犬山城
犬山城(いぬやまじょう)
愛知県犬山市,木曾川南岸に屹立する平山城。白帝城ともいう。草創期のものは市の南方木下村にあり,木下城と称し,文明年間 (1469~87) 管領斯波義郷の家臣織田郷広が砦を設け,その子広近に守らせたが,斯波氏衰亡ののち,織田氏の支配下に入った。天文6 (1537) 年織田信康が城を現位置に移し,信長のとき柘植与一,次いで池田信輝に与えたが,天正 10 (1582) 年本能寺の変後その子織田信雄の領有となり,その家臣中川定成が城主として在城,小牧・長久手の戦いののち,天正 13 (1585) 年武田清俊,次いで天正 15 (1587) 年土方勘兵衛に与えられた。信雄配流ののち,豊臣秀次の領有となり,天正 18 (1590) 年その実父長尾常閑が城主となる。文禄1 (1592) 年秀次の臣三輪出羽守の手に移り,文禄4 (1595) 年秀次自刃ののち城主は石川貞清 (光吉) に代わる。『金山記大成』には貞清が慶長4 (1599) 年森氏の居城金山城 (岐阜県可児市) の古材を木曾川の流れに乗せて運搬して天守を築いたとみえるが,1964年の解体修理の結果,天守下層は織田信康の頃,上層は慶長5 (1600) 年清洲城主松平忠吉の家臣小笠原吉次により増築されたもので,金山城の古材も石川氏でなく小笠原氏により運搬され,天守以外の櫓 (やぐら) や城門に用いられたことが明らかにされた。天守外観は3層であるが,内部は5階。高さは南側地上より 83尺 (25m) 余。唐破風,千鳥破風を備え,軽快,洒脱のふうがある。慶長 12 (1607) 年小笠原氏が佐倉へ移封後,清洲はのちの尾張藩主徳川義直に与えられ,犬山城にはその家臣平岩親吉が入ったが,慶長 16 (1611) 年平岩氏に嗣子がなく断絶。しばらくは城主がなく,元和2 (1616) 年以後尾張徳川家付家老成瀬正成とその子孫が在城して明治にいたる。現存天守建築のなかで最古の遺構で,1935年国宝指定,第2次世界大戦後も再指定。