浦上氏
浦上氏(うらがみし、うらかみし)は、日本の氏族。武内宿禰系紀氏の流れを汲むとされる。また、他流として有道氏の後裔である浦上氏もある。
紀姓浦上氏
紀長谷雄の子孫とされているが、実際は紀貫之の子孫であるという。また、江戸時代の大名である堀田氏は浦上氏と同族とする仮冒系図を持っているが、これは堀田氏が室町時代の名門・浦上氏の威光を利用するための仮冒であり、堀田氏とは別系統と考えるべきである。
もとは播磨国浦上荘を本拠地とした豪族の一つで、室町時代に入ると赤松氏の重臣として重代にわたって守護代を務めた。赤松氏は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で没落するが、応仁の乱では浦上則宗が赤松政則と共に東軍の細川勝元に属し、浦上氏は備中国の守護代・侍所所司代となる。
戦国時代になると主家である赤松氏の力が衰退するのを見て、浦上村宗は主君・赤松義村を下克上にて討ち、戦国大名として名乗りを上げた。だが、村宗の死後、その後継者を巡ってその子である浦上政宗・宗景兄弟が争って、政宗は播磨に宗景は備前国に根拠を置いて分裂することになる。政宗は播磨守護代として赤松氏を牛耳るが、永禄9年(1566年)に赤松政秀に襲われて滅亡する。一方、弟の宗景は赤松氏から自立して備前や美作国一帯に大勢力を築き、また織田信長と誼を通じるなどして最盛期を迎えたが、天正3年(1575年)に天神山城の戦いで台頭してきた重臣の宇喜多直家によって宗景が追放されたため、滅亡した。ちなみに宗景の以後の行方は不明である。
江戸時代に備中国鴨方藩の上級藩士で大目付に任じられていたが、後に脱藩した文人画家の浦上玉堂は宗景の子孫である。
子孫を称する浦上元によると、浦上姓は「うらかみ」と読むのが正しいとしている。
系譜
行義以降、則宗まで系譜は諸説(行義 - 行高 - 正泰 - 之満 - 昌勝 -(浦上)則宗など)あり一定していないが、ここでは「太平記」の記述を元に掲載する。
孝元天皇 - 彦太忍信命 - 屋主忍男武雄心命 - 武内宿禰 -(紀)角 - 白城 - 小弓 - 大磐 - 男麻呂 - 小足 - 塩手 - 大口 - 大人 - 古麿 - 飯麿 - 真呂名 - 国守 - 貞範 - 長谷雄 - 淑光 - 文利 - 忠道 - 家俊 - 宗信 - 宗雅 - 定綱 - 俊文 - 俊重 -(堀田)重遠 - 重満 - 行義 -(浦上)行景 - 広景 - 行宗 - 貞宗 - 則宗 - 宗助 - 村宗
則宗の父については諸説ある。