片岡篤史
片岡 篤史(かたおか あつし、1969年6月27日 - )は、京都府久世郡久御山町出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、野球評論家。
現役引退後の2010年から、阪神タイガースで一軍打撃コーチを担当。2012年限りで退任した後は、野球評論家・野球解説者・タレントとして活動するかたわら、芦屋大学で客員教授を務めていた。2016年からは、再び阪神で一軍打撃コーチを務める。2018年からは、一軍ヘッド兼打撃コーチに昇格。
Contents
経歴
プロ入り前
中学校時代はシニアリーグの出身で、後にPL学園でチームメイトとなるボーイズリーグ出身の立浪和義とは試合をしたことがなかった[1]。シニアでは有名な強打者であり、「京都の怪物」の異名をとっていたが、PL学園時代は体は大きいが要領が悪く、洗濯機を奪い合う競争にもいつも負けていた[1]。同期の1年生たちが先輩たちのユニフォームの洗濯を終えて眠りをむさぼる深夜、ようやく片岡は洗濯機に先輩のユニフォームを突っ込んでうなだれているという有様だった。そんな片岡の様子を、立浪は「いつか、寮から逃げ出すのではないか」とずっと心配していたという[1]。
高校2年の秋の大会で片岡は一応レギュラーのポジションを獲ったが、まだバッティングに安定感がなく、期待通りに打つことはできなかった[1]。片岡は左打者であるため、相手チームのエースが左投手だとスターティングメンバーから外されたりして悩んでいたという[1]。大阪桐蔭高校の1年生には、後に立浪とともに中日ドラゴンズでプレーした左のエース・今中慎二がいた為、彼が出てくると先発から外された[1]。ここという大一番で出番がないのが片岡の課題だった[1]。そんな片岡に何とかレギュラーに定着してほしいと、立浪は寮で同じ部屋になったという[1]。秋が深まり寒さが厳しくなった時期、「悩むくらいなら、毎朝一緒に落ち葉掃きをしないか!」と立浪から提案され、毎朝5時半に起きて約1時間、グラウンドの周りの落ち葉を掃除し続けた[1]。最初、片岡は立浪から起こされてもなかなか布団から出ようともしなかったが、日を重ねるにつれて片岡も自分から起き出すようになり、立浪曰く「晴れやかな気持ちで一日が始まる快感を知ると、最初の眠気にさえ勝てば、むしろ楽しみになる」ほどとなり、落ち葉がとうとう落ちなくなるほどまで続けられたという[1]。この落ち葉掃きの成果かどうかはわからないが、春になって片岡のバッティングはめきめきと良くなり、片岡はすっかり不動のレギュラーとなった[1]。
PL学園高校時代、4番打者として1987年春の第59回選抜と同年夏の第69回全国選手権で優勝を果たし、甲子園史上4校目となる春夏連覇を達成。同期に立浪・橋本清・野村弘ら、1学年下には宮本慎也、2学年上には清原和博・桑田真澄のKKコンビがおり、片岡は清原の付き人であった。また、2学年下には清原和博の弟の清原幸治がおり、3年時の片岡の付き人であった。
卒業後は同志社大学に進学。関西学生野球リーグで1989年春季に首位打者になる。リーグ戦通算91試合出場、311打数100安打、打率.322、10本塁打、48打点。ベストナイン4度受賞。
1991年度ドラフト会議にて日本ハムファイターズから2位指名を受けて入団。担当スカウトは大学の先輩である宮本好宣[2]。
プロ入り後
日本ハム時代
1992年4月4日の西武ライオンズ戦で7番サードでプロ初出場を果たし、この試合で工藤公康からプロ初安打を放った。4日後の近鉄バファローズ戦ではプロ初本塁打を放った。西武がリーグ3連覇を決めた9月30日の試合では潮崎哲也から左飛に打ち取られ最後の打者になっている。1年目からレギュラーとして出場し、125試合で打率.290、10本塁打をマークし、規定打席にも到達するなど、活躍した。また、入団の際に大学卒業に必要な単位が不足していたため、1年留年し、シーズンオフに残存単位を取得して卒業。
1993年はオールスターゲームに初めて選出された。同年は打点と本塁打が前年より下がり、三振数は102を記録したが、安定した打撃を見せ、打率.287とアベレージを残した。
1994年は2年ぶりに2桁本塁打をマークしたものの、肘の故障に苦しみ打率2割台前半の不調で99試合の出場に終わった。
1995年は肘の状態を考慮して一塁にコンバート、2年ぶりに100試合出場を超え、規定打席に到達を果たしたものの、打撃不振は変わらず、2年続けて100安打に到達しなかった。
1996年はこれまでの不振を一掃する活躍を見せ、自身初の3割となるリーグ二位の打率.315を記録し、15本塁打をマークした[3]。
1997年、読売ジャイアンツから自由契約になった落合博満が加入した関係で一塁から三塁へ再びコンバート、打撃では3割は逃したが、17本塁打を放った。
1998年は2年ぶりに打率3割を記録し、前年同様17本塁打をマークした。また最多四球を記録した他、最高出塁率のタイトルを獲得した。
1999年4月7日の西武戦で、プロ初先発の松坂大輔が投げた155km/hの速球に、片岡は豪快な空振りをした。その映像は松坂のデビュー戦のハイライトとしてよく使用されている。試合前には「データでは松坂は変化球投手だ」と分析しており、前日に食事をした金村義明にもそう語っていた[4]。後に片岡は「松坂は僕の空振りを見て自分のボールに自信がついたんだろう」と冗談交じりに語った。しかし、それ以後片岡は松坂を得意としている。同シーズンはこの松坂の初対戦時のフルスイングで脇腹を痛めてしまい故障を抱えたままシーズンを戦ったが前年の成績を下回った。
2000年4月2日の西武戦で土肥義弘からソロ本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成した。5月31日の福岡ダイエーホークス戦で1000試合出場を達成した。6月13日の近鉄戦では1000本安打を達成した。6月30日の対西武戦で、9回裏に松坂のノーヒットノーランを阻止するヒットを打っている。打ったボールは前年空振りを喫した高めの直球であった。同年は節目だらけの年となり、打率.290で自己最多の21本塁打、97打点をマークした他、2年ぶりに最多四球を記録した。また、1997年から2000年まで4年連続でオールスターゲームに選出された。
2001年は打撃3部門全て前年を下回る成績で出場試合数も106試合と前年からやや減少し、打率も.254で終わるなど不本意な成績となった。シーズンオフにFA宣言し、阪神タイガースへ移籍。このオフに結婚。夫人は当時大学4年だった。その後、2児をもうける。
日本ハム時代は、選手会長としてチームを引っ張る立場だった。岩本勉はテレビ番組で「マウンド上でくじけそうになったときも、片岡さんが後ろから励ましてくれて有り難かった」と話している。また、小笠原道大がまだ新人だった頃、その才能を見抜いて熱心に指導を行い、小笠原本人も「いつも片岡さんの背中を追いかけていた」と語っている。後に小笠原がFA宣言し、日本ハムに残留するか読売ジャイアンツへ移籍するか迷った時に、最初に相談した相手は片岡であった[5]。
阪神時代
2002年は2年ぶりにオールスターゲームに選出されたが、シーズンではセ・リーグのバッテリーの配球に苦しみ、120試合に出場して規定打席には到達したが打率.228、11本塁打、46打点と不本意な成績で終わった。
翌2003年には規定打席には到達しなかったものの勝負強い打撃で復活し、阪神のリーグ優勝に貢献した。チームが優勝を決めた9月15日の広島東洋カープ戦では、途中出場の8回裏に同点ソロ本塁打を放ち、9回裏にも1死一塁からライトへのヒットで一・三塁として赤星憲広によるサヨナラ勝ちを引き出した。最終的に110試合の出場で打率.296、12本塁打、55打点の成績を残した。12本塁打は阪神移籍後最多だった。
2004年は新外国人のマイク・キンケードが加入した。キンケードは故障離脱で出場機会が少なかったものの、開幕スタメン遊撃手で起用された新人の鳥谷敬が打撃不振で数試合で藤本敦士に譲り、その鳥谷は三塁手で起用されたため46試合の出場にとどまり、打率も.205と不振だった。
2005年は前年までの三塁手だった鳥谷が正遊撃手となったものの、三塁手に今岡誠、一塁手にはアンディ・シーツが起用されたことでこの年もレギュラーで起用されなかった。代打で6打席連続ヒットを記録するなど、ここぞという時の切り札として活躍したが、全体では50試合の出場で前年同様低調な成績で終わった。この年はチームは2年ぶりにリーグ優勝した。
2006年は関本健太郎らにポジションを奪われ、更に相次ぐ故障から本塁打がわずか1本にとどまり打率も1割台と打撃不振に陥り、終盤に戦力外通告を受けた。これを受けて体力的な限界もあったことからこの年をもって現役を引退。阪神ではシーズン100安打を打てず、規定打席に到達したのは2002年の1回だけだった。引退試合となった10月12日の中日ドラゴンズ戦では6番サードでスタメン出場し、盟友の立浪が守るレフトを越える二塁打を放つなど2安打で有終の美を飾った。胴上げには阪神選手のほか、中日から立浪、谷繁元信、井上一樹、PL学園の後輩である福留孝介、日本ハム時代のチームメイトである奈良原浩、上田佳範も加わった[6]。引退セレモニーでは立浪が花束を贈呈し、片岡と熱く抱擁を交わした[7]。
現役引退後
2007年から3年間フジテレビ・関西テレビの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に就任。関西テレビの『ぶったま!』では、阪神の一軍打撃コーチに就任した広澤克実に代わりレギュラーコメンテーターを番組終了時まで務めていた。
また日本ハムOBということで、『STVアタックナイター・ファイターズスタジアム』(STVラジオ)解説者として北海道のラジオでも解説を担当している。2007年9月29日の千葉マリンスタジアムでのロッテ対日本ハム戦は、日本ハムのリーグ優勝がかかっていたためSTVラジオ制作として片岡の解説で千葉から放送を行い、NRN系列で全国放送された。
2008年2月4日より広瀬哲朗の後任として、『スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜』(北海道文化放送)の野球解説者となる。これは片岡の北海道で初のレギュラー番組である。
2010年シーズンからは、阪神に一軍打撃コーチとして復帰。[8] コーチ1年目はチーム打率.289の球団記録を残すなど、シーズンを通して打線が好調だった。
2011年12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される[9]。
2012年はチーム打率はリーグ4位、チーム本塁打はリーグ最下位と低迷し責任を取って辞任[10]。
2013年から再び3年間フジテレビ・関西テレビ・北海道文化放送の野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家、4年ぶりに復帰。また、芦屋学園スポーツモダニズムプロジェクトの一環として、芦屋大学の客員教授を務める[11]。
2015年には、上記の活動に加えて、札幌テレビの北海道日本ハム戦中継で解説を担当。シーズン終了後の10月27日に、阪神の一軍打撃コーチへ再び就任することが球団から発表された[12]。2018年からは、一軍ヘッド兼打撃コーチ。
応援歌
日本ハム時代の応援歌は、古屋英夫のテーマ曲を流用。ファンファーレから始まる曲であった。阪神の応援団は片岡の応援歌を作る際に、このファンファーレを継承。さらに、「右投げ左打ち、実家は檜風呂 リフォーム リフォーム 片岡篤史」という歌詞を付け加えた[13]。
この歌詞の由来は、日本ハム時代に片岡が父親に贈った実家の風呂の一番風呂に金村義明が入るというプロ野球ニュースのオフ企画と推測されており、金村は後に「応援歌のネタにされてしまい、申し訳ないことをした」と振り返った[14]。
なお、片岡が「打席で応援歌が気になる」と契約更改で発言したため、応援団は2003年までで片岡のファンファーレの演奏を止め、この箇所を新たに作り直した。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992 | 日本ハム | 125 | 486 | 431 | 44 | 125 | 17 | 3 | 10 | 178 | 53 | 5 | 3 | 18 | 2 | 33 | 3 | 2 | 93 | 3 | .290 | .342 | .413 | .755 |
1993 | 124 | 503 | 425 | 55 | 122 | 29 | 2 | 8 | 179 | 39 | 4 | 6 | 11 | 2 | 63 | 3 | 2 | 102 | 7 | .287 | .380 | .421 | .801 | |
1994 | 99 | 382 | 334 | 38 | 73 | 11 | 0 | 11 | 117 | 41 | 3 | 3 | 0 | 2 | 45 | 0 | 1 | 90 | 5 | .219 | .312 | .350 | .662 | |
1995 | 106 | 421 | 357 | 40 | 80 | 12 | 2 | 6 | 114 | 39 | 1 | 2 | 6 | 1 | 55 | 2 | 2 | 83 | 3 | .224 | .330 | .319 | .649 | |
1996 | 115 | 489 | 416 | 60 | 131 | 20 | 3 | 15 | 202 | 51 | 3 | 3 | 6 | 1 | 65 | 2 | 1 | 70 | 7 | .315 | .408 | .486 | .893 | |
1997 | 135 | 600 | 514 | 67 | 147 | 28 | 2 | 17 | 230 | 67 | 3 | 3 | 0 | 3 | 81 | 2 | 2 | 77 | 9 | .286 | .383 | .447 | .831 | |
1998 | 133 | 584 | 466 | 89 | 140 | 26 | 1 | 17 | 219 | 83 | 2 | 0 | 0 | 4 | 113 | 1 | 1 | 93 | 8 | .300 | .435 | .470 | .905 | |
1999 | 115 | 489 | 423 | 59 | 116 | 19 | 4 | 15 | 188 | 63 | 1 | 1 | 0 | 4 | 61 | 1 | 1 | 90 | 8 | .274 | .364 | .444 | .808 | |
2000 | 135 | 621 | 510 | 92 | 148 | 32 | 2 | 21 | 247 | 97 | 9 | 3 | 0 | 7 | 101 | 2 | 3 | 80 | 14 | .290 | .406 | .484 | .890 | |
2001 | 106 | 463 | 401 | 57 | 102 | 18 | 1 | 16 | 170 | 62 | 1 | 2 | 0 | 4 | 57 | 2 | 1 | 62 | 8 | .254 | .346 | .424 | .770 | |
2002 | 阪神 | 120 | 489 | 425 | 45 | 97 | 17 | 0 | 11 | 147 | 46 | 2 | 0 | 3 | 4 | 53 | 0 | 4 | 110 | 7 | .228 | .317 | .346 | .663 |
2003 | 110 | 373 | 334 | 48 | 99 | 31 | 0 | 12 | 166 | 55 | 1 | 1 | 1 | 1 | 35 | 1 | 2 | 86 | 3 | .296 | .366 | .497 | .863 | |
2004 | 46 | 106 | 88 | 8 | 18 | 5 | 0 | 3 | 32 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 0 | 2 | 24 | 0 | .205 | .340 | .364 | .704 | |
2005 | 50 | 73 | 57 | 8 | 12 | 1 | 0 | 1 | 16 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 15 | 0 | 0 | 17 | 0 | .211 | .370 | .281 | .651 | |
2006 | 50 | 101 | 91 | 4 | 15 | 3 | 0 | 1 | 21 | 7 | 0 | 0 | 1 | 1 | 7 | 1 | 1 | 22 | 1 | .165 | .230 | .231 | .461 | |
NPB:15年 | 1569 | 6180 | 5272 | 714 | 1425 | 269 | 20 | 164 | 2226 | 717 | 35 | 27 | 46 | 37 | 800 | 20 | 25 | 1099 | 83 | .270 | .367 | .422 | .789 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
三塁 | 一塁 | 二塁 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1992 | 日本ハム | 125 | 100 | 257 | 14 | 17 | .962 | - | 3 | 2 | 4 | 0 | 1 | 1.000 | |||||
1993 | 124 | 97 | 224 | 10 | 13 | .970 | - | - | |||||||||||
1994 | 99 | 63 | 176 | 6 | 13 | .976 | - | - | |||||||||||
1995 | - | 97 | 823 | 57 | 6 | 79 | .993 | - | |||||||||||
1996 | 18 | 4 | 14 | 1 | 0 | .947 | 110 | 924 | 66 | 2 | 78 | .998 | - | ||||||
1997 | 133 | 114 | 293 | 5 | 30 | .988 | 7 | 29 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
1998 | 132 | 118 | 280 | 12 | 27 | .971 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
1999 | 95 | 83 | 180 | 5 | 17 | .981 | - | - | |||||||||||
2000 | 135 | 129 | 237 | 12 | 26 | .968 | - | - | |||||||||||
2001 | 102 | 84 | 184 | 9 | 13 | .968 | - | - | |||||||||||
2002 | 阪神 | 114 | 64 | 217 | 7 | 13 | .976 | 16 | 73 | 2 | 0 | 5 | 1.000 | - | |||||
2003 | 99 | 60 | 131 | 3 | 10 | .985 | 11 | 37 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
2004 | 28 | 8 | 36 | 2 | 2 | .957 | - | - | |||||||||||
2005 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 10 | 53 | 4 | 0 | 4 | 1.000 | - | ||||||
2006 | 32 | 9 | 41 | 4 | 2 | .926 | 3 | 6 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | - | ||||||
通算 | 1238 | 934 | 2271 | 90 | 183 | .973 | 256 | 1946 | 135 | 8 | 167 | .996 | 3 | 2 | 4 | 0 | 1 | 1.000 |
タイトル
- 最高出塁率:1回 (1998年)
表彰
- ベストナイン:2回 (1996年、1998年)
- ゴールデングラブ賞:3回 (1996年 - 1998年)
- 月間MVP:1回 (1992年7月)
- 東京ドームMVP:2回 (1996年、1998年)
- ゴールデンスピリット賞 (2000年)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回 (2002年第1戦)
- パ・リーグ特別表彰(優秀新人賞) (1992年)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1992年4月4日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、7番・三塁手で先発出場
- 初安打:同上、7回表に工藤公康から右前安打
- 初打点:1992年4月8日、対近鉄バファローズ2回戦(藤井寺球場)、3回表に江坂政明から
- 初本塁打:1992年4月9日、対近鉄バファローズ3回戦(藤井寺球場)、7回表に入来智から右越2ラン
- 初盗塁:1992年5月24日、対西武ライオンズ8回戦(東京ドーム)、2回裏に二盗(投手:石井貴、捕手:伊東勤)
- 節目の記録
- 100本塁打:2000年4月2日、対西武ライオンズ2回戦(西武ドーム)、7回表に土肥義弘から右越ソロ ※史上208人目
- 1000試合出場:2000年5月31日、対福岡ダイエーホークス11回戦(東京ドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上360人目
- 1000本安打:2000年6月13日、対大阪近鉄バファローズ12回戦(大阪ドーム)、9回表にユウキから遊撃内野安打 ※史上201人目
- 150本塁打:2003年4月29日、対読売ジャイアンツ4回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に桑田真澄から右中間へソロ ※史上124人目
- 1500試合出場:2005年8月13日、対読売ジャイアンツ14回戦(東京ドーム)、5回表に杉山直久の代打で出場 ※史上145人目
- その他の記録
背番号
- 38 (1992年)
- 8 (1993年 - 2006年)
- 88 (2010年 - 2012年)
- 81 (2016年 - 2017年)
- 80 (2018年 - )
関連情報
いずれも野球解説者として出演
出演番組
- ※関西テレビローカル中継では「プロ野球中継」、北海道文化放送では「BASEBALL SPECIAL」のタイトル - 2007年 - 2009年に出演。2013年 - 2015年に復帰。
- プロ野球ニュース(2013年から加入)
- 片岡篤史の激アツ!プロ野球(ニッポン放送)
- 虎LIVE!(関西テレビ)
- スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜(北海道文化放送)
- STVアタックナイター・ファイターズスタジアム(STVラジオ)
- ぶったま!(関西テレビ)(番組終了)
書籍
脚注
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 立浪和義『負けん気』(文芸社、2010年2月、ISBN 978-4286088532/増補版、文芸社文庫、2014年2月、ISBN 978-4286148939)96 - 98頁
- ↑ ロサリオは超マジメ!「韓国のお父さん」が阪神助っ人のマル秘話 - サンケイスポーツ
- ↑ “年度別成績 1996年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. . 2018閲覧.
- ↑ 2007年11月3日の放送 - Suntory Saturday Wating Bar "AVANTI" - サントリー・サタデー・ウェイティング・バーオフィシャルサイト
- ↑ なお、片岡自身もFAで阪神入りする際、PL学園の先輩である清原和博(当時・巨人)に相談している。
- ↑ 片岡篤史(2) 虎アルバム - photos.nikkansports.com - 2006年10月12日
- ↑ 片岡篤史(1) 虎アルバム - photos.nikkansports.com - 2006年10月12日
- ↑ http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20091016121.html
- ↑ 「平成24年 第52回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
- ↑ 阪神 有田ヘッドコーチ、片岡打撃コーチが退団を発表 - スポーツニッポン
- ↑ 片岡篤史氏(前阪神タイガース一軍打撃コーチ)の客員教授就任記者発表を参照。片岡と入れ替わる格好で阪神の二軍監督に復帰した平田勝男の後任扱い。
- ↑ 阪神組閣一覧 - 日刊スポーツ
- ↑ 2003年3月発売のアルバムCD「阪神タイガース 選手別応援歌 2003」の歌詞カードにも掲載
- ↑ 鵜飼克郎 (2017年8月5日). “金村義明氏が片岡篤史「檜風呂」応援誕生のきっかけを回顧”. 週刊ポスト . 2017閲覧.
関連項目
外部リンク
業績 |
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テンプレート:ゴールデンスピリット賞 テンプレート:パシフィック・リーグ最高出塁率 テンプレート:パシフィック・リーグ ベストナイン (一塁手) テンプレート:パシフィック・リーグ ベストナイン (三塁手) テンプレート:パシフィック・リーグ ゴールデングラブ (一塁手) テンプレート:パシフィック・リーグ ゴールデングラブ (三塁手) |
テンプレート:日本ハムファイターズ1991年ドラフト指名選手