源実朝

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源実朝
時代 鎌倉時代前期
生誕 建久3年8月9日1192年9月17日
死没 建保7年1月27日1219年2月13日
幕府 鎌倉幕府 3代征夷大将軍
氏族 清和源氏河内源氏

源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍

鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男[注釈 1]として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。

歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。

生涯

出生

建久3年(1192年)8月9日の刻、鎌倉で生まれる[1]。幼名は千幡。父は鎌倉幕府を開いた源頼朝、母はその正妻の北条政子。乳母は政子の妹の阿波局大弐局ら御所女房が介添する。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われる。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせる。建久10年(1199年)に父が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。

将軍就任

建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い伊豆国に追われる。母の政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に千幡を従五位下征夷大将軍に補任した[注釈 2]。10月8日、遠江国において12歳で元服し、実朝と称した。儀式に参じた御家人大江広元小山朝政安達景盛和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は門葉筆頭の平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。翌年、兄の頼家は北条氏の刺客により暗殺された。

元久元年(1204年)12月、京より坊門信清の娘・信子を正室に迎える。正室ははじめ足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた[注釈 3]。元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。

系譜
源義朝
 
北条時政
 
牧の方
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源頼朝
 
北条政子
 
北条義時
 
坊門信清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源頼家
 
源実朝
 
 
 
坊門信子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公暁

騒乱と和歌

元久2年(1205年)6月、畠山重忠の乱が起こる。北条義時時房和田義盛らが鎮めたが、乱後の論功は政子が行い、論功には年齢が達していないとされた実朝は加わらなかった。

閏7月19日、時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れ渡る。実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れた。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国修禅寺に追われ、執権職は義時が継いだ。牧氏事件と呼ばれる。

9月2日、『新古今和歌集』を京より運ばせる。和歌集は未だ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見る事を望んだ。建永元年(1206年)2月22日、従四位下へ昇り、10月20日には母の命により兄・頼家の次男である善哉を猶子とする。

11月18日、歌会で近仕していた東重胤が数月ぶりに鎌倉へ帰参する。実朝はかねてより和歌を送って重胤を召していたが、遅参した為に蟄居させる。12月23日、重胤は義時の邸宅を訪れ蟄居の悲嘆を述べる。義時は「凡そこの如き災いに遭うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べ、重胤を伴って実朝の邸宅に赴き、重胤の詠歌を実朝に献じて重胤を庇った。実朝は重胤の歌を三回吟じると、門外で待つ重胤を召し、歌の事を尋ね許した。

承元元年(1207年)1月5日、従四位上に叙せられる。承元2年(1208年)2月、疱瘡を患う。実朝はこれまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していたが、以後3年間は病の痕を恥じて参拝を止めた。12月9日、正四位下に昇る。承元3年(1209年)4月10日、従三位に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。7月5日、和歌三十首の評を藤原定家に請う。

11月14日、義時が郎従の中で功のある者を侍に準ずる事を望む[注釈 4]。実朝は許容せず、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇を企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべからざる」と述べる。しかし後に、北条氏の家人は御内人と呼ばれ幕府で権勢を振るう事となる。

建暦元年(1211年)1月5日、正三位に昇り、18日に美作権守を兼ねる。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し、22日には受戒の為上洛した。建暦2年(1212年)6月7日、侍所に於いて宿直の御家人が闘乱を起こし二名の死者が出る。7月2日、実朝は侍所の破却と新造を望み、不要との声を許容せず、千葉成胤に造進を命じる。12月10日、従二位に昇る。

建暦3年(1213年)2月16日、御家人らの謀反が露顕する。頼家の遺児を将軍とし義時を討たんと企てており、加わった者が捕らえられる。その中には侍所別当を務める和田義盛の子である義直と義重らもあった。20日、囚人である薗田成朝の逃亡が明らかとなる。実朝は成朝が受領を所望していた事を聞くとかえって「早くこれを尋ね出し恩赦有るべき」と述べる。26日、死罪を命じられた渋河兼守が詠んだ和歌を見ると過を宥めた。27日に謀反人の多くは配流に処した。同日、正二位に昇る。3月8日、和田義盛が御所に参じ対面する。実朝は義盛の功労を考え義直と義重の罪を許した。9日、義盛は一族を率いて再び御所に参じ甥である胤長の許しを請うが、実朝は胤長が張本として許容せず、それを伝えた北条義時は和田一族の前に面縛した胤長を晒した(泉親衡の乱)。

4月、義盛の謀反が聞こえ始める。5月2日朝、兵を挙げる。義時はそれを聞くと幕府に参じ、政子と実朝の妻を八幡宮に逃れさせた。の刻、義盛の兵は幕府を囲み御所に火を放つ。ここで実朝は火災を逃れ頼朝の墓所である法華堂に入った。戦いは3日に入っても終わらず、実朝の下に「多勢の恃み有るに似たりといえども、更に凶徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか」との報告が届く。驚いた実朝は政所に在った大江広元を召すと、願書を書かせそれに自筆で和歌を二首加え、八幡宮に奉じる。酉の刻に義盛は討たれ合戦は終わった。5日、実朝は御所に戻ると侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った(和田合戦)。

9月19日、日光に住む畠山重忠の末子・重慶が謀反を企てるとの報が届く。実朝は長沼宗政に生け捕りを命じるが、21日、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀を企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し宗政の出仕を止める。それ伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べた。閏9月16日、兄・小山朝政の申請により実朝は宗政を許す。 11月23日、藤原定家より相伝の『万葉集』が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と述べ賞玩する。同日、仲介を行った飛鳥井雅経がかねてより訴えていた伊勢国の地頭の非儀を止めさせる。『金槐和歌集』はこの頃に纏められたと考えられている。建保2年(1214年)5月7日、延暦寺に焼かれた園城寺の再建を沙汰する。6月3日、諸国は旱魃に愁いており、実朝は降雨を祈り法華経を転読する。5日、雨が降る。13日、関東の御領の年貢を三分の二に免ずる。また同年には、栄西より『喫茶養生記』を献上される。栄西は翌年に病で亡くなるが、大江親広が実朝の使者として見舞った。建保4年(1216年)3月5日、政子の命により頼家の娘(後の竹御所)を猶子に迎える。

渡宋計画

建保4年(1216年)6月8日、東大寺大仏の再建を行った人の僧・陳和卿が鎌倉に参着し「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。15日、御所で対面すると陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。実朝が不審を感じると陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿の言を信じた。

6月20日、権中納言に任ぜられ、7月21日、左近衛中将を兼ねる。9月18日、北条義時と大江広元は密談し、実朝の昇進の早さを憂慮する。20日、広元は義時の使いと称し、御所を訪れて「御子孫の繁栄の為に、御当官等を辞しただ征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将を兼ね給うべきか」と諫めた。実朝は「諌めの趣もっともといえども、源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と答える。広元は再び是非を申せず退出し、それを義時に伝えた[注釈 5]

11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元は頻りにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向って曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお宋への関心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、円覚寺の舎利殿に祀られている。また渡宋を命じられた葛山景倫は後に実朝の為に興国寺を建立したという。

5月20日、一首の和歌と共に恩賞の少なさを愁いた紀康綱備中国の領地を与える。詠歌に感じた故という。

最期

建保5年(1217年)6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に就く。

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鶴岡八幡宮の大銀杏(倒壊前)

建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、実朝は右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。右大将はかつて父が補任された職で、左大将はその上位である。同月、政子が病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣。政子は京で後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面したが、『愚管抄』によればこの際に実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを政子が卿局に相談した。卿局は養育していた頼仁親王を推して、2人の間で約束が交わされたという。3月16日、実朝は左近衛大将左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。

建保7年(1219年)1月27日、が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ実朝は落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に源仲章を切り殺したが、『愚管抄』によるとこれは北条義時と誤ったものだという。『吾妻鏡』によれば、御所を発し八幡宮の楼門に至ると、義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを仲章に譲った。一方、『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により、太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しなかった。実朝のは持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された[注釈 6]

『吾妻鏡』によると、予見が有ったのか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んと伝わる辞世の和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で「禁忌の和歌」と評される[注釈 7]。落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わる[注釈 8]。『承久記』によると、一の太刀はに合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。

28日、妻は落餝し御家人百余名[注釈 9]が出家する。『吾妻鏡』によると亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺したとあるが、『愚管抄』には首は岡山の雪の中から見つかったとある。実朝には子が無かったため、彼の死によって源氏将軍および河内源氏棟梁の血筋は断絶した。

年表

  • 年月日は出典が用いる暦。
  • 西暦は元日を旧暦に変更している。
和暦 西暦 月日 内容 出典
建久3年 1192年 8月9日 出生(数え年1歳) 吾妻鏡
建仁3年 1203年 9月7日 従五位下に叙し、征夷大将軍宣下(12歳) 吾妻鏡
10月8日 元服 吾妻鏡
10月24日 右兵衛佐に任官 吾妻鏡
元久元年 1204年 7月18日 兄・源頼家薨去(13歳) 吾妻鏡等
元久2年 1205年 1月5日 従五位上に昇叙し、右兵衛佐如元(14歳) 明月記
1月29日 右近衛権中将に転任し、加賀介を兼任 明月記
6月 畠山重忠の乱 吾妻鏡
閏7月 牧氏事件 吾妻鏡
9月7日 披露前の新古今和歌集を京より運ばせる 吾妻鏡
建永元年 1206年 2月22日 従四位下に昇叙し、右近衛権中将・加賀介如元(15歳) 吾妻鏡
10月20日 頼家の次男・善哉(後の公暁)を猶子とする 吾妻鏡
承元元年 1207年 1月5日 従四位上に昇叙し、右近衛権中将・加賀介如元(16歳) 吾妻鏡
承元2年 1208年 2月 疱瘡を患う(17歳) 吾妻鏡
12月9日 正四位下に昇叙し、右近衛権中将・加賀介如元 吾妻鏡
承元3年 1209年 4月10日 従三位に昇叙(18歳) 吾妻鏡
5月26日 右近衛中将に任官 吾妻鏡
建暦元年 1211年 1月5日 正三位に昇叙し、右近衛中将如元(20歳) 吾妻鏡
1月18日 美作権守を兼任 吾妻鏡
建暦2年 1212年 12月10日 従二位に昇叙し、右近衛中将・美作権守如元(21歳) 吾妻鏡
建保元年 1213年 2月27日 正二位に昇叙し、右近衛中将・美作権守如元(22歳) 吾妻鏡
5月 和田合戦 吾妻鏡
金槐和歌集を纏める 同集定家所伝本奥書
建保4年 1216年 3月5日 頼家の娘(後の竹御所)を猶子とする(25歳) 吾妻鏡
6月20日 権中納言に転任 吾妻鏡
7月21日 左近衛中将兼任 吾妻鏡
9月20日 大江広元より昇進を諌められる 吾妻鏡
建保5年 1217年 4月17日 陳和卿に造らせた船を海に出すが沈む(26歳) 吾妻鏡
建保6年 1218年 1月13日 権大納言に転任(27歳) 吾妻鏡
3月6日 左近衛大将左馬寮御監を兼任 吾妻鏡
10月9日 内大臣に転任。左近衛大将・左馬寮御監如元。 吾妻鏡
12月2日 右大臣に転任。左近衛大将・左馬寮御監如元。 吾妻鏡
建保7年 1219年 1月27日 鶴岡八幡宮で公暁に襲われ落命(享年28/満26歳没) 吾妻鏡、愚管抄承久記

祭祀

  • 胴体の墓は、寿福寺境内に掘られたやぐらの内に石層塔が設けられている。寿福寺は源義朝邸宅跡に建てられた寺院であり、実朝の墓の隣には母・政子の墓がある。
  • 首は公暁の追っ手の武常晴神奈川県秦野市大聖山金剛寺(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬ったといわれ、御首塚(みしるしづか)と呼ばれる。
  • 金剛寺の阿弥陀堂には政子が実朝が生前礼拝した阿弥陀三尊を贈ったとされる。
  • 高野山には政子の発願により、実朝の菩提を弔うために創建された金剛三昧院がある。
  • 鶴岡八幡宮境内の白旗神社に頼朝と共に祀られ、明治になり白旗神社境内に改めて柳営社が建てられ祀られた。八幡宮では実朝の誕生日である8月9日に実朝祭が行われている。
  • 中野区上高田にある金剛寺は波多野中務大輔忠経が源実朝の為に建長2年(1250)相州波多野に創建、江戸下野入道心佛が江戸小日向郷金杉村へ移転、文明年中(1469-1486)に太田道灌が再興、丸ノ内線開線に伴い現地に移転、なお寺には源実朝位牌・太田道灌位牌木像安置してあったが空襲により焼失。

和歌

ファイル:実朝5344.jpg
源実朝歌碑、鴨川畔、京都市左京区下堤町

評価

吾妻鏡
蹴鞠の書が京より送られたのを受け「将軍家諸道を賞玩し給う中、殊に御意に叶うは、歌鞠の両芸なり」。
長沼宗政
畠山重慶謀反の際に「当代は歌鞠を以て業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以て宗と為し、勇士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う」。
大江広元
昇任を急ぐ実朝を憂慮し、「今は先君の遺跡を継ぐばかりで、当代にさせる勲功は無く、諸国を管領し中納言中将に昇られる」。
正岡子規
仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来實朝以来一向に振ひ不申候。實朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。強ち人丸赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、實朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに實朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、實朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて實朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は實朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。 『歌よみに与ふる書

研究

後鳥羽上皇は実朝に好意的であり、その昇進に便宜を図ったといわれている。その一方で、建永元年12月に上皇が要求した備後国太田荘の地頭職停止要求を拒絶するなど対朝廷の強硬態度を示しており[3]西園寺公経が右近衛大将を解任された折には上皇の非を指摘してこれを諌めている。また、順徳天皇蔵人に任じられた大江時広が鎌倉での職務を疎かにして京都に戻ろうとするのを「御家人でありながら鎌倉を軽んじている」とたしなめている[4]。上皇が実朝の死を好機と見て承久の乱に踏み切ったことから見ても、単に『親朝廷の将軍』と判断するのは早計である。父・頼朝は自分の娘を後鳥羽天皇(当時)の妃にしようとするなど幕府を固めるために朝廷の利用を考えていた面があり、上皇との接近はその継承とも解釈できる。

また、上横手雅敬以来、実朝には自らの後継として皇族将軍(宮将軍)を猶子に迎える構想があったことが指摘され、また急激な官位の昇進をそのための環境づくりの側面があった(形式上でも皇族の父親となる以上、大臣級の官位を必要とした)とする見方がある(河内祥輔説)。だが、鎌倉幕府成立以後、武士階層が次第に政治力と自信をつけてくるにつれて朝廷や貴族による支配を拒絶する態度をより明確にするようになり、その中核をなした御家人などからは極端な官位昇進などを朝廷重視の姿勢の現れであると見なされ、後の暗殺事件への伏線になったとの説もある。

一方で元木泰雄によると頼家実朝は共に摂関家子弟クラスにしか許されていなかった「五位中将」となっていて、源氏将軍家は摂関家並みの家格が認められており、その点から見れば実朝の急速な官位上昇も摂関家子弟と比較すればごく普通なものである。

偏諱を与えた人物

脚注

注釈

  1. 頼朝の子としては第6子で四男、北条政子の子としては第4子で次男
  2. 『吾妻鏡』建仁3年9月15日条には征夷大将軍補任の宣旨が下されたと記されているが、『猪隈関白記』9月7日条には内大臣藤原隆忠上卿として従五位下征夷大将軍補任の除目が行われて後鳥羽上皇が「実朝」という名を定めたと記されており(同一の補任に対して除目と宣旨が同時に行われることはない)、両者の記事は矛盾しており同時代史料である後者が正しい可能性が高い[2]
  3. 実朝の婚姻は頼家の母方の北条氏と妻方の比企氏が衝突した比企能員の変の翌年のことであり、一概に実朝の京都・貴族志向の表れとは解することは出来ない。
  4. ここで言う「侍」とは、位階で言えば六位に相当する諸官衙の三等官を指し、御家人たちはこの身分に属していたが、北条氏の被官は御家人の家来にすぎず、「侍」身分とは区別される身分である。つまり、義時は自分の郎従だけを特別扱いして欲しいと望んだ。
  5. 上横手雅敬河内祥輔は、この会話を実朝が男子誕生を断念して然るべき家から後継者を求める意思を示し、義時にその伝言を求めたとする解釈を採る。
  6. 落命の件は、実朝を除こうとした「黒幕」によって実朝が父(頼家)の敵であると吹き込まれた為だとする説がある。ただし、その黒幕の正体については北条義時、三浦義村、北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀、後鳥羽上皇など諸説ある。北条義時黒幕説の代表的なものとして龍粛(『鎌倉時代 下(京都)』春秋社、1957年)、安田元久(『北条義時』吉川弘文館、1961年)など。三浦義村黒幕説は永井路子が小説『炎環』(光風社、1964年)で描いて以来注目され、石井進がその可能性を認め(『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社、1965年)、大山喬平(『日本の歴史9 鎌倉幕府』小学館、1974年)、上横手雅敬(「承久の乱」安田元久 編『古文書の語る日本史3 鎌倉』筑摩書房、1990年)などが支持している。北条・三浦ら鎌倉御家人共謀説は五味文彦(「源実朝-将軍独裁の崩壊」『歴史公論』、1979年)が、後鳥羽上皇黒幕説は谷昇(「承久の乱に至る後鳥羽上皇の政治課題 -承久年中「修法群」の意味-」『立命館文学』588号、2005年)が提唱している。またそれらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところにこの事件の最も大きな要因を求める見解もあり、山本幸司(『日本の歴史9 頼朝の天下草創』講談社、2001年)、永井晋(『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年)、坂井孝一(『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』講談社、2014年)、高橋秀樹(『三浦一族の中世』吉川弘文館、2015年)、矢代仁(『公暁―鎌倉殿になり損ねた男 』ブイツーソリューション、2015年)などが公暁単独犯行説を取っている。
  7. この歌は『吾妻鑑』以外には『六代勝事記』にしか見えず、菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」に類似する。これらの点から、実朝は梅の歌をしばしば読むのを知っていた『六代勝事記』の作者が、歌人としての実朝を悼み、急速に右大臣になった実朝と道真を重ね合わせて代作し、『六代勝事記』を原史料として用いた『吾妻鑑』が惨劇の予兆としてあえて取り込んだ歌とする説もある。坂井(2014)pp.261-264。
  8. 大銀杏については『吾妻鑑』に記載がなく後世の創作とする説もある。
  9. 大江親広大江時広中原季時安達景盛二階堂行村加藤景廉、以下百余名。

出典

  1. 産所は鎌倉の名越浜御所であり北条時政の屋敷といわれる。『吾妻鏡』建久3年7月18日条
  2. 北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194)。
  3. 安田元久『北条義時』(P180)。
  4. 『吾妻鏡』建保6年8月20日条。

参考文献

  • 伝記
    • 吉本隆明 『源実朝』日本詩人選12、筑摩書房、1971年(ちくま文庫、1990年、ISBN 978-4-480-02376-6)
    • 石川逸子 『われて砕けて』 文芸書房、2005年、ISBN 9784894771857
    • 坂井孝一 『源実朝 「東国王権」を夢見た将軍」』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2014年7月、ISBN 978-4-06-258581-1

関連項目

外部リンク

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