池田忠雄
池田 忠雄 | |
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長7年10月28日(1602年12月11日) |
死没 | 寛永9年4月3日(1632年5月21日) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
藩 | 備前岡山藩第2代藩主 |
氏族 | 池田氏 |
池田 忠雄(いけだ ただかつ)は、江戸時代前期の大名。淡路洲本藩主、のち備前岡山藩第2代藩主。因幡鳥取藩池田家宗家2代。播磨姫路藩主・池田輝政の三男(実は六男)[1]。母は徳川家康の次女・督姫。岡山藩初代藩主・池田忠継の同母弟。
生涯
慶長7年(1602年)10月28日、姫路城で生まれる。慶長13年(1608年)、7歳で元服する。徳川家康の外孫に当たることから慶長15年(1610年)、9歳で淡路洲本城に6万石の所領を与えられたが、父の姫路城に留まり、重臣が政務にあたった。
慶長19年(1614年)、大阪の陣に出陣。序盤の木津川口の戦いで出陣を命じられるなど、ある程度の重用を受けている。配下の横川重陳は、徳川家康から一番槍の感状を得ている[2]。
元和元年(1615年)、岡山藩主である同母兄・忠継が17歳で早世したため、その跡を継いだ。洲本藩は廃藩とされ、淡路一国は徳島藩の蜂須賀至鎮にあたえられた。岡山城に入ることとなった忠雄は遺領38万石のうち、忠継が相続した母・良正院の化粧料10万石より同母弟・輝澄(山崎藩3万8,000石)や政綱(赤穂藩3万5,000石)、輝興(平福藩2万5,000石)らにそれぞれ分与したため、忠雄の領地は31万5,200石となった。
入封後は岡山城の拡張工事や城下町の整備、新田開発や治水工事に努めた他、元和6年(1620年)から始まった天下普請による大坂城改築工事に参加させられ、自らの担当場所に蛸石、肥後石、振袖石というそれぞれ大坂城内で第一位から第三位となる巨石をはじめ、その他様々な巨石を運び込んだ。そしてこの大坂城での工事を岡山城の改修工事にも生かし、現存する月見櫓近辺の石垣などを打ち込み接ぎで築き、天端石には石狭間を設置した。
寛永7年(1630年)7月11日、寵愛する小姓の渡辺源太夫が藩士・河合又五郎に殺害されるという事件が起こり(鍵屋の辻の決闘)、脱藩した又五郎をかくまった旗本・安藤正珍と岡山藩池田家との争いに発展した。寛永9年(1632年)、又五郎誅殺を願いつつ、31歳で死去した[3]。死因は天然痘だが、毒殺されたという説もある。死後、家督は長男・光仲が継いだが、幼少だったために因幡鳥取藩に移封された[4]。
墓所は清泰院である。当初岡山県岡山市中区小橋にあったが、昭和39年(1964年)に国道橋建設のために岡山市南区浦安本町に移転した。
政治
備前1国と備中4郡を領した忠雄は、岡山城の城郭の整備、城下町の拡張整備にあたった[5]。
岡山城については、大手門を改築し、高麗門を構えて石垣で枡形をつくり、石垣を南北にまたいで西面する渡櫓門を建て、枡形門をつくった。また、大砲に対する防衛のため、本丸書院の段の北西角に望楼と武器庫を兼ねた月見櫓を新設し、付近に火薬庫と火縄銃用の石狭間をも設け、防備を固めた。
城下町については、旭川の用水路である西川の開削が代表的で、この西川を城下と農村の境界とした。
参考文献
- 『池田家譜』(デジタル岡山大百科 岡山県立図書館 電子図書館システム)
- 『池田忠雄《おかやま人物往来》』デジタル岡山大百科(岡山県立図書館 電子図書館システム)