源義朝
源義朝 | |
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時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 保安4年(1123年) |
死没 | 平治2年1月3日(1160年2月11日) 享年38 |
主君 | 鳥羽院→後白河天皇(後白河院)→藤原信頼 |
氏族 | 清和源氏為義流(河内源氏) |
源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。
源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。
Contents
生涯
上総御曹司
保安4年(1123年)、白河院政の時代、崇徳天皇が即位した年に、源為義の長男として生まれる。母は白河院の近臣で淡路守・藤原忠清の娘。かつて都の武者として名を馳せた河内源氏は一族内紛によって凋落し、父為義も自身の問題行動によって白河院の信頼を失い、官位は低迷して逼迫している状況にあった。なお、従来為義の系統が河内源氏および清和源氏の嫡流であったとの見方がされていたが、近年ではこの系統が嫡流扱いになったのは後年鎌倉幕府を開いた頼朝が自分の血統を嫡流だったと主張した結果に過ぎず、実際には河内源氏および清和源氏はそれぞれの系統が独自の道を歩み各系統の上に立つ「嫡流」というものは存在しなかったという見解もある[1]。
そのような時勢の中、義朝は少年期に東国(関東地方)に下向したと見られ、上総氏等の庇護を受け同地で成長した。その際、義朝は「上総御曹司」と呼ばれた時期があるがこれは父・為義が安房国の丸御厨を伝領していたことからその地に移住し、その後は安西氏・三浦氏・上総氏の連携の下に義朝は安房から上総国に移り上総氏の後見を受けるようになったことによるものと思われる。
そのため父とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いに介入し、その結果、三浦義明・大庭景義ら有力な在地の大豪族を傘下に収める。長男・義平の母は三浦氏ともされ、相模の大豪族である波多野氏の娘との間には次男・朝長をもうけるなど、在地豪族と婚姻関係を結んだ。また、六男・範頼の母は遠江国池田宿の遊女とされ、長男・義平の母を同国橋本宿の遊女とする『尊卑分脈』の説、『平治物語』に登場する摂津国江口宿の遊女の娘とみられる「江口腹娘」など、遊女との間に子を儲けたとする話が多いが、これらの宿場はいずれも交通の要衝であり、「遊女」と称しても実際には単なる芸能民ではなく地元の有力者の子女であったとする説がある[2]。
河内源氏の主要基盤が東国となったのはこの義朝の代であり、高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え(亀谷殿)、特に相模国一帯に強い基盤を持った。
しかし義朝の勢力伸張は関東の他の源氏、特に下野国の足利に本拠を置く義朝の伯父・源義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり緊張を生んだ。その両者の緊張は義国と義朝が同盟を締結し盟友となることで解消され、義国の子・義康と相婿となるなど連携を強めた。
義朝は20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し、その活躍が都にも知られるようになった事で、中央進出への足掛かりを掴んだ。
京での躍進
長男の義平に東国を任せて都へ戻った義朝は、久安3年(1147年)に正室で熱田大宮司の娘・由良御前との間に嫡男(3男)の頼朝をもうける。院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、鳥羽院や藤原忠通にも接近し、仁平3年(1153年)、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねた。河内源氏の受領就任は源義親以来50年ぶりの事であり、義朝は検非違使に過ぎない父・為義の立場を超越する事になる。この急激な抜擢は、寺社勢力の鎮圧や院領支配のため、東国武士団を率いる義朝の武力を必要とする鳥羽院との結びつきによるものと見られ、それは摂関家を背景とする為義らとの対立を意味していた。
久寿2年(1155年)、為義の意向を受けて東国に下向し勢力を伸ばしていた弟の義賢を、長男・義平に討たせ、対抗勢力を排除して坂東における地位を固めた(大蔵合戦)。このため、もう1人の弟・頼賢が復仇のため信濃国に下り頼賢と合戦になりかけるなど、義朝・為義の対立は修復不可能な事態となった。大蔵合戦は都では問題にされておらず、その背景には武蔵守であった藤原信頼の黙認があり、摂関家に属する為義派への抑圧があったとも見られている[3]。
なお、従来義朝は為義の嫡子とみなされていたが、最近では官位の問題等で義朝が為義の嫡子であったのか疑わしいとの見解が示されている[注釈 1]。 義朝は坂東で勢力を延ばす際当初は父が仕えていた摂関家寄りの姿勢を見せていたが、義朝の基盤である相模国等が鳥羽院の知行国になるなど、東国において勢力を伸ばすには義朝が鳥羽法皇に接近する必要があり、それが摂関家に仕える父とは距離を置くという結果に繋がったとの説もある[4]。そのため、義朝の東国での動きを牽制するために遣わされたのが弟の義賢であるといわれる。またやがて義賢も嫡子の座を追われてその弟・頼賢が為義の嫡子の座についていたとの見解もある[7]。
保元の乱
保元元年(1156年)7月の保元の乱の際に崇徳上皇方の父・為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち、後白河天皇方として東国武士団を率いて参陣した。平清盛と共に作戦の場に召された義朝は先制攻撃・夜襲を主張し、頭をかきむしりながら信西と共に躊躇する関白・藤原忠通に対して決断を迫った。攻撃の命が下ると、義朝は「(坂東での)私合戦では朝家の咎めを恐れ、思うようにならなかったが、今度の戦は追討の宣旨を受け、心置きなく戦う事が出来る」と官軍として赴く事に喜び勇んで出陣し、戦況を逐一報告するなど後白河方の中核となって戦った。
乱は後白河天皇方が勝利し、敗者となった為義は義朝の元に出頭した。『保元物語』には、義朝が自身の戦功に替えて父の助命を訴えたが、信西によって却下され、父や幼い弟達を斬る事になる悲劇的な場面が詳しく描かれている。7月30日、船岡山村の辺りで為義とその子らは義朝の手により処刑された。父を殺した義朝は「ヲヤノクビ切ツ」と世の誹りを受けたという[8]。
乱後、恩賞として左馬頭に任じられる。従来の見方では、このとき義朝の助命嘆願にもかかわらず為義・頼賢ら親兄弟の多くが処刑され、更に論功行賞でも清盛より低い官位に甘んじたことから大いに不満を持ったとも言われていた。
しかし清盛は少年の頃より親王にも等しい待遇を受け、11歳で元服と同時に叙爵されて従五位下、17歳にして既に従四位下にまで官位を上げ保元の乱の10年も前に正四位下となり公卿の地位の一歩手前にまで達しており、対して保元の乱の直前に叙爵されて従五位下・下野守となりようやく受領レベルとなった義朝の地位にはもともと大きな開きがあり、恩賞の差に不満を抱いたという説明はあまり妥当とはいえない。また左馬頭はその位階以上に武門にとってはそれこそ武士の棟梁にも比されるほどの重要な官位であるから[注釈 2]、それへの任官は妥当、むしろ破格な恩賞であるという意見も近年では提示されている。また為義の処刑はあくまでも彼らを謀反人と断じた朝廷の裁決であり、清盛もまた敵側についた同族を朝命により処刑しており、このことへの義朝の不満が平治の乱につながったという見方にも疑問が呈されている[4]。
平治の乱
平治元年12月9日(1160年1月19日)、義朝は、源光保・源季実・源重成[注釈 3]らと共に藤原信頼と組んで後白河院の信任厚い信西らがいると目された三条殿を襲撃する。
平治の乱の原因として旧来の説では先に触れたような『平治物語』の記述を史料に保元の乱での清盛との恩賞の格差に義朝が不満を抱いたという源氏対平家の因縁説[注釈 4]、縁談不成立などによる信西への冷遇怨恨説[注釈 5]、その結果、同じく信西を憎む藤原信頼と組んだなどと義朝の動機を中心に説明されることが多かった。また信頼も『平治物語』には「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし。ただ朝恩にのみほこりて」と酷評されており、『愚管抄』でも同様である。しかし、そのような通俗的理解は竹内理三や元木泰雄の研究により見直されている[注釈 6]。 また、信頼に従った武士達も義朝のみではなく、それぞれの独立して各権門に仕える武家が自分の意志で信頼についたのであって、義朝の指示で信頼方についた訳ではない。
平治の乱の原因は実際には後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派共に反信西グループがいたこと、それらを後白河がまとめきれなかったことにあるとされる。
義朝と藤原信頼の関係も信西憎しの一点で結びついたという説は理解しやすいものの、義朝が信頼に従ったのは信頼は義朝が南関東で勢力を拡大していた時の武蔵守で、その後も知行国主であり、義朝の武蔵国への勢力拡大も突然の従五位下・下野守への除目も信頼らの支援があってのことと思われる。信頼はそうした武蔵国を中心とした地盤から、保元の乱により摂関家家政機構の武力が解体した後においてはそれに代わって関東の武士達を京の公家社会に供給できる立場にあった。
三条殿を襲撃し逃れた信西を倒して以降、信頼が政局の中心に立つ。信西追討の恩賞として義朝は播磨守に任官し、その子・頼朝は右兵衛佐に任ぜられた。しかし信西を倒したことによって元々信西憎しの一点だけで結びついていた後白河院政派と二条天皇親政派は結束する理由も無くなり空中分解を始める。そして今度は藤原信頼と二条天皇親政派との反目が発生する。離京していた清盛は勝者・信頼に臣従するそぶりを見せて都に戻るがその後、二条天皇親政派らの謀略によって二条天皇が清盛六波羅邸に脱出し形勢不利を察した後白河上皇も仁和寺に脱出する。この段階で義朝は全ての梯子を外されたかたちとなった。
藤原信頼らに当初同意していた光保は元々二条天皇親政派であるため信頼陣営から離反、源頼政も信頼陣営から距離を置き廷臣たちも続々と六波羅に出向いたため清盛は官軍の地位を獲得した。こうして一転賊軍となった信頼・義朝らは討伐の対象となり、ついに12月27日(2月6日)に京中で戦闘が開始される。平家らの官軍に兵数で大幅に劣っていた義朝軍は壊滅する。
敗走・最期
その後、信頼を見捨て息子の義平・朝長・頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)・平賀義信・源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清・斎藤実盛・渋谷金王丸らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、その途上たび重なる落武者への追討隊との戦闘で、朝長・義隆・重成は深手を負い命を落とした。また頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、義平は別行動で北陸または東山道を目指して一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党・志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗する。
義朝は馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、政清の舅で年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて[注釈 7]殺害された(『平治物語』)。享年38。政清も酒を呑まされ殺害された。京を脱出して3日後の事であった。『愚管抄』によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされる。年が明けた正月9日、両名の首は獄門にかけられた。
伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられている。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池がある。
平賀義信、斎藤実盛は無事に落ち延びることに成功する。義信は後に頼朝の挙兵に従って鎌倉幕府の有力御家人として生涯を全うし、一方実盛は平家方について源氏方と戦うことになる。
父や弟たちを滅ぼし、河内源氏嫡流を確立してからわずか3年で死を迎えるが[9]、義朝が東国に築いた地盤と嫡子頼朝に与えた高い身分は、後の頼朝による挙兵の成功、ひいては鎌倉幕府成立への礎となった[10][注釈 8]。
年譜・官歴
日付は旧暦。年齢は数え年
- 保安4年(1123年) - 誕生
- 年代不明 - 東国へ下向
- 永治元年(1141年・19歳) - 長男・義平誕生
- 康治2年(1143年・21歳) - 相馬御厨に介入
- 天養元年(1144年・22歳) - 大庭御厨濫行
- 久安3年(1147年・25歳) - 三男(嫡男)・頼朝誕生
- 仁平3年(1153年・31歳)3月2日:下野守[13]、従五位下の叙位もか。
- 久寿2年(1155年・33歳)
- 保元元年(1156年・34歳)
- 保元2年(1157年・35歳)
- 平治元年(1159年・37歳)
- 平治2年(1160年)1月3日 - 尾張国で謀殺される。享年38(満37歳没)。
脚注
注釈
- ↑ 元木泰雄[4]は、義朝の弟義賢が先に任官していたのに義朝は無位無官であった為、廃嫡されて東国に下ったと見ている。高橋典幸は元木泰雄と同様の理論で義朝が嫡子でないと主張している[5]。永井晋は義朝を為義の庶長子と記載している[6]。
- ↑ また、義朝が左馬頭となることによって、馬牧の経営者である東国武士との間の主従関係を強化することが可能となったという見方もある[7]。
- ↑ 従来源氏と称する武士たちは源義朝に従属するものとみなされていた。だが実は源光保は二条天皇側近の立場として独自の意志で信頼に与力し、光保の参戦には義朝の意向が働いていたわけではない。また、季実と重成は義朝の同族支配下にあるものではなく義朝の同盟者であった。武門源氏が全て河内源氏の当主に従属するのが当然という見方は鎌倉幕府成立以降の観念である[4]。
- ↑ 従来通説では、義朝と清盛は対等の武家棟梁と認識されていたが、近年の研究ではかならずしも対等ではなく、義朝と清盛の間に大きな格差が保元以前に存在していたことが指摘されている。上記の保元の乱の項でも清盛と義朝との間に官位の格差が元々あったことが述べられているが、保元の乱後の大内裏の造営において両者の間に大きな経済格差が存在していたことが指摘されている。この造営において清盛が仁寿殿、頼盛が貞観殿、教盛が陰明門、経盛が淑景舎と重要な建物を造営したのに対して、義朝は北廊を負担していたに過ぎない[7]。
- ↑ 『愚管抄』の記述を史料に義朝の縁組の申し入れに対して信西が「我が子は学者であるので、武門の家の聟には相応しくない」と拒否しながら同じ武家である平家と縁組したことなど、あからさまな冷遇を受けたことに対して義朝が不満を募らせたといわれる説。
- ↑ 縁談に関しては、院近臣として四位五位くらいの地位にいた信西の子と、祖父の代から順調に昇進を重ね自らは公卿一歩手前で、その弟達や子供もそれなりの官位を得ている清盛の家では釣り合いが取れているのに対して、父為義やはずっと受領にもなれず保元の乱直前に自らが受領それも下国の下野守になれた義朝の家では信西の子とは家格的に釣合いが取れない(清盛と義朝の家が同等をみなされるのは鎌倉幕府成立以降の視点で当時は清盛と義朝の家格は同等のものではなかった)。その観点からすると義朝の縁談の申入れは彼からしてみればかなりの無理を承知で申し入れたもので、信西の子と義朝の娘との婚姻の非成立と清盛の娘との縁談の成立が信西への遺恨に発展することは有り得ない。また、信頼に対する酷評は敗者としてのものであり、信頼の能力が実際に低いわけではなく、官位上昇も当時人事に関して発言権のあった信西の了承のもと行なわれていた可能性もあり、また信頼の官位の昇進の停止の原因はその上位者の官位の空きがなかったことであり、信西一人の妨害によるものではない、等のことが示唆されている[4]。
- ↑ 孫の源頼家も入浴中を襲撃されている。
- ↑ ただし、山田邦和は論文の中で義朝を無能な人物であるとする厳しい評価を下す[11]。その中で保元の乱における後白河天皇方の最終目的は崇徳上皇と藤原頼長を生死を問わず確保することであったのに、全く見当違いの場所を捜索した結果、上皇と頼長は平安京の中心部を通って脱出に成功し、挙句の果てには戦闘終結後にも関わらず「王権」の象徴である法勝寺を焼き払おうとした[12]ことなどを挙げ、義朝は10騎単位での小競り合いに長けている程度の人物で、政治的駆け引きが重要である都での戦いではその馬脚をあらわしたとしている。
- ↑ 右馬助の兼任替え。兵範記は、右馬権頭にして昇殿を聴される。
- ↑ 「四位ニシテ播磨守ニナリテ云々」[8]
出典
- ↑ 細川重男『頼朝の武士団』(洋泉社)
- ↑ 菱沼一憲「総論 章立てと先行研究・人物史」(所収:菱沼 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻 源範頼』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-151-6)
- ↑ 元木 [2004] P.75
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 元木 [2004]
- ↑ 高橋典幸『源頼朝 東国を選んだ武家の貴公子』(山川出版社)
- ↑ 永井晋『鎌倉源氏三代記』(吉川弘文館)の中の「河内源氏と摂津源氏ープロローグ」
- ↑ 7.0 7.1 7.2 野口 [1998]
- ↑ 8.0 8.1 『愚管抄』
- ↑ 元木 [2004.p.212]
- ↑ 野口 [1998.p.103-4]
- ↑ 山田邦和「保元の乱の関白忠通」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』所収 思文閣出版、2009年(平成21年)。 ISBN 978-4-7842-1497-6)
- ↑ 『保元物語』
- ↑ 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 『兵範記』
- ↑ 『保元物語』[注釈 9]
- ↑ 『平治物語』
参考文献
- 安田元久 『武士世界形成の群像』 吉川弘文館、1986年
- 野口実 『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』 新人物往来社、1998年
- 元木泰雄 『保元の乱・平治の乱を読みなおす』 NHKブックス、2004年
- 元木泰雄 『河内源氏』 中公新書、2011年
- 宮下玄覇 『清盛がもっとも恐れた男 源義朝』 宮帯出版社、2011年
主題作品
演じた人物
- 木村功(新・平家物語 (NHK大河ドラマ)、1972年)
- 夏八木勲(平清盛 (1992年のテレビドラマ)、1992年)
- 加藤雅也(義経 (NHK大河ドラマ)、2005年)
- 玉木宏(平清盛 (NHK大河ドラマ)、2012年)