特務機関

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特務機関(とくむきかん)は、日本軍の特殊軍事組織をいい、諜報宣撫工作対反乱作戦などを占領地域、或いは作戦地域で行っていた組織。

呼称の変遷

大日本帝国陸軍(以下、陸軍)では元々、「特務機関」とは上述のような特殊任務を遂行する組織を称したものとは異なり、軍隊師団連隊など)、官衙陸軍省参謀本部教育総監部など)、学校(陸軍士官学校など)という3つの区分に属さない組織、つまり元帥府軍事参議院侍従武官府皇族附武官外国駐在武官・将校生徒試験委員等に与えられた呼称であった。しかし日露戦争中の明石元二郎大佐による「明石機関」の活動を契機として、シベリア出兵以降、陸軍では特殊任務にあたる実働グループを「特務機関」と呼ぶようになった。本項では上記の意味における特務機関を中心に述べる。

しかしながら、同時期の日本海軍(以下、海軍)や外務省などにも「〜機関」と称される特殊組織は存在した。やはりそのいずれもが特殊任務を遂行したことから陸軍での呼称を準用したものと思われる。さらに、第二次世界大戦期やそれ以前の時期に限らずに、また場合によっては日本以外の国や団体が設置した組織についても「特務機関」の語が用いられる例がある。

概要

日露戦争中、スウェーデン駐在武官の明石元二郎大佐は「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派への支援等の活動を行った。この活動は、陸軍における最初の本格的な特殊任務として、陸軍中野学校の授業でも題材とされた。この種の活動を行う組織が「特務機関」と称されたのは、シベリア出兵に際して、純粋な作戦行動以外に生じた種々の複雑困難な問題に対応する必要から、1919年に現地における情報収集・謀略工作を担当する機関を設置したときである。「特務機関」の名称の発案者は、当時のオムスク機関長高柳保太郎陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳とされる。

このとき設置された特務機関の任務は、統帥の範囲外の軍事外交と情報収集とされた。初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部附として発令され、その業務は軍参謀長の監督を受けた。はじめ、ウラジオストクハバロフスク等各地に設置されたが、戦局の推移にともない改廃・移動が度々なされた。シベリア撤退後は、そのままハルピン特務機関を中心に、ソ連各地で情報収集にあたっていた。1940年にそのハルピン特務機関は関東軍情報部に、それ以外の各特務機関は情報部支部へと改編された。それら11支部あった情報部支部は1945年8月には特別警備隊に改編され、終戦を迎えた。

また明治期後半から、陸軍は中国各地の地方政権や軍閥軍事顧問(団)を派遣した。それらの軍事顧問と配下の機関員ら含む、組織全体でもって「特務機関」として活動していた。例えば袁世凱政権・張作霖政権等に軍事顧問が派遣されていた(形の上では招聘)。また、東南アジア各地においても中国における軍事顧問と同様の軍事顧問という形での「特務機関」が存在し、それらは反英(米・蘭)運動を煽動する各種の工作活動を行った。それら「特務機関」に関与した日本人の中には、敗戦においてもなお現地に残り、被植民地民族の独立運動に際し、有形無形の支援を行った例も一部においてあった。例えばインドネシア独立戦争におけるPETA(郷土防衛義勇軍)に対するそれである[1]

ハルビン特務機関

ハルビン特務機関は1917年のシベリア出兵時に、関東都督府陸軍部附として黒沢準少将が駐在したのが始まりで、イルクーツク、ウラジオストク、アレクセーエフカ満州里チチハル等に駐在していた情報将校グループらを統轄した。機関は一時、浦塩派遣軍隷下に移ったが、のち再び関東軍司令部隷下に復帰し、1940年関東軍情報部に改編された。機関長は情報部長となり、その他の在満機関を支部に改編し統轄した。

関東軍情報部

対英インド独立工作における特務機関

対米開戦前において、日本の陸軍部は同時に対英開戦が回避不可能であることを想定し、当時イギリス植民地であった英領インドの対英独立工作を画策し始めた。その端緒はタイ王国公使館附武官田村浩大佐の下に設置された特務機関であった。1941年(昭和16年)9月に発足したこの機関は、参謀本部の藤原岩市少佐以下10名程から構成され、機関長藤原(Fujiwara)の頭文字と自由(Free)を意味する英語をかけてF機関と命名された。またF機関の人員はすべて陸軍中野学校出身の青年将校であり、発足当時は数名だったものの12月には10名を越えていた。発足当時にF機関に与えられた任務は、インド独立連盟やマレー・中国人などによる反英団体との交渉・支援を中心としたマレー方面の工作活動に関して、田村大佐を補佐することであったが、開戦直前より南方軍の指揮下となり、インド独立連盟と協力し工作活動に当たり、インド国民軍の編制にも当たった。その際、機関長藤原少佐は「私達はインド兵を捕虜として扱わない。友情をもって扱い、インドの独立の為に協力したい」とインド兵に宣言した。当初はインド駐在イギリス軍の内部分裂を目的としていた為に、インド人を対象とした工作を行っていたが、マレー作戦終了から目的が変わり大東亜新秩序の建設、即ちインドでの反英運動を煽り、ひいてはインドを独立させることでイギリスのアジア・太平洋戦線からの離脱を狙った。

同機関は岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする岩畔機関に発展改組され、250人規模の組織となった。マレー作戦等で投降したインド兵を教育しインド国民軍に組み入れ、同国民軍の指導、宣伝などを行った。機関は6班で構成され、総務班・情報班・特務班・軍事班・宣伝班・政治班があった。

機関はやがて500名を超える大組織となり光機関と改称された。光機関は1943年(昭和18年)、ナチス・ドイツに亡命していたインド独立運動の大物スバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボースと親交の深い山本敏大佐が機関長となった。光機関の命名はインドの言語(ヒンディー語)で“ピカリ”という言葉と、「光は東方より来る」という現地の伝説から“光”とされた。支援していたインド国民軍は自由インド仮政府軍に発展、一部はビルマの作戦に従事した。またインパール作戦の途中、大本営の遊撃戦重視への作戦方針変更に伴い、機関は南方軍遊撃隊司令部と改称し同時に、前述の各班の外参謀部・副官部・マライ支部・タイ支部・サイゴン出張所が設けられた。途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、機関自体は終戦まで軍事顧問団として活動した。結局インパール作戦は失敗し当時の日本陸軍インド国民軍連合国軍に降伏した。

南機関とビルマ戦線

戦後の「特務機関」

参考文献

  • 有賀伝『日本陸海軍の情報機構とその活動』(近代文芸社、1994年) ISBN 4-7733-3141-0
  • 黒井文太郎 編著『謀略の昭和裏面史 特務機関&右翼人脈と戦後の未解決事件!
宝島社別冊宝島Real、2006年) ISBN 4-7966-5193-4
(宝島社文庫、2007年) ISBN 978-4-7966-5644-3
(宝島SUGOI文庫、2011年新装・改訂版) ISBN 978-4-7966-8405-7
  • 藤原岩市『F機関 インド独立に賭けた大本営参謀の記録』(振学出版、1985年) ISBN 4-7952-8564-0
  • 北村恒信『戦時用語の基礎知識 戦前・戦中ものしり大百科』(光人社NF文庫、2002年) ISBN 4-7698-2357-6

関連項目

脚注

  1. PETAに対する支援を含む残留軍人軍属のインドネシア独立への関与に対する評価は定まってはいない。多様な見方が存在する事に留意。

外部リンク