湘南
湘南(しょうなん)は、神奈川県の相模湾沿岸地方を指す名称である。語源は、かつて中国に存在した長沙国にあった洞庭湖とそこに流入する瀟水と湘江の合流するあたりを瀟湘と呼びその南部に似ていたことから瀟湘と(洞庭)湖南より一字ずつを取り湘南としたとされている[1][2]。なお、瀟湘は、現在の湖南省南部地域の地名である[1]。
歴史
国内文献における「湘南」の初出は『倭名類聚抄』で、かつて中国に存在した長沙国湘南県である。中世中国の湘南では禅宗が発展し、そのメッカであった。 現在の日本では「湘南」とは主に神奈川県相模湾沿岸を指すが、うち禅宗を保護した鎌倉幕府の拠点「鎌倉」は、現在も禅宗臨済宗建長寺派および臨済宗円覚寺派の大本山「建長寺」・「円覚寺」の所在地であり、鎌倉時代には夢窓疎石らにより日本の禅宗の中心地ともなった禅宗と非常に密接な関係を有する土地でもある。
「湘南」の定義は曖昧だが、神奈川県の沿岸地区地方を指す名称である。鎌倉や江の島などは観光資源が豊富で観光集客力が高く、マスコミによるイメージ作りにより、山と川が織りなす景観の構想から「海」や「太陽」や「若者」などの連想になっていった。
「湘南」の由来
「湘南」とは、もともと現在の中国の湖南省を流れる湘江の南部のことで、かつては長沙国湘南県が存在し、中世には禅宗のメッカとなった。日本における「湘南」も禅宗の流入に伴って広まったと考えられ、「禅宗」を保護した鎌倉幕府の北条得宗家が居し、国内初の禅寺「建長寺」や「円覚寺」を擁した鎌倉周辺の地域が、中国の「湘南」にちなんで名付けられたといわれる[* 1]。実際に、円覚寺の僧夢窓疎石の周辺には「湘南」を冠する人物・建築が散見される。また、江戸時代に入った1664年ごろ、室町時代に中国から日本に移住した中国人の子孫が小田原に居してういろう商人となり(崇雪という人物)、自ら創設した大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが、現在の神奈川県周辺域における呼称の起源ともいわれる。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあり、本物は大磯町が管理している[* 2]。
明治期の「湘南」
江戸期に大磯発祥の命名とされる「湘南」は、明治期に政治結社名や合併村名に用いられた。当時、相模川以西地域が湘南、相模川以東地域は湘東または新湘南という認識だった。 明治期の「湘南」は、山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる[* 3]。
明治維新により、当時西欧で流行していた海水浴保養が日本にも流入し、適した保養地として逗子や葉山、鎌倉、藤沢など相模湾沿岸が注目されて別荘地となり、湘南文化が芽生える。
1897年、赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介する。翌1898年、元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂して随筆集『自然と人生』(1900年)を出版[* 4]する。これを端緒に「湘南」は、当初の相模川西岸から、相模湾沿岸一帯を表すように変化する。
年表
江戸時代以前
・鎌倉時代に鎌倉幕府が、中国政府から、鎌倉幕府および幕府の南側いったいを、湖南省にあった湘南からいただいた。
よって、鎌倉時代から安土桃山時代や江戸時代初期までは、「湘南」と言えば、鎌倉幕府および幕府の南側である三浦半島のみ呼ばれたり、書物も現存され、相模の南地域においての湘南の書物もない。
明治時代
- 明治時代全般 - 「湘南」という名称が、政治結社や新しく生まれる行政村の名に用いられるようになる。
- 1879年(明治12年)- 内務省から海水浴場候補地の諮問を受けたエルヴィン・フォン・ベルツ博士(お雇い外国人で東京医学校の講師であったドイツ人医師)が、江の島を訪問し、片瀬が適地と答申する。
- 1882年(明治15年)- 明治政府の使節団が、英国はロンドン近郊のブライトン海浜保養地 (jp,en) を視察する。
- 1885年(明治18年)
- 1886年(明治19年)- 藤沢の鵠沼海岸に海水浴場を開設する。
- 1887年(明治20年)7月11日 - 官設鉄道東海道線(国鉄東海道本線〈現・JR東海道本線〉の前身)の横浜駅(初代の横浜駅である現在の桜木町駅)─国府津駅間が開通し、当地域では程ヶ谷駅(現・保土ケ谷駅)・戸塚駅・藤沢駅・平塚駅・大磯駅・国府津駅の6駅が一般駅として開業する。
- 1887年]](明治20年)頃 - 葉山が別荘地として開発され、在日イタリア公使レナルド・デ・マルティノやエルヴィン・フォン・ベルツ博士(皇族にとっては侍医)などといった在留上層外国人が別荘を構える。
- 1888年(明治21年)11月1日 - 官設鉄道東海道線で、大船駅が旅客駅として開業する。
- 1889年(明治22年)
- 1891年(明治24年)7月 - 有栖川宮が葉山のマルティノ別邸を購入し、有栖川宮別邸とする[3]/(熱海御用邸のような温泉保養地の別荘などは別として)海浜別荘の設置は、これが皇族として史上初であった[3]。
- 1892年(明治25年)
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)2月 - 葉山にて皇室の別邸(葉山御用邸)の竣工[3]。
- 1896年(明治29年)6月 - 葉山御用邸南付属邸の竣工[3]。
- 1897年(明治30年)- 徳富蘆花が赤坂から逗子柳屋へ転居する。
- 1898年(明治31年)- 國民新聞に『湘南歳余』(徳富蘆花)が掲載される。
- 1900年(明治33年)- 『湘南雑筆』を含む『自然と人生』(徳富蘆花)が出版され、逗子の自然や、逗子から見た相模湾や富士山などの風景を西洋画風に紹介する。
大正時代
- 1921年(大正10年)- 神奈川縣立湘南中學校を藤沢町鵠沼に開設する。
- 1922年(大正11年)- 歌誌『明星』2月号に、荻野綾子の鵠沼を詠んだ『湘南にて』が掲載される。
昭和時代
- 1928年(昭和3年)- 高瀬弥一の江之島水道株式会社が玉川水道と提携し、湘南水道株式会社として事業を拡張する。
- 1930年(昭和5年)- 湘南電気鉄道黄金町~浦賀駅間、金沢八景駅~湘南逗子駅間が開業し、「湘南電車」と呼ばれる。
- - 神奈川県土木部、湘南海岸道路(川口村片瀬龍口寺-中郡大磯町間)の敷設計画に着手する。
- 1931年(昭和6年)- 湘南瓦斯株式会社が藤沢町鵠沼で創業する。
- - 湘南養蚕実行組合が藤沢町で結成する。
- 1932年(昭和7年)- 植物学者久内清孝が、『植物研究雑誌』に「滅び行く湘南の鵠沼片瀬を弔う」を発表する。
- 1933年(昭和8年)- 湘南学園(小学校・幼稚園)を藤沢町鵠沼に開設する。
- 1935年(昭和10年)- 都市計画神奈川地方委員会が、湘南海岸公園計画地域を可決して答申する。
- - 松岡静雄が「神楽舎講堂湘南国語研究会誌」第1輯発行する。
- 1936年(昭和11年)- 湘南氷業販売組合を藤沢町で結成する。
- - 神奈川県道片瀬大磯線相模川「湘南大橋」完成し、全線開通する。
- 1941年(昭和16年)- 藤沢市内外の文化人や宗教家が集まり、「湘南文化連盟」を結成する。
平成時代
「湘南」の範囲
「湘南」の範囲は本来地形であるが、人や時代により様々に呼称されており、行政等における範囲を下記する。
行政
県の行政区域 [* 5] |
気象区分 [* 6] |
ナンバープレート [* 7] | |
---|---|---|---|
推計人口合計 (2018年4月1日) |
1,304,376人 | 1,617,133人 | 1,645,814人 |
平塚市 | ○ | ○ | ○ |
藤沢市 | ○ | ○ | ○ |
茅ヶ崎市 | ○ | ○ | ○ |
秦野市 | ○ | × | ○ |
伊勢原市 | ○ | × | ○ |
大和市 | × | ○ | × |
海老名市 | × | ○ | × |
座間市 | × | ○ | × |
綾瀬市 | × | ○ | × |
小田原市 | × | × | ○ |
南足柄市 | × | × | ○ |
寒川町 | ○ | ○ | ○ |
大磯町 | ○ | ○ | ○ |
二宮町 | ○ | ○ | ○ |
中井町 | × | × | ○ |
大井町 | × | × | ○ |
松田町 | × | × | ○ |
山北町 | × | × | ○ |
開成町 | × | × | ○ |
箱根町 | × | × | ○ |
湯河原町 | × | × | ○ |
真鶴町 | × | × | ○ |
その他
- 湘南市構想[* 8]
- 平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町、大磯町、二宮町
- 平成の大合併期の合併推進圏域[* 9][4]
- 湘南西圏域…平塚市、秦野市、伊勢原市、大磯町、二宮町、中井町およびその周辺地域[* 10]
- 湘南東圏域…鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町およびその周辺地域[* 11]
- 旧鎌倉湘南学区[* 12]
- 藤沢市、茅ヶ崎市、鎌倉市、寒川町
- 旧湘南村
- 現在の相模原市のうち、城山町小倉[* 13]、城山町葉山島[* 14]の両地区。「相模川」の「南」にあることから名付けられて、現在の湘南地域とは離れている[5]。
「湘南」を冠する主なもの
教育
- 湘南国際村[* 15]
- 横須賀市、葉山町[* 16]
- 神奈川歯科大学
- 横須賀市
- 鎌倉女子大学
- 鎌倉市
- 湘南工科大学
- 藤沢市
- 日本大学 湘南キャンパス
- 藤沢市
- 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス
- 藤沢市
- 多摩大学 湘南キャンパス
- 藤沢市
- 文教大学 湘南キャンパス
- 茅ヶ崎市
- 神奈川大学 湘南ひらつかキャンパス
- 平塚市
- 東海大学 湘南キャンパス
- 平塚市
- 松蔭大学 湘南キャンパス
- 平塚市
- 産業能率大学 湘南キャンパス
- 伊勢原市
- 神奈川県立湘南高等学校
- 藤沢市
- 学校法人湘南学園(幼稚園、小学校、中学校、高等学校)
- 藤沢市
- 学校法人湘南白百合学園(幼稚園、小学校、中学校、高等学校)
- 藤沢市
- 湘南学院高等学校
- 横須賀市
スポーツ
- 湘南ベルマーレ(サッカーJリーグのチーム)ホームタウン
- 平塚市、藤沢市、厚木市、茅ヶ崎市、小田原市、秦野市、伊勢原市、鎌倉市、南足柄市、寒川町、大磯町、二宮町、大井町、開成町、中井町、箱根町、松田町、真鶴町、山北町、湯河原町
- 湘南シーサイドカントリー倶楽部(ゴルフ場)
- 茅ヶ崎市
- 国本哲秀および有限会社湘南[6]の冠名
- ショウナンパントル、ショウナンアデラ、ショウナンパンドラ、ショウナンカンプなど。
- 湘南ひらつかマルユウベースボールクラブ(社会人野球クラブチーム)
- 平塚市
- 湘南国際マラソン
- 湘南で行われているマラソン大会。
交通・経済
- 湘南モノレール - 湘南町屋駅、湘南深沢駅、湘南江の島駅
- 鎌倉市、藤沢市
- 湘南電気鉄道(京浜急行電鉄の母体会社の一つ)
- 横須賀市、逗子市[* 17]
- 湘南京急バス京浜急行バスの子会社
- 鎌倉市、逗子市鎌倉営業所、横須賀市堀内営業所 (一部横浜市)
- 旧湘南馬車鉄道(後に湘南軽便鉄道を経て湘南軌道となる)
- 秦野市、中井町、二宮町
- 湘南電車(正式名ではないが、昭和初期には湘南電気鉄道の電車の愛称、戦後は東海道本線の中距離電車の愛称。東海道線 (JR東日本)参照)
- 鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町、二宮町、小田原市、真鶴町、湯河原町。列車は静岡県まで直通する。
- 湘南スタイル
- 地域ではなく、国鉄の初代湘南電車(80系)第二次製造車のデザインに由来する。流線形の前面2枚窓のデザインで、1950年代から1960年代頃まで日本の鉄道車両デザインのトレンドとなり、空前絶後とも言える影響を与えた。JR東日本藤沢駅ホーム上のキヨスクが、80系のほぼ原寸大のレプリカとなっている他、2017年現在も全国の私鉄でこのデザインの車両が活躍している。1998年創刊の同名の雑誌は全く無関係[* 18][* 19]。
- 湘南色
- 前述の国鉄初代湘南電車(80系)で初めて採用された窓周りが橙色、上下を深緑色で塗り分けた塗色の通称名。この塗色は国鉄時代、直流電化区間を走行する急行形・近郊形電車の標準色となり主に本州の関東地方以西地域で広く見る事が出来た。2018年現在もJR西日本山陽エリアで僅かに見られ、第三セクターのしなの鉄道ではリバイバルカラーとして採用されている他、発祥の地である湘南電車エリアのステンレス製車両の帯色でも、やや色調が明るめに変更されてはいるが健在である。
- 湘南ライナー(湘南電車のホームライナー)
- 鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、二宮町、小田原市
- 湘南新宿ライン
- 鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町、二宮町、小田原市、逗子市。鎌倉市は東海道本線・横須賀線双方、逗子市は横須賀線系統のみ、他は東海道本線系統のみ。
- 湘南急行(小田急江ノ島線にかつて存在した列車種別)
- 大和市、藤沢市(小田原線沿線の自治体を除く)
- 横浜湘南道路
- 藤沢市(起点の横浜市を除く)
- 新湘南バイパス
- 藤沢市、茅ヶ崎市
- 湘南新道
- 藤沢市、茅ヶ崎市(神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線)
- 平塚市、寒川町(神奈川県道44号伊勢原藤沢線別線)
- 旧湘南遊歩道路
- 藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町
- 旧湘南道路
- 逗子市、鎌倉市、藤沢市
- 湘南大橋
- 平塚市
- 湘南港
- 藤沢市
- 湘南信用金庫本店
- 横須賀市。この名称は旧横須賀信用金庫が鎌倉信用金庫を併合したことによる。
農産物
- 湘南ポモロン
- 神奈川県が開発したトマト、生食でも加熱でもおいしく食べられる。
- 色は、レッドとゴールドの2色がある。
- テレビ朝日(ごはんジャパン)[7]でも取り上げられた。
- 湘南ゴールド
- 神奈川県が開発した柑橘類の品種。
- 湘南レッド
- 神奈川県が開発した赤たまねぎ。
- 湘南の輝き
- 湘南で作られるハウスみかん。
加工品
- 湘南みかんジュース
- 神奈川県で作られているみかんのジュース。
- 湘南みかんシャーベット
- 神奈川県で作られているみかんシャーベット。
その他
- 神奈川県立 湘南海岸公園
- 藤沢市
- 湘南公園墓地 茅ヶ崎霊園
- 茅ヶ崎市
- 湘南鎌倉総合病院
- 鎌倉市
- 湘南美容外科
- 藤沢市、横浜市など
- 湘南玉手箱(駅弁)
- 鎌倉市大船駅など
- 旧湘南水道株式会社
- 鎌倉市、藤沢市
- 1933年(昭和8年)に神奈川県に買収されるまで存在した民営水道。
各地域の特色
藤沢・茅ヶ崎・寒川
県の行政区域では「湘南地域」に含まれ、江の島を中心とした海岸風景は、現代の「湘南」の代表的なイメージである。神奈川県立湘南高等学校、私立湘南学園(幼稚園-高等学校)は藤沢市に位置し、江ノ電沿線の大正時代に開発された住宅地である鵠沼や片瀬地域では比較的広い邸宅も見られる。
しかし、北部は海からも遠く、現代の「湘南」というイメージとはほど遠い工業・田園地帯である。地理的にも、町の雰囲気からみても、湘南と呼べるのは事実上東海道本線以南の沿岸地域だけといえるが、キャンパスの名称やマンション・アパート名など、大学や不動産業者のネーミング戦略的な理由により、かなり広い範囲で「湘南」が当てられている。
藤沢市北部に小田急江ノ島線・相鉄いずみ野線・横浜市営地下鉄の湘南台駅があり、その西に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスと文教大学湘南キャンパスがある。やや南の六会にも日本大学湘南キャンパス(旧・藤沢キャンパス)があるが、いずれも海岸からかなり離れた田園・丘陵地帯に位置する。
藤沢市西部、茅ヶ崎市北部にまたがる区域には「湘南ライフタウン」と呼ばれるニュータウンが存在するが、海岸地域ではなく、北部の丘陵地域を開発したものである。
現代の「湘南」のイメージが一般にも定着している加山雄三は横浜生まれだが茅ヶ崎育ち、またサザンオールスターズの桑田佳祐は茅ヶ崎市の出身であり、現在は茅ヶ崎海水浴場もサザンビーチと呼ばれている。
太平洋戦争末期、もし日本が降伏せずに徹底抗戦した場合、相模川以東で相模湾中央部の長い海岸線を持つという理由から、茅ヶ崎海岸が連合国軍上陸作戦の有力候補地点として想定されていた(コロネット作戦)。戦後海岸地区は一時アメリカ軍を中心とした連合国軍に接収された(在日米海軍辻堂演習場)が、1959年6月25日に返還された。
1940年(昭和15年)、藤沢町が片瀬町に合併を呼びかけた際、片瀬町が条件として市名を「湘南市」とする案が挙げられたが、実現せず、「藤沢市」となった経緯がある。(片瀬町が藤沢市に合併するのは1947年)
1956年(昭和31年)、寒川町が藤沢市と茅ヶ崎市に合併の上「湘南市」とする話を持ち掛けるが実現に至らなかった。
明治期、相模川に接した東側の茅ヶ崎・寒川の一部地域は湘東と呼ばれていた。「湘東」は、湘江に見立てた相模川の東の意味である[* 20]。
平塚
県行政区域では「湘南地域」に含まれ、県の出先機関である「湘南地域県政総合センター」を始め、湘南ナンバーを発行する「湘南自動車検査登録事務所」など湘南地域を管轄する行政機関が多く所在し、行政的に湘南地域の中心である。政治的にも「湘南市」として合併し政令指定都市を目指す構想の中心的役割を果たすが、リーダー役であった平塚市長が2003年に落選し構想は挫折する。
海岸は急に深くなる地形的理由から海水浴に適さないが、「湘南」のイメージ戦略もあり、海岸工事により近年海水浴場を開設した。相模湾を一望する湘南平は湘南海岸を俯瞰できる場所として知られる。夜景も美しく、湘南地域のデートスポットとして有名である。 関東三大七夕祭りの1つ「湘南ひらつか七夕まつり」が7月7日を中心とした3日間に開催される。サッカーJリーグの湘南ベルマーレの本拠地は平塚競技場である。市西部に東海大学湘南キャンパス・神奈川大学湘南ひらつかキャンパス(旧・平塚キャンパス)が存在する。
大磯・二宮
県行政区域では「湘南地域」に含まれる。江戸時代、崇雪が大磯の東海道筋にある標石に「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えた言葉を刻んだことから、湘南発祥の地とされており、その碑が城山公園内の大磯町郷土資料館に保存されている。
大磯は、律令以前に豪族の師長(磯長)国造が支配する地域だが、中央集権体制の整備に伴い朝廷に仕えた渡来人が移住したと考えられ、高麗山や高来神社など、大陸からの文化を広めた高句麗からの渡来人に由来する地名もある。明治以降には伊藤博文や吉田茂が別荘を構える。二宮は手狭な海水浴場で観光集客力は高くないが、温暖な気候で交通の便も良く堤義明邸も所在する。
明治期の「湘南」は「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」であり、大磯、二宮近辺には湘南馬車鉄道や、大磯町の湘南大磯病院、二宮町の湘南牛乳株式会社、など「湘南」を冠する企業[8]が存在した。
伊勢原
県行政区域上「湘南地域」に含まれ、伊勢原市大山は江戸時代に「湘山」「湘岳」と呼称され、歴史的に湘南海岸方面と連携する。経済面では車両交通に優れる平塚市と関連深く、小田急小田原線や国道246号で結ばれる厚木市など県央地域と関係が深化している。
秦野
県行政区域では「湘南地域」に含まれるが、山に囲まれた秦野盆地にあり、さらに大磯丘陵で湘南海岸地域と分離されており、地理的・経済的に連携は分断されている。そのため、一般に「湘南」の扱いはほぼ無い。
小田原
県行政区域上は「湘南地域」に含まれず、大磯 - 小田原間を結ぶ西湘バイパスの様に湘南の中の「西湘地域」と呼称される。小田原市は市町村合併で市域を拡大した事により、小田原沿岸は相模湾(湘南)の西側を占める割合となっている。
城下町をはじめ独自色が強く、海や山川を生かした保養地と観光地の特色が強い。 現在も、メディアや行政的ではなく広範囲な地形的である小田原市の一部地域は湘南と認識されている。
小田原市国府津地区は、昭和29年まで国府津町であった。小田原市の中でも国府津地区には湘南とされる大磯町、二宮町から連なる大磯丘陵「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」のある地形となっている。 明治期は国府津から海を見下ろす丘陵地を中心に政財界人の別荘が置かれた。 湘南避暑避寒の地として大隈重信や大鳥圭介、加藤泰秋等、華族や政財界要人が別荘を構えた。徳川慶喜は大鳥別荘を、西園寺公望は加藤別荘に滞在するなどの人的交流もあった。数多くの文人達もよく訪れていた。 国鉄時代は国府津機関区電車基地に湘南電車が配属されていた。 この電車に用いられた緑色に窓まわりのオレンジを配した塗装とは「湘南色」も呼ばれた。
小田原には「湘南」を冠したものが多く存在[* 21]した。
鎌倉・逗子・葉山
県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「横須賀三浦地域」と呼称される。現在の逗子市域は昭和初期に湘南電気鉄道沿線となり、戦後横須賀市より分離独立して発足した。「湘南」育ちの印象が強い石原裕次郎は、逗子市で青年期を過ごしている。「歴史の街」や「御用邸」などの印象が強く、「湘南」ではなくそれぞれ「鎌倉」、「逗子」、「葉山」と呼称される。
横須賀・三浦
県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「横須賀三浦地域」と呼称される。相模湾側は1000年以上昔から「湘南」と呼ばれ、鎌倉時代以降は幕府直轄領漁港として繁栄し、東京湾側と一線を引くように逗子市が横須賀市から分離する以前から最寄駅は逗子駅である。横須賀市中心部は相模湾ではなく東京湾に接し、湘南の基本的な定義である「相模湾沿岸」に該当しない。経済活動も横浜横須賀道路や京急線で結ばれる横浜と連携する。相模湾に面する横須賀市や三浦市西部では、長者ヶ崎を挟み葉山に接する秋谷海岸などで「湘南」を訴求する住宅地や避暑地も近年見られる。湘南鷹取、湘南国際村、湘南信用金庫、横須賀市中心部に所在する湘南学院高等学校など地名や企業名などに湘南を採用する例も多く、古くは昭和初期の湘南電気鉄道がある。プロ野球横浜ベイスターズ(2010年当時)二軍チームは、2000年から2010年シーズン終了まで湘南シーレックスとして横須賀を本拠地に活動した。
南足柄・足柄上郡・足柄下郡
県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「西湘地域」と呼称され、一般的に「湘南」として扱われる事は無いが、自動車登録番号標の「湘南ナンバー」適用エリアである。
相模原
県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称される。市内城山町小倉、城山町葉山島の両地区は、かつて湘南村という行政区が存在した。これは1889年に旧小倉村と旧葉山島村の合併で生じ、1955年に旧川尻村、旧三沢村と合併し旧城山町が成立して消滅する。2007年、旧城山町は旧藤野町とともに相模原市に編入され、現在に至る。旧村名の由来は「相模川を文人が湘江と呼んでいることにちなみ、湘江の南側の村」[9]である。現在、1906年に創立された城山町小倉の小学校名[10]にその名を留める。
大和・海老名・座間・綾瀬
県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、気象予報区における二次細分区域「湘南」適用エリアである。
厚木
県行政区域上「湘南地域」に含まれずに「県央地域」と呼称され、一般的に「湘南」の扱いは殆ど無いが、湘南ベルマーレのホームタウンの一つである。
国道134号
海沿いに伸びる国道134号は様々な映画、ドラマ、楽曲で取り上げられ、葉山御用邸、鎌倉高校前駅、江の島、烏帽子岩など「湘南」をイメージとさせる地点も多く、有数のドライブコースとして知られる。
湘南・鎌倉地域による合併案
鎌倉市、藤沢市、平塚市、茅ヶ崎市、およびその周辺地域の合併が、神奈川県推進の「期待されている合併の一つ」に湘南東圏域として[11][* 22][12]紹介されている。
湘南を舞台とした作品
小説
漫画
- 荒くれKNIGHT - 吉田聡著
- 海街diary - 吉田秋生著
- ケンコー全裸系水泳部 ウミショー - はっとりみつる著
- SURF SIDE HIGH-SCHOOL - 澤井健著
- GTO SHONAN 14DAYS - 藤沢とおる著
- 湘南グラフィティ - 吉田聡著
- 湘南爆走族 - 吉田聡著
- 湘南純愛組 - 藤沢とおる著
- 侵略!イカ娘 - 安部真弘著
- SLAM DUNK - 井上雄彦著
- 辻堂さんの純愛ロード - 黒柾志西著
- とめはねっ! 鈴里高校書道部 - 河合克敏著
- なぎさMe公認 - 北崎拓著
- ピンポン - 松本大洋著
- ラヴァーズ・キス - 吉田秋生著
- 陸上防衛隊まおちゃん - 赤松健著
- ハナヤマタ – 浜弓場双著
- 神奈川ナンパ系ラブストーリー-真崎聡子
アニメ
ゲーム
音楽
- 参照: 湘南サウンド
映画
脚注
注釈
- ↑ この地域が、景勝地でもある湘江の南部並みの絶景であったという説や、相模国の南部のため本来「相南」と略称するべきところ、佳字を当てる意味もあって中国の湘南にちなんだという説もある。
- ↑ 語源は仏教語であるともいわれる。中国の湘南地方(洞庭湖湖南の地域)は禅仏教が発展した地方であることから、禅に関連した古典や事象に「湘南」の文字を見ることができる。碧巌録、湘南葛藤録、西芳寺湘南亭など。
- ↑ 「湘南社」(大磯を本拠地とする自由民権運動のための政治結社)、「湘南村」(現相模原市城山町小倉、城山町葉山島両地区)など(出典「『湘南』はどこか」)。
- ↑ 蘆花がこの随筆の中で描写した自然の一例として、「逗子から相模湾越しに望んだ富士山や相豆の山並み」が挙げられる。
- ↑ 神奈川県の出先機関である「湘南地域県政総合センター」の所管区域。
- ↑ 横浜地方気象台の二次細分区域。横浜地方気象台市町村別区域一覧
- ↑ 関東運輸局神奈川運輸支局の出先機関である「湘南自動車検査登録事務所」の管轄区域。
- ↑ 2005年までの合併を目標としていたが、参加自治体の首長交代などにより白紙化され、事実上消滅。
- ↑ 神奈川県の市町村合併推進時における「圏域」
- ↑ ただし、中井町は県西圏域と重複。
- ↑ ただし、鎌倉市は三浦半島圏域と重複。
- ↑ 県立高校の学区。神奈川県立湘南高等学校も1980年まで属していた。この学区は1981年の学区細分化によって「鎌倉藤沢学区」と「茅ヶ崎学区」に分割され、2005年には県立高校学区自体が撤廃された。ただし、地区校長会や部活動の地区としては残っている。
- ↑ 「しろやまちょうおぐら」。郵便番号は220-0115。
- ↑ 「しろやまちょうはやまじま」。郵便番号は220-0114。
- ↑ 総合研究大学院大学や民間企業の研修所を含む国際研究拠点。
- ↑ 横須賀市と葉山町にまたがっているが、郵便番号は240-0107で横須賀市の一部として扱われている。
- ↑ 起点の横浜市を除く。
- ↑ 内容が鉄道車両とは一切関係無い。
- ↑ その後、2011年に同一出版社から「鉄道湘南スタイル」というタイトルの書籍が刊行されたが、誤記が目立つ不完全な内容である。
- ↑ 1883年、寒川・茅ヶ崎地域の資産家を出資者とする貸金会社「湘東社」が設立。1925年、「高座郡茅ヶ崎町湘東耕地整理組合」の名にも用いられ、現在は「湘東橋」という橋名に残っている。(出典「『湘南』はどこか」)
- ↑ 湘南煙草合名会社(小田原市)、湘南度量衡器製作株式会社(小田原市)、湘南介立社(小田原市)など(出典「『湘南』はどこか」)
- ↑ 鎌倉市は他にも三浦半島圏域案にも上っている。
出典
- ↑ 1.0 1.1 倭名類聚抄
- ↑ 『話し上手な人の 地名の由来ネタ帳』(電子書籍)2018年3月17日閲覧
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 水沼 淑子, 他 (2000年). “近代における皇族別荘の立地・ 沿革及び建築・ 使い方に関する研究 -海浜別荘を中心とする検討- (PDF)”. 住総研 研究年報No.27 2000年版. 一般財団法人住総研. . 2018閲覧.
- ↑ 「神奈川県における自主的な市町村の合併の推進に関する構想」
- ↑ 「湘南小学校」が海岸ではなく相模原の山奥にある意外な理由 幻の「湘南村」とは...
- ↑ keibaDATABASE
- ↑ ごはんジャパン
- ↑ (出典「『湘南』はどこか」)
- ↑ 出典「角川日本地名大辞典」
- ↑ 湘南小学校「『湘南』とは?」
- ↑ 「湘南東圏域」
- ↑ 「神奈川県における自主的な市町村の合併の推進に関する構想」