水975戸、床下浸水280戸
浸水面積93ha[13]
柿沢川
戸沢川
2004年(平成16年)
10月8-9日
台風22号 336 3.93m
大仁観測所水位
床上浸水228戸、床下浸水377戸
浸水面積433ha[13]
戸沢川
宗光寺川

主な支流

  • 大見川 - 天城山の北東麓が源流部で、上流では清流を使ったワサビ栽培が盛ん。
  • 修善寺川 - 達磨山の東麓を源流とする。通称桂川
  • 大場川 - 最短距離で狩野川の河口へ向かって流れる黄瀬川と違い、大場川は大きく南へ迂回して本流に合流する。これは約1万年前に富士山から流れ下ってきた大規模な三島溶岩流の高台を避け、東側に流れたためである[14]
  • 柿田川 - 湧水による河川で全長約1.2kmと短いが水量は豊富。日本で最短の一級河川[15]
  • 黄瀬川 - 富士山の東南麓を源流とする川。

支流の滝

橋梁

テンプレート:段組

文化

ファイル:Tomozuri 20121026 a.jpg
狩野川で友釣りをする人々、中流にて
ファイル:Izu city, Ikadaba, Wasabi fields 20111002 B.jpg
狩野川水系の源流部とワサビ田、伊豆市筏場
狩野川では鮎の友釣りが盛んであり、「狩野川を制すれば全国を制す」と評されている[16]。また、文献等で友釣りの発祥の地と紹介もされることが多いが、これについては京都説などもある。以下多くの文献で紹介される説や根拠である。
伊豆国代官として世襲してきた江川家に伝わる史料群「江川文庫」に、狩野川でアユの友釣りが盛んになったことを伝える「頼書一礼之事」と題した1832年(天保3年)の文書が残っている。これには「梁漁を請け負っているが、友釣りが流行って収入が上がらなくなり、梁漁に伴う税金も納められなくなるため、友釣りを禁止してほしい」と、地元の村々の役人が韮山代官所に訴える内容である。また、友釣りについて「『新規の漁事』として、天野堰所(現伊豆の国市、地図)で2年ほど前に始まった」とも記述されている。
上記の文献以外にも狩野川における友釣りの始まりが天野堰所だったと複数の記録に残っている[17][18]
他にも、伊豆市の大平(地図)にあった瀧源寺(ろうげんじ)の虚無僧で、尺八の名手であった法山志定(1780年(安政9年)没)が発案したという伝承も残る[19]
明治時代に始まり、現在は観光用[20]
  • こいのぼりフェスティバル - 沼津市
河口付近で行われる。第1回の開催は1984年で小規模な形で開催された。2010年で26回目の開催を迎えた[21]
  • 川神浄(かわかんじょう) - 伊豆の国市
狩野川の水神を供養し、土地の安全を祈願する伝統行事で、竹とわらで造った松明に火をつけて流す。毎年8月1日の夜に行われる。
  • ワサビ栽培 - 伊豆市
畳石式栽培の発祥の地。天城山の北麓では大規模なワサビ田が広がる。

流域の自治体[4]

狩野川水系の姿

脚注

注釈

  1. 京都説などもある [2]
  2. 同じ静岡県の安倍川水系も、上流部に大谷崩れがあるため大型ダムがない。
  3. 中下流の平野部での年平均降水量は2,000mm前後。
  4. 国土交通省が資料を作成した際の出典によって調査結果が異なる。

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 国土交通省 河川整備基本方針 狩野川水系「狩野川水系流域及び河川の概要」
  2. 友釣り 2010年11月24日 (水) 00:23版より。
  3. @S(SBS)狩野川ひと物語《13》 友釣り、2012年10月25日閲覧
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 「狩野川・安倍川・大井川 川の流れと歴史のあゆみ」 国土交通省国土地理院 古地理調査
  5. 伊豆市 昭和の森会館の解説より
  6. 狩野川の歴史 - 沼津河川国道事務所、2015年4月閲覧
  7. 国土交通省中部地方整備局企画部 平成17年度第4回中部地方整備局事業評価監視委員会 開催結果 参考資料3 狩野川水系河川整備計画【大臣管理区間】(2/7) (PDF)
  8. 狩野川放水路工事誌
  9. 静岡県異常気象災害誌
  10. 三島市誌
  11. 静岡県誌
  12. 狩野川放水路工事誌
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 13.5 13.6 13.7 水害統計
  14. 伊豆東部火山群の時代(38)富士山噴火と伊豆(下)、伊豆新聞連載記事(2009年2月22日) - 静岡大学教育学部総合科学教室 小山真人研究室 伊豆の大地の物語
  15. 地図の活用 地形図で読む環境 柿田川 - 国土地理院
  16. @S(SBS)狩野川ひと物語《13》 友釣り、2012年10月25日閲覧
  17. 狩野川ひと物語《14》 友釣りを支える (2012/6/28 01:35) - @S(静岡新聞 SBS)
  18. 『日本一のアユ漁師と釣り人たちを育んだ狩野川』 植田正光、株式会社つり人社 2007年
  19. 伊豆市観光協会天城支部
  20. @shizuoka 狩野川ひと物語《8》 我入道の渡し(2012/3/22 03:00)
  21. こいのぼりフェスティバル公式サイト

関係項目

外部リンク