満州民族

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満洲民族
ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡠᡴᠰᡠᡵᠠ
総人口
10,700,000
全人類の0.15%
(見積)
居住地域
中華人民共和国の旗 中国 10,682,263[1]
香港の旗 香港 288[2]
台湾の旗台湾 12,000[3]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ 379[4]

満州民族満洲民族、まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満州族満洲族、まんしゅうぞく、マンジュぞく、テンプレート:Lang-mnc 、転写:manju uksura)は、満洲中国東北部沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中国およびモンゴル国の全土を支配するを興した。清朝では、民族全体が八つのグサ(=八旗)に組織され(=満洲八旗)、モンゴル人や漢人の八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系のツングース民族にオロチョンウィルタナナイエヴェンキシベがある。中華人民共和国による民族識別工作では、蒙古八旗漢軍八旗も含む「旗人の末裔」全体が「満族(まんぞく, マンズゥ)」に「識別」(=区分)され、「55の少数民族」のひとつとされた。2010年の中国の国勢調査では1,038万人とされ、「少数民族」としてはチワン族回族に次ぐ人口である[5][注釈 1]

概要

「満州」の漢字は満洲語の民族名manju(マンジュ)の当て字で、元来は「満洲」と表記されていたが、現在の日本では一般に常用漢字をもって「満州」と表記することが多い。

満洲民族の起こった地域は、西欧では満洲民族の土地という意味でマンチュリア(Manchuria)と呼ばれ、漢語ではこれに対応して満洲と呼ばれる。このため、特に民族のことを指す場合は、満洲民族・満洲族・満洲人満人などと表記する。映画『ラストエンペラー』で知られる清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀や、戯曲『茶館』などの作品で有名な作家老舎も満州族の出身である[5]

現政権のもとでは、モンゴル人・漢人の末裔の一部(旧「蒙古八旗」, 旧「漢軍八旗」の末裔ら)と合わせて「満族」(满族, măn zú)としてひとくくりにされ、中華人民共和国55少数民族の一つという位置付けをうけている。1911年辛亥革命による清朝崩壊後は排斥を受け、1949年の中華人民共和国の成立後も他の少数民族とは異なり、自治県はいくつかあるものの、自治区や自治州は存在しない[5]。現代にあっても、中国の支配層を構成する漢民族は近代以前に満洲民族の清朝に支配されたという歴史的屈辱や、日本の支援で満洲国によって再び満洲民族の皇帝に支配されたという歴史的経緯から、満洲という言葉には敏感である。

かつて中国を支配した旗人の末裔であり、中国全土に散在する。満族の過半数は、遼寧省に居住している[5]が、河北省吉林省黒竜江省内モンゴル自治区新疆ウイグル自治区甘粛省山東省にも分布し、北京天津成都西安広州銀川などの大都市やその他中小都市にも居住する。清朝前期の公文書や民間史料は満州語だけで記されているが、漢族との同化が進み、満州語は危機に瀕している[5]2013年現在、中国国内で満州語を解し、古文献も読めるレベルの学者は10名ほどにすぎない[5]。清朝発祥の地といわれているのが、遼寧省の撫順市の新賓満族自治県である[5]。しかし、そこにあっても満州民族の小学校は1校しかなく、満州族固有の姓を用いる児童もいない[5]

満洲民族の起源

満洲民族の前身は、12世紀に中国の北半分を支配したを建てた女真族であり、女真以前にこの地方にいた粛慎挹婁勿吉靺鞨の後裔であると考えられている。狩猟民であるが、同時に簡単な遊牧牧畜農耕を行っていた。また居住地はモンゴルと接し、交易を行ったり婚姻関係を結ぶなど関係は深かった。

民族名となったマンジュは、よくサンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来すると言われているが、実際は不明である。元来は16世紀までに女真と呼ばれていた民族のうち、建州女真に分類される5部族(スクスフ、フネヘ、ワンギヤ、ドンゴ、ジェチェン)の総称であった。岡田英弘ダライ・ラマが「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを乾隆帝が利用したことから文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている。[6]

これら諸部族がスクスフ部出身のヌルハチによって統一されると、ヌルハチの支配する国はマンジュ国(manju gurun, 満洲国)と呼ばれるようになり、さらにマンジュ国が海西女真4部、野人女真4部を併合して後金に発展したため、満州の名が広く女直全体の総称として用いられるようになった。ヌルハチは、満洲語を表記するためにモンゴル文字を改良させて満洲文字を作り、満洲民族文化を確立することに努めた。

ヌルハチの死後、後継者のホンタイジは女真を民族名として用いることを禁じ、「満洲」(マンジュ)の民族名が定着した。「洲」という文字がついていることで、現在では満洲というと「中国東北部」や満洲里などの地域の名前のイメージが強く、現在でも欧米では“Manchuria”のように地域呼称として用いられるが、中国においては民族名であり、土地の名前ではない。

遺伝的特徴

満州民族のY染色体ハプログループは多数の系統が存在する。最も多いのは漢民族を特徴づけるO2系統であり、37%みられる[7]。次いで多いのはC2系統であり、アルタイ諸語を話す民族に関連するタイプである。満州語はアルタイ語族のツングース諸語に属すが、C2系統は25.7%[8]と特段多いとは言えない。3番目に多いのはウラル語族に関連するN系統であり、14.3%みられる[9]。N系統は遼河文明の担い手であり[10]、かつては満州地域に高頻度に観察されたようであるが、現在は後から進出したO2系統やC2系統に上書きされたかたちとなっている。また日本人に高頻度のO1b2系統も15%前後観察され、東アジア諸民族の中では比較的日本人とも共通性は高いと言える[11]O1b系統からは華南東南アジアに多いO1b1も低頻度見られる。O1b1はオーストロアジア語族[12]に、O1b2は弥生人に関連すると想定される。その他西ユーラシア起源のR1aJも僅かながら見られる。

また、HLAハプロタイプは、日本の日本海沿岸に特徴的なB44-DR13、B7-DR1がよく見られる[13][14][15][16]

清朝時代の満洲民族

乾隆帝時代の大臣であるマチャン
ファイル:Manchu Soldiers.jpg
清朝末期の満州族の武人たち

女真人であるホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸民族を満洲(人)と統合し、国号をと改めた。因みに、“満”も“洲”も“清”のいずれにも“さんずい”が付いているのは、五行の火徳にむすびつく“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる[17]。多民族国家である清のもとで、満洲人は八旗と呼ばれる8グループに分けられた集団に編成されて、清を支える軍人・官僚を輩出する支配民族となる。

清は、1644年が滅びると万里の長城以南に進出して明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて中国大陸を満洲民族が支配する体制を築き上げた。清の歴代の皇帝は、漢民族が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めたが、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも中国語が話されるようになり、習俗も中国化していった。

逆に、中国を扱った映画などの作品で見られる辮髪両把頭チャイナドレスは元来は満洲族の習俗であったものが清の時代に中国に持ち込まれたものである。まず、明との戦争に際し、敵味方の区別を容易にするため、辮髪にするよう命じ、1644年の明朝滅亡後、清朝の統治者は満洲族の髪型と服装を本格的に強制し、漢民族の服飾を身に付けることを禁止した(「剃髪易服」 - 髪を剃り、服を替えるの意)。なお、一方では、それと引き換えに科挙等の明朝の制度は存続させるなど、強硬政策と懐柔政策を併用した。

満洲民族の故地である満洲は皇帝の故郷として保護され、漢民族の移住は制限されていたが、清末には漢民族の農民が入植するようになり(闖関東)、漢民族人口が急増して満洲民族をはじめとするツングース系諸民族は人口の上でも生活範囲の上でもまったく追いやられてしまった。

1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)として満洲国が建てられるが、満洲国はの五民族による五族協和を理念としており、満洲国の内部において自国が満洲民族の国家として意識されていたわけではない。しかしながら満洲民族においては建国後に帝政期成運動を起こすなど、満洲国に民族の復権を期待する向きも一部ではみられた。

現代の満洲民族

第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、「民族識別工作」を行って少数民族を中国の内部で一定の権利を有する民族として公認していった。 清朝時代、八旗旗人たちは、マンジュたちの満洲八旗のほか、蒙古八旗漢軍八旗など3民族から構成されていたが、この「民族識別工作」では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを、「蒙古族」(もうこぞく)や「漢族」(かんぞく)に区分するのではなく、3民族の「旗人」たち全体をまとめて「満族」と区分されることになった。

満族の人々の間では、現在はごく少数の老人を除いて満洲語を話す者は殆どおらず、伝統宗教のシャーマニズムの信仰もほとんど残っていない。このような状況から、満洲民族は、言語的・文化的に中国社会に同化され、失われつつある先住民族であるとも見なされうる。1980年代以降は政府の少数民族優遇政策から積極的に民族籍を満族に改めようとする動きがあって、満族の人口は10年あまりのうちに3.5倍以上に増加しているが、これは満族になる事で少数民族として優遇措置の恩恵を受けようとする人が多いためといわれており、満洲語を学習しようとする人が増加している訳ではない。しかし一方で、固有の文化を失いながらも満洲民族の民族意識はとても強いともいわれている。

満洲民族出身の著名人

その他

自治県

自治州はないが、11の自治県がある。

満洲民族の特徴

満洲民族の姓氏は、本来、愛新覚羅等に見るように満洲語に基づいたものだったが、現代満族の多くは、中国式の姓氏を用いている。これは、清末期の滅満興漢の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、文化大革命等による中国当局の弾圧を避けるための方便であったと考えられる。しかしながら、アイシンギョロ(愛新覚羅)は金または趙に、グワルギャ(瓜爾佳)は関に、イェヘナラ(葉赫那拉)は葉または那、イルゲンギョロは趙または佟に、ニオフル(鈕祜禄)は郎、フチャ(富察)は富または傅に、ヘシェリ(赫舎里)は赫、何または英に、トゥンギャ(佟佳)は佟に、ワンギャ(完顔)は王のように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族―哈喇漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。

本来、満洲民族は漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣は無く、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は例えば「グワルギャ氏のオボイ(満洲語:gūwalgiya hala-i oboi) 」という呼び方をしていた。

満洲民族は、清朝時代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。1990年の人口調査資料によれば、満族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41%で、全国22.21%、漢族21.53%よりも遥かに低く、中国各民族中で最低であった[19]。2007年10月現在のデータは不明。

満洲民族の呼称の変遷

女真語・満洲語による呼称の変遷

中国語による呼称の変遷

脚注

注釈

  1. 2000年の人口調査では満族人口は10,387,958人であった。

出典

  1. Ethnic Groups - china.org.cn - The Manchu ethnic minority”. . 2008閲覧.
  2. 《我所认识的香港民族问题》,刊载于《民族团结》1996年第8期
  3. Manchusoc:The origins of Manchu people in Taiwan(Chinese simplified)
  4. Census 2000 PHC-T-43. Census: Table 1. First, Second, and Total Responses to the Ancestry Question by Detailed Ancestry Code: 2000
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 「消えゆく満州語守れ」『朝日新聞』2013年9月6日
  6. 「清朝とは何か」(藤原書店)
  7. Yali Xue et al 2006, Male demography in East Asia: a north-south contrast in human population expansion times
  8. Yuli et al.2006
  9. Yuli et al.2006
  10. Yinqiu Cui, Hongjie Li, Chao Ning, Ye Zhang, Lu Chen, Xin Zhao, Erika Hagelberg and Hui Zhou (2013)"Y Chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. " BMC 13:216
  11. Yuli et al.2006
  12. 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年) 
  13. 徳永勝士 (1995)「HLA遺伝子群からみた日本人のなりたち」『モンゴロイドの地球(3)日本人のなりたち』東京大学出版会, 第4章, 遺伝子からみた日本人, p193-210
  14. 徳永勝士 (1996) 「HLA の人類遺伝学」『日本臨床免疫学会会誌』=『Japanese journal of clinical immunology』19(6), 541-543
  15. 徳永勝士 (2003)「HLA と人類の移動」『Science of humanity Bensei』(42), 4-9, 東京:勉誠出版
  16. 徳永勝士 (2008)「HLA遺伝子:弥生人には別ルートをたどってやってきた四つのグループがあった!」『日本人のルーツがわかる本』逆転の日本史編集部, 東京:宝島社, p264-p280
  17. 清朝为什么叫大清
  18. 全国创新争先奖章拟表彰名单”. 中華人民共和国科学技術部. . 2018閲覧.
  19. 焦点中国網「民族風情 - 満族」

関連項目

外部リンク

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