渡海紀三朗

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渡海 紀三朗(とかい きさぶろう、1948年2月11日 - )は、日本政治家自由民主党所属の衆議院議員(9期)。

文部科学大臣第9代)、内閣総理大臣補佐官教育再生担当)などを歴任した。一級建築士

来歴・人物

生い立ち

1948年政治家渡海元三郎長男として兵庫県高砂市に生まれる。

兵庫県立姫路西高等学校から早稲田大学理工学部に進学。

大学卒業後は日建設計に入社し、サラリーマン生活を送る。日建設計では、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場設計グリーンスタジアム神戸の構想計画などにも参画した[1]。その後、外務大臣であった安倍晋太郎秘書を務めた。

政治家として

1986年第38回衆議院議員総選挙で父の地盤を継ぎ初当選(当選同期に鳩山由紀夫斉藤斗志二三原朝彦村井仁逢沢一郎金子一義武村正義園田博之杉浦正健中山成彬谷津義男新井将敬石破茂笹川堯武部勤井出正一村上誠一郎など)。

1993年、当選同期の鳩山、武村らと共に自民党を離党し新党さきがけの結成に参加。党政策調査会長・党国会対策委員長などを務めた。

1996年第41回衆議院議員総選挙で落選。

1998年の新党さきがけの解散により自民党に復党した。

2000年第42回衆議院議員総選挙で当選し国政に復帰。科学技術総括政務次官文部科学副大臣・衆議院決算行政監視委員長・自由民主党兵庫県支部連合会会長などの要職を歴任した。

2007年8月、党政調会長代理に就任した。

2007年9月、福田康夫内閣の下で文部科学大臣として初入閣。

2008年8月、福田内閣改造内閣の発足に伴い退任したが、内閣総理大臣補佐官(教育再生担当)に任じられた。

同年9月の自由民主党総裁選挙では、石原伸晃の選挙責任者を務めた[2]

2009年第45回衆議院議員総選挙で民主党の岡田康裕に敗れ、比例復活も出来ずに落選。

2012年第46回衆議院議員総選挙で前回敗れた岡田を下し、3年ぶりに国政に復帰した[3]

2014年第47回衆議院議員総選挙で8選。2017年第48回衆議院議員総選挙で9選。

政策

政治理念

渡海紀三朗オンライン 政治理念を参照。

補足

趣味は音楽鑑賞 映画鑑賞 読書。座右の銘は「最善を尽くす」[7]

略歴

その他 

  • 研究不正行為が認定された小保方晴子によるSTAP細胞の再現実験について、自民党の会合で理化学研究所の理事に詰め寄ったと報道された[8]
  • 渡海が代表を務める自由民主党支部が、渡海が出馬した2003年11月9日第43回衆院選の公示日の当日と、2005年9月11日第44回衆院選の公示日前日に国の公共工事である国道2号バイパス道路改良工事を受注・施工中の、高砂市の建設会社からそれぞれ100万円の寄付を受けていたことが判明した。公職選挙法では国と契約関係にある団体や企業が国政選挙関連に寄付をすることも、候補者が寄付を受けることも禁止されている。渡海事務所は「特定の選挙資金ではなく、公職選挙法違反の認識もないが、疑義を持たれるのは不本意なので、返金したい」とし、建設会社側は、「仕事面で便宜を図ってもらったことはないと思う。法律をよく知らなかった」などとしている[9]。また、10月2日の会見で2000年第42回衆議院議員総選挙の前後にも別の建設会社3社から計442万円の寄付を受けていたことを本人は明らかにした。渡海は、3社のこれ以外の時期の寄付36万円を含めた計478万円を、用意ができしだい返金するという[10]

所属団体・議員連盟

著作

  • 1993「科学技術庁「地球科学技術」の重要性とその推進-地球環境に対する科学技術の役割(地球環境問題を考える<特集>)」『月刊自由民主』(通号483)、p130〜133。

脚注

外部リンク

議会
先代:
村上誠一郎
日本の旗 衆議院政治倫理審査会長
2016年
次代:
逢沢一郎
先代:
池田元久
日本の旗 衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員長
2012年 - 2013年
次代:
竹本直一
先代:
持永和見
日本の旗 衆議院決算行政監視委員長
2002年
次代:
山口俊一
公職
先代:
伊吹文明
日本の旗 文部科学大臣
第9代:2007年 - 2008年
次代:
鈴木恒夫
先代:
青山丘岸田文雄
日本の旗 文部科学副大臣
2002年 - 2003年
次代:
原田義昭宮本一三
先代:
斉藤鉄夫
日本の旗 科学技術政務次官
2000年
次代:
大野功統
党職
先代:
菅直人
新党さきがけ政策調査会長
第3代:1996年
次代:
水野誠一
先代:
斉藤斗志二
自由民主党青年局長
第24代:1991年 - 1993年
次代:
佐藤謙一郎

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