渡哲也

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渡 哲也(わたり てつや、1941年12月28日 - )は、日本俳優歌手。本名、渡瀬 道彦[1](わたせ みちひこ)。

兵庫県淡路島出身[1]株式会社石原プロモーション相談取締役。俳優の渡瀬恒彦は実弟。

来歴

島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ[2][3]。父親は日立に勤務、広島県呉市の軍需工場などを転々として、日立の安来工場に勤務していた時、当地出身の渡の母と結婚していた[2][3]。終戦で父親は日立を退職し実家がある兵庫県津名郡淡路町(現:淡路市)に戻り洋品店を開業、小学校一年生途中から淡路島で育った[2]。出身を淡路島にしているのは、日活に入ったとき石原が神戸市生まれなので、淡路島の方がイメージ的にいい、という判断で決めたからだという[2][3]。淡路町立石屋小学校、三田学園中学校・高等学校(6年間の寮生活)[4]青山学院大学経済学部卒業。大学在学中は空手道部 (流派は日本空手協会松濤館流)に在籍し、青山学院大学・空手道部OB会長・渡瀬道彦の札もかかっていた。空手弐段柔道初段

大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたが、在学中に日活浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していた。弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募したため、本人は激怒するが、就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験で不合格になり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問した。その時にスカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社した[5]

既に斜陽期に差し掛かってた日活では高橋英樹に続くスター候補として、デビュー前の記者会見では破格の扱いを受け “映画界待望久し!日活に驚異の新星!渡哲也!!” の横断幕 (実は模造紙) で大々的に売り出された。記者会見の場で瓦割りを披露し、翌日のスポーツ紙やニュース映像でも大きく取り上げられた。

1965年(昭和40年)3月『あばれ騎士道』で宍戸錠とのW主演でデビューし、この作品で、エランドール賞新人賞を受賞し、2作目の『青春の裁き』で単独主演しオープニングクレジット映像では空手の型・約束組手を披露し、本編での複数相手の乱闘シーンでは飛び蹴りや二段蹴りを連発し正拳突きで止めを刺すなど空手部キャプテンの実績を生かした作品になっている。但し殺陣師から「そんなに腰を落としちゃスクリーンでの見栄えが悪い」として腰高に直され不本意な空手になってしまった、と述懐していた。同期で活躍しているのは太田雅子 (後の梶芽衣子)。

1966年には監督鈴木清順 脚本川内康範東京流れ者』に主演し主題歌「東京流れ者」も歌っている。

吉永小百合との初共演映画の『愛と死の記録』で第17回ブルーリボン賞新人賞を獲得。 また裕次郎2世と言われたことから、リバイバル版の『嵐を呼ぶ男』に主演。

1968年(昭和43年)舛田利雄監督による『無頼より・大幹部』から始まる『無頼』シリーズ6作品は渡の日活時代の代表作となった。

渡は『東京流れ者』や『無頼シリーズ』などで、一躍日活ニューアクション時代のスターとなったが、1971年、日活のロマンポルノ路線への転換にともない、1971年(昭和46年)7月封切の『関東破門状』を最後に日活を退社した。

その後、東映など映画会社数社から渡の引き合いがあるものの、石原への尊敬の念などから、渡は1971年(昭和46年)、借金で倒産寸前の石原プロモーションへ入社[6]

1971年(昭和46年)9月封切の『さらば掟』を手始めに『ゴキブリ刑事』、『野良犬まで』などの松竹東宝の作品に主演、準主演で出演をした。また連続テレビドラマにも出演する中、1974年、大河ドラマ勝海舟』の主演に抜擢された。しかし収録中に肋膜炎になり入院。第9回までしか出演出来ず途中降板となる。なお代役は松方弘樹が務めた[7]。風邪をこじらせた後、急性肝機能不全症を併発し入院は9か月に及んだ[7][8]。一方で前年1973年8月にリリースした「くちなしの花」が年明けからヒットチャートを上昇し、1974年の年間シングルチャートで7位を記録。オリコンセールス:77.4万枚[9]、累計150万枚を売り上げ[10]全日本有線放送大賞金賞も獲得し渡の代表曲となった。渡の体調も秋には回復し、年末の第25回NHK紅白歌合戦に初出場した。

1974年(昭和49年)、再び映画各社の間で激しい争奪戦が起こり[11]、特に弟・恒彦をスカウトした[12]岡田茂東映社長(当時)が「高倉健の次の東映の看板スターにしたい」と熱心に誘い[11]、渡自身も「アクション映画をやりたい、自分のキャラクターを活かしてくれるのは東映を置いて他にない」と強く東映入りを希望したため[11]1975年(昭和50年)に渡は東映入りの報道もされた[11]。当時の東映は俊藤浩滋が高倉らを伴い独立しようとしたお家騒動があった[11][13][14]。元々、1973年の『仁義なき戦い』で菅原文太をスターダムに押し上げた広能昌三役も最初にキャスティングされたのは渡であったが[15][16]、この時期、渡は体調が優れず実現に至らなかった[2][13][15]。1974年暮れ『脱獄広島殺人囚』、「新仁義なき戦いシリーズ」とも渡は出演要請を受けたが諸問題で断り[11]1975年2月、東映実録ヤクザ路線極北といわれる『仁義の墓場[17]でようやく東映初出演、初主演した。同作公開後、岡田社長は「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の"渡路線"を確立することだ」とぶち上げ[18]、この年4月の『大脱獄』で高倉健と[19][20]、5月の『県警対組織暴力』で菅原文太と競演させ[21]、6月の『スーパー・アクション/強奪』(『資金源強奪』として映画化)と8月の『日本暴力列島・北九州電撃戦』(映画化されず)で主演させ、"東映スター渡"をイメージ付けようとしたが『仁義の墓場』撮影後、再び病に倒れ[19][22]渡は結局東映と専属契約を結ばず[18]。先の『大脱獄』は、最初は高倉健、渡哲也、五木ひろしの三大共演を予定していたが[13]、五木がギャラ問題で降り、代わりに抜擢されたのが菅原文太で[13][23]、高倉、渡、菅原という三大共演の可能性もあり、実際に三人の名前の書かれたポスターも製作された[24]。渡が入院したため三大共演はおろか、渡と高倉、渡と菅原の共演も永遠に実現することはなかった[18][20]。この1975年は、東宝系の芸苑社製作で今井正監督の水上勉原作『その橋まで』の映画化の主演も受けていたがこれも流れた[18][25]。入院は延べ2年半に及んだ[2]。病み上がりで撮影中に体調が急激に悪化した『仁義の墓場』は[26]点滴を打ちながら演じる渡の負のエネルギーが、石川力夫の怨念が乗り移ったかのような迫力を持ち評価が高い[16][22]キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では、日本映画歴代38位に選出されている。1976年(昭和51年)『やくざの墓場 くちなしの花』の主演で第19回ブルーリボン賞主演男優賞を獲得。渡はこの後石原プロのテレビドラマに専念するため映画出演は一時的に撤退した。その後1996年、やはり岡田茂東映会長(当時)に促され[27]わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』の宮沢賢治の父・政次郎役で20年ぶりに映画界に本格復帰した[27]。本作でこの年の各映画賞助演男優賞を独占している。

石原プロは会社再建と経営安定のため、テレビドラマへ本格進出[28]。渡にとって復帰第一作及び主演ドラマ『大都会 闘いの日々』は『大都会 PARTII』『大都会 PARTIII』とシリーズ化、続いて主演した『西部警察』もシリーズ化され、5年間放映された。 これら刑事ドラマでの“角刈りにサングラス”というスタイルは渡のトレードマークとなった。

同時期に放送されていたTBSクイズ100人に聞きました』では「サングラスと言えば誰?」の問題で渡哲也が圧倒的人数で第1位を獲得した。因みに第2位がルビーの指環でメガヒットを飛ばした寺尾聡で第3位が藤竜也であった。

渡は石原プロ再建に貢献し、石原の下で副社長も兼務していた。

1987年(昭和62年)7月17日に石原裕次郎が肝細胞癌のため、52歳で死去。10月、渡が石原プロの二代目社長に就任した。

1989年(平成元年)3月、渡が社長となって初の石原プロ制作作品『ゴリラ・警視庁捜査第8班』の第5話を撮影中、渡扮する倉本班長がヘリから降りて全力疾走するシーンで、ヘリから着地した際、左足に激痛が走ったが「ただの捻挫だろう」と、痛みを感じつつも撮影を続行した。しかし痛みは増すばかりで翌日、病院で診察を受けたところ、全治1か月半の『腓腹筋断裂』と診断された。これは、ヘリから着地した際の腓腹筋の捻挫が、その後の撮影続行で更にひどくなり、遂に断裂したのが原因だった。しかし渡は、撮影に穴を開けるわけにはいかないと、撮影続行を宣言。報道陣の前で「アクションと怪我は紙一重、やるっきゃありません」と、石原プロ社長としての責任感の強さをのぞかせた。その後、この怪我が原因で、足をひきずって歩く後遺症が残る。

翌年放映された、時代劇スペシャル『大激闘! 四匹の用心棒』では、足を引きずって歩く主人公の浪人「かかしの半兵衛」こと金子半兵衛役を演じている。

1991年(平成3年)に自ら直腸癌であると発表。柏木純一の著書『渡哲也 俺』に壮絶な闘病記が記されている。これにより、オストメイト人工肛門使用者)であることを明らかにしている。

2003年(平成15年)8月、テレビ朝日系「西部警察2003」のロケーションで、石原プロ所属俳優の自動車運転ミスにより、見物客5人が重軽傷を負う事故が発生。名古屋市内で会見した渡は、予定していた連続ドラマの制作、放送中止を明らかにした[29]。その後、第一弾として制作されたスペシャル版については紆余曲折を経て「西部警察 SPECIAL」のタイトルで、翌年2004年10月31日に放送された。

2005年(平成17年)に紫綬褒章を受章した。

2011年(平成23年)5月11日2009年(平成21年)の石原裕次郎23回忌を終えたことの区切りや、自らの健康上のこと、社長在籍期間が裕次郎の社長在籍期間と同じ24年目を迎え「それを越えるわけにはいかない」などの理由から、3月28日付をもって石原プロモーション社長を退任したことを発表した[30]。12月23日放送のTBSの年末スペシャルドラマ『帰郷』では、弟の恒彦と約40年ぶりの共演を果たした。1971年(昭和46年)4月から1972年(昭和47年)3月に放送のNHKの連続ドラマ『あまくちからくち』以来のことで、その時と同じく兄弟役で共演した[31][32]

2015年(平成27年)6月10日急性心筋梗塞で緊急入院、手術を受けていたことが、7月17日に明らかになる[33]。約1か月で退院。11月10日宝酒造「松竹梅」のCM撮影で仕事復帰(前年8月の同CM発表会見以来、1年3か月ぶり)[34]

2017年(平成29年)3月14日、弟・恒彦が胆嚢癌による多臓器不全のため72歳で死去。 4月1日、石原プロモーションの経営陣に復帰[35]。「相談取締役」の肩書きで相談役取締役を兼任する。

人物

人柄
  • 日活デビュー当時、食堂で食事をしていた石原裕次郎に挨拶に行った際、本来なら食事中に挨拶をするのは失礼なことなのに、石原は他の俳優達とは違い怒りもせず、立ち上がって自ら進んで握手し、「石原裕次郎です。君が新人の渡君ですか、頑張って下さいね」と声を掛けてくれたため、渡はとても感激した。渡もそれに習い、ベテランとして若手から挨拶を受ける立場になっても、石原と同じように立ち上がって握手しながら声を掛けているので、『西部警察』の撮影で初対面した舘ひろしや、ドラマで共演した岡田准一滝沢秀明世界のナベアツらは、かつての渡と同様に感激したとそれぞれ述べている。
石原の跡を継ぎ、石原プロモーションの社長となった渡は、所属俳優から「社長」と呼ばれている。入社した理由は、前述の石原との初対面での出来事に加え、石原と交友関係ができてから、石原から服や靴などを貰い、公私共に付き合いが深かったことや、日活時代から親しかった小林正彦が石原プロへ参加していたことだった。色々と世話になった石原の窮地を救うため、当時180万円の全財産を持って石原の元へ赴き、「社員の皆さんのお茶代にでも使って下さい」と差し出した[注釈 1]
  • 日活の新人時代には、取材に来た記者の失礼な態度に激怒して、記者にアッパーカットを見舞って気絶させた。後年、渡はこのことについて「若気の至りというか、恥ずかしい限りです」と語っている。
  • 渡が東映に来るようになり、深作欣二の映画に出演した際、擬斗を担当していた菅原俊夫と深作の意見が合わず、渡の意見を聞くことになったが、まだ駆け出しの菅原の意見を渡が尊重し、気配りしたことに対し、菅原は呼吸が出来なくなる程感動し、渡の人柄に大きく心を惹かれたと語った[36]
  • 『西部警察』などで演じた役柄のイメージが強く、性格が短気であるように誤解されがちだが、実際は温厚である。
  • 石橋貴明が『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の一企画・定岡正二との対決に負け、罰ゲームで石原プロに保管されている『西部警察』の特殊車両や渡の車を洗わされるということがあった。その後石橋は舘ひろしの命で報告に渡を訪ね、渡のCMの「松竹梅」、さらに「いいジャケット着てるな、テツ[注釈 2]。」と無理やり言わされる事態となった。しかし渡は石橋が「テツ」と言って肩をポンと叩いた直後、上にあったコップが割れんばかりの勢いでテーブルを蹴り上げた。驚いた石橋は廊下に飛び出したが渡はその後を追いかけて壁を背に立ち尽くす石橋に「この野郎!!石橋!!テツ!?」「おい、ちょっと来い!!」「お前、松竹梅シャレできくけどな、お前になんで俺がテツって呼ばれなくちゃいけねんだ」「なめとんけワレ!」と怒号を浴びせて、石橋に猛烈に詰め寄る事態となった。
実は仕込みドッキリであり、事前に舘ひろしは「テツ」と言われたら本気で怒ってみせてほしいと頼んでいた。渡はこの頼みに対し当初は「いや、俺はそういうの苦手なんだよ」と渋ったが舘はこの言葉に対して「いえ、得意です」とツッコみ、結局承諾する羽目になった。
この直後、渡のあまりの勢いに驚いた仕掛人の舘が慌てて駆け寄ってネタばらしをし、渡自身も笑顔で仕込みであったことを明かしてフォローした。しかし恐怖に恐れおののいた石橋の顔からは舘が「顔色悪いよ!」と心配するほど血の気がなくなり、これ以後石橋は渡の顔をまともに見られなくなってしまった。
  • 大都会 PARTIII』撮影時、共演していた宮本刑事役の苅谷俊介の夫人が入院していた。苅谷が金に困っているという話を聞いた渡は、撮影終了後に苅谷を呼び止め「お前怒るなよな。見舞いには花が相場なんだがあいにくないんでな。少ないけどこれ取っとけ」と言って金の入った封筒を渡した。苅谷は「帰っていく渡の後ろ姿を涙でまともに見られなかった」と語っている[37]
趣味・嗜好
  • 趣味は「焚火」。火が上がるような焚き火ではなく、煙が一筋昇るくらいがよいとのこだわりがあり、たなびく煙の行方を眺めているのが好きだとのこと[注釈 3]。*

ソフトクリームが好きで石原プロワールドでは「渡哲也のヘルシーソフトクリーム」なる商品が販売されている。

  • 日本酒のCMをしていたのとは裏腹に、下戸で飲めない酒を無理して飲んでいた。石原裕次郎の晩年にヤケ酒のような飲み方をしていたが、次第に人並みに飲めるようになった。60歳を過ぎ、を患ってからは酒量も減った。タバコも『西部警察』などのドラマの中でも吸っていたが、闘病後は吸わなくなった。
その他
  • プロテニスプレイヤーの錦織圭は遠縁の親戚である。渡の祖母と錦織の曽祖父が兄弟にあたる。
  • 石原裕次郎と誕生日が同じである。年齢は7歳差。

モデル・オマージュ

  • 島崎譲著『THE STAR』第5巻で大門プロ副社長であり、大俳優の嶋哲也(しま てつや渡哲也がモデル)が登場し、天下の大門プロが社運を賭けて巨費を投じて企画した新作刑事ドラマ『バイオレンス刑事(コップ)』で初監督をする。嶋の独断で初めて大門プロ以外の俳優として長瀬優也(主人公)を主役に抜擢し、どんなに危険な状況でもおもしろいものになれば撮影を続行し、仕事のためならなんでもする仕事の鬼だが、閉鎖的になっていく大門プロに一石を投じるために長瀬を起用し、人命さえもおびやかす危険なシーンをこんなにも美しい愛のシーンに変えてしまう長瀬の俳優としての力量に感謝している。
  • 新田たつお著『静かなるドン』の「静かなる慕情」の挿話で主人公の近藤静也(新鮮組)が敵対する日本最大の広域暴力団鬼州組若頭(No.2)として不渡哲也(ふわたり てつや渡哲也がモデル)が登場し、六代目会長・海腐雄二からも力量を見込まれて、七代目襲名の為の手柄として新鮮組に決戦を挑むも戦い慣れしていない事が災いして死亡する。
  • 宮崎克高岩ヨシヒロ著『松田優作物語』第4巻legend of you;36.「Illusion」では、映画監督:深作欣二のインタビューの中で深作が優作と撮る予定であった作品(口のきけないヤクザの話)について語られ、その内容を漫画で再現した挿話が描かれており、配役は口のきけないヤクザを松田優作、組長を渡哲也が演じている。[39]
     劇中では組長の渡に従順に仕えるヤクザの優作が幼なじみで組長の情婦である女性との逢引きをマンションの外で待っていたところ、ベランダからヒットマンが侵入するのを目撃し、それを電話で渡に伝えようとするも伝える事ができずにマンションに響く凶弾を耳にして慟哭に咽ぶ優作の姿が描かれている。

逸話

出演

映画

テレビドラマ

歌番組

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1974年(昭和49年)/第25回 くちなしの花 13/25 都はるみ
1993年(平成5年)/第44回 2 くちなしの花(2回目) 08/26 いしだあゆみ 石原裕次郎7回忌の年に、第一部トリで歌唱
注意点
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。

その他

  • ふたりのビッグショー(1994年1月2日、NHK)
    新春企画 渡哲也・加藤登紀子「青春のスタンダード 石原裕次郎を歌う」

ドキュメンタリー

他多数

舞台

  • 渡哲也特別記念公演 信長(1996年、大阪新歌舞伎座) - 織田信長 役・座長 … 同年、大河ドラマでも同じく信長役を演じている。渡にとってこの時が舞台初体験である。

CM

  • 宝酒造 松竹梅、松竹梅「天」(2003年9月〜 )
    もともと石原裕次郎が出演していたもの(1968年 - 1987年)を石原の没後に引き継いだ(1989年 - )。引継ぎ以前の一時期、渡は同業他社の大関のCMに出演していた。大関では大瀧詠一がCMソングを手がけたものもあり、松竹梅では渡自らがCMソングのフレーズ「喜びの酒…」を歌うこともあった。1998年から3年間は吉永小百合と共演。2003年9月以降は、主力商品が「松竹梅 天」に移行し[40]、女優との共演は無かったが、2014年10 月から前田敦子と共演するCMが放送される[41]。松竹梅「天」のCMソングの最後には渡の「天」の声が挿入されている。
  • 東芝 インバーターエアコン
  • カゴメ トマトジュース
  • 日本興亜損保=舘ひろし、神田正輝、深江卓次と共演
  • 日本コカ・コーラ ジョージア木村拓哉SMAP)と共演
    • 登場篇(2006年6月 - )
    • ストリートミュージシャン編(2006年8月 - )
    • カミナリ篇(2006年10月 - )
    • ベンダー前篇(2006年11月 - )
    • オフィス篇(2006年11月 - )
    • 純金名刺・今年もよろしく篇(2007年1月 - )
    • 純金名刺・応募篇(2007年1月 - )
    • 呼び出し篇(2007年1月 - )
    • もう一本篇(2007年1月10日 - )
    • 純金名刺・締切迫る篇(2007年2月 - )
    • 湯気篇(2007年2月 - )
    • 桜篇(2007年3月21日 - )
    • 駅篇(2007年5月 - )佐藤めぐみと共演
    • 部下に心配される篇(2007年7月 - )木村祐一と共演
    • 上司にお詫び篇(2007年8月 - )山崎静代と共演
    • 女スパイ参上篇(2007年10月 - )ベイスー・ウーと共演
  • 第一三共
    • 企業 「どこの薬か」編(2008年3月 - )
    • リゲイン 「リジャパン 勇気のしるし」編(2012年4月 - )
  • 年末ジャンボ宝くじ(2013年11月・12月)木村拓哉壇蜜クリス松村との共演だが、人形での出演

ゲーム

作品

代表曲

  • 純愛のブルース(1965年6月)
    • デビュー曲
  • 俺とお前の明日がある(1965年10月)
  • 東京流れ者(1966年3月)
  • 海は真赤な恋の色(1966年8月)
  • 星よ嘆くな(1966年9月)
  • 嵐を呼ぶ男(1967年1月)
    • 石原裕次郎のカバー
  • 陽のあたる坂道(1967年4月)
  • 夏の日の恋(1967年8月)
  • 男の流転(1968年7月)
  • ギターと旅人(1969年10月)
    • 初のオリコンランクイン。最高位65位。
  • くちなしの花(1973年8月21日)
  • みちづれ(1975年11月21日)
    • オリコン最高位55位。のち1978年には牧村三枝子がシングル・レコードの発売を機に渡のシングルを廃盤、その後牧村の代表曲となった。
  • 水割り(1976年9月)
  • ひとり(1977年4月)
    • 日本テレビ系『大都会PARTII』挿入歌。50万枚[43]の大ヒット
  • 日暮れ坂(1978年10月)
    • 日本テレビ系『大都会PARTIII』主題歌。当時で15万枚ほど[44]、最終的には「ひとり」の半分くらいの売上に留まる[44]
  • めぐり逢いしのび逢い(1982年12月)
  • わかれ道(1986年11月)

受賞

  • 1965年 - エランドール新人賞
  • 1976年 - 『やくざの墓場 くちなしの花
    • 毎日映画コンクール男優演技賞
    • ブルーリボン主演男優賞
  • 1996年 - 『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語
    • キネマ旬報・助演男優賞
    • 日刊スポーツ映画大賞・助演男優賞
    • 報知映画賞・助演男優賞
    • ブルーリボン賞・助演男優賞
    • 日本アカデミー賞・優秀助演男優賞
  • 1997年 - 『誘拐
    • 日刊スポーツ映画大賞・主演男優賞
    • 日本アカデミー賞・優秀主演男優賞

演じた俳優

脚注

注釈

  1. 財産は結局、石原裕次郎は気持ちだけ受け取ったという。このエピソードはドラマ『』でも触れられている。
  2. 「テツ」というのは、公的な場以外で渡を呼ぶ際に石原が使う愛称で、この呼び方で渡を呼ぶのは石原だけであり、他の人間がその名で呼ぶことが憚られている事は同番組にて舘など石原プロモーションの面々から証言されている。
  3. 子供の頃、近所の浜辺で友達らと一緒によく魚介類を獲り、そのまま焚き火をして食べた思い出に原点があるとのこと[38]
  4. 渡がマグロを釣り上げた話題は、スポーツ紙の芸能面でも記事になった。

出典

  1. 1.0 1.1 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「石原プロ・プロフィール」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 「渡哲也インタビュー 高平哲郎」『渡哲也 さすらいの詩』 芳賀書店〈シネアルバム(67)〉、1978年、153-168。ISBN 4-8261-0067-1。
  3. 3.0 3.1 3.2 柏木純一 『渡哲也 俺』 毎日新聞社、1997年、38-47。ISBN 4-620-31198-7。
  4. 兵庫県三田市市勢要覧 三田をもっと伝えたい!! ①fromさんだtoさんだ 三田から羽ばたく 青春を刻んだ街・三田 あらゆる世代を魅了する役者魂 俳優 渡 哲也さん
  5. 柏木純一 『渡哲也 俺』 毎日新聞社、1997年、8-19。ISBN 4-620-31198-7。
  6. 柏木純一 『渡哲也 俺』 毎日新聞社、1997年、69-71。ISBN 4-620-31198-7。
  7. 7.0 7.1 柏木純一 『渡哲也 俺』 毎日新聞社、1997年、144-153。ISBN 4-620-31198-7。
  8. 渡哲也は病を乗り越え11月復帰 「新人発掘」で次世代託す 日刊ゲンダイp-2
  9. 【1974年2月】くちなしの花/渡哲也 本人不在も大ヒット 紅白に出場したワケ - Sponichi Annex 2012年2月3日閲覧。
  10. 10.0 10.1 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、79頁。ISBN 4390116495
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 「随想 東映スター渡哲也が誕生するまで」、『キネマ旬報』1975年2月上旬号、 48-49頁。
  12. 撮影所マイスター対談vol9 「渡瀬恒彦さんと東映京都撮影所」
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 「日本で急落、米で急騰の高倉健株」、『サンデー毎日』、毎日新聞社1975年5月25日、 38頁。
  14. 「マキノ雅裕の映画界内緒ばなし(1)」、『週刊文春』、文藝春秋1981年9月3日、 139-142頁。日下部五朗 『シネマの極道 映画プロデューサー一代』 新潮社、2012年、94-95。ISBN 978-4103332312。
  15. 15.0 15.1 杉作J太郎、植地毅 「日下部五朗インタビュー インタビュアー・高平哲郎」『仁義なき戦い 浪漫アルバム』 徳間書店、1998年、128-134。ISBN 978-4198608460。
  16. 16.0 16.1 『鮮烈!アナーキー日本映画史 1959-1979』 洋泉社映画秘宝EX〉、2012年。ISBN 4-86248-918-4。
  17. 東映実録路線中毒 ANARCHY & VIOLENCE/ラピュタ阿佐ケ谷
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 「邦画新作情報」、『キネマ旬報』1975年4月春の特別号、 201-202頁。
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外部リンク

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