池田亀鑑
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池田 亀鑑(いけだ きかん、明治29年〈1896年〉12月9日 - 昭和31年〈1956年〉12月19日)は、日本の国文学者。平安文学専攻。
人物
- 鳥取県日野郡福成村(現・日南町)に生まれる。弟に漂流民研究家の池田皓(あきら、1909年-2005年)。
- 鳥取師範学校、東京高等師範学校を経て、1922年、女子学習院助教授、同年、東京帝国大学本科入学資格試験合格、1926年、東京帝国大学国文科卒業、同副手。1934年、助教授、1955年、58歳でようやく東京大学教授となるが、翌年、「源氏物語大成」全8巻完結の直後に死去。
- 兼任でも多くの大学に出講し、1927年4月、旧制第一高等学校講師(-1928年3月)、1929年4月、二松学舎専門学校教授(-1934年3月)、同年12月、大正大学教授(-1944年3月)、1930年12月、神奈川県女子師範学校教授(-1932年3月)。1932年4月、東京女子専門学校(のちの東京女子大学)(-1939年3月)、1934年4月、東京家政学院、1936年4月、折口信夫に招かれて慶應義塾大学でも教鞭を執る。1936年4月、帝国女子専門学校(のちの相模女子大学)(-1940年3月)、1941年4月、津田英学塾(-1944年3月)、1949年4月、早稲田大学、1950年4月、東洋大学、各講師(兼任)。1946年、日本女子専門学校(のちの昭和女子大学)兼任教授、1949年4月、昭和女子大学日本文学科科長、1951年4月、昭和女子大学評議員、1956年4月、立教大学教授(兼任)[1]。
- 大正半ばから小説を発表、昭和の初期(昭和2年(1927年)-昭和5年(1930年))には、義兄・岩下小葉が編集長を務めた実業之日本社に入社、「少女の友」「日本少年」「婦人世界」等の雑誌に、池田芙蓉、青山桜洲、村岡筑水、北大路春房、闇野冥火、富士三郎、池村亀一の筆名で、少年少女小説を次々に発表していた時期があった。小説第一作は、大正8年(1919年)(筆名・池田亀鑑「美しく悲しい安養尼のお話」上下「少女の友」12巻8.9号、1919年)、最終連載は、東大副手最終年に当たる昭和8年(1933年)、(筆名・青山桜州「首のない若君」「日本少年」27巻9号、1932年-28巻11号、1933年 )。代表作は冒険活劇「馬賊の唄」(筆名・池田芙蓉「日本少年」20巻1月号~12月号、21巻1月号、1925年、1926年、以上前編(没後桃源社から刊行)、後篇は池田芙蓉・高畠華宵合作として連載(「日本少年」24巻2月号~12月号、25巻1月号~12月号、1929年、1930年)[2]。
- 林真理子「本を読む女」新潮社、1990年(新潮文庫、1993年)には、著者の母親がモデルである主人公・万亀が、甲府から上京して進学した家政学院で、帝国大学教授でもある「池田先生の源氏物語の講義」に胸を時めかせるエピソードが描かれている。
- 東京大学在任中の処遇については、国史学科教授の坂本太郎が、「これは関係者はみな故人となっているから、そのうちの一つの事実を記しておきたい。それは国文学の島津久基教授が二十三年に逝去したあとの教授の選考のことである※。(略)。誰が選考委員であったかすべては憶えていないが、久松(潜一)・時枝(誠記)の両教授の外に隣接学科のゆかりで私も委員とされた。選考委員会は学部長の主宰で開かれるが、そこに国文学科主任教授の久松教授の提出した候補者は当時助教授でいた池田亀鑑氏であった。池田氏は昭和九年に助教授に任官しているのであり、すでに助教授の古参であり、その学問的業績の偉大であることは、多くの人の認める所であるから、この人選は私にはごく順当と思われた。ところが意外なことに同じ学科の時枝教授が強硬な反対論をとなえて、承引できないという。この委員会に提出するまでには、同じ学科の教授の間では当然意見調整はしてあるはずなのに、久松教授はそれをしていなかったようである。久松教授ののん気さにもあきれたが、時枝教授の剛情にも好感はもてなかった。池田氏は選科出身ではあったが※、私と同年の卒業で、親しみを持っていたので、こうした横槍で教授昇任の機会を失ったのに同情を禁じ得なかった。結果は久松教授が池田氏を撤回し、時枝教授の提案で、教養学部から麻生磯次教授を迎えることとなったが、それが国文学科にとってプラスであったかどうか私は知らない。池田氏はこの後、久松教授が昭和三十年停年退職するまで助教授に止まり、三十年に教授に昇進したが、教授在任僅かに一年、三十一年の冬には逝去してしまった。何とも気の毒の至りであった。晩年心臓を悪くして、歩くのも苦しそうな氏に、大学構内で出あって、深い感慨を抱いたことを忘れない」と記している。[3]。
※池田亀鑑が「選科出身」と記すのは誤り。東京帝国大学本科入学資格試験合格[4]。また、島津久基の没年は昭和24年(1949)である。
略歴
- 1896年(明治29年)12月9日 - 鳥取県福成村生。(父・宏文・母・とら、名前の読みについて、一般には「きかん」とされているが、「かめのり」とするものもある[5]。)
- 1916年(大正 5年) - 鳥取師範学校卒業
- 1916年(大正 5年) - 溝口尋常高等小学校訓導
- 1922年(大正11年) - 東京高等師範学校卒業
- 1922年(大正11年) - 女子学習院助教授
- 1926年(大正15年) - 東京帝国大学国文学科卒業
- 1926年(大正15年)6月 - 東京帝国大学文学部副手
- 1934年(昭和 9年) - 東京帝国大学助教授
- 1948年(昭和23年) - 東京大学より文学博士。論文の題は「古典の批判的処置に関する研究」[6]。
- 1955年(昭和30年) - 東京大学教授
- 1956年(昭和31年)12月19日 - 死去
文業-近代文献学、池田源氏学
- 明治以降屈指の「源氏物語」研究に関する膨大な業績を有する。近代源氏学の基礎を築いた最高権威とも言える巨人である。また芳賀矢一がドイツから導入した文献学の方法を日本古典文学研究に敷衍し、「土佐日記」の紀貫之自筆本再建のプロセスを例として「古典の批判的処置に関する研究」全三巻(岩波書店、1941年2月)でその方法論を確立、さらに翌1942年10月、十数年の歳月を傾けた畢生の大著「校異源氏物語」全5巻(中央公論社)を完成させる。ついで前著「校異源氏物語」に「索引篇」「解説篇」「資料篇」「図録篇」を増補し、これを1953年から3年かけて「源氏物語大成」全8巻(中央公論社)として刊行、有力伝本内の異文を比較検討して古典作品の原型(祖本本文の様態)を明らかにする、本文批判を軸とした文献学的研究の実践と理論体系化を図った。
- 昭和7年(1932年)、藤村作会長とともに紫式部学会を創設し、理事長となる。雑誌「むらさき」「藝苑」(ともに厳松堂書店刊行)の編集なども行う。
- 没後55年にあたる2011年、池田亀鑑文学碑を守る会の主催により池田亀鑑賞創設 [7]。
著作集
古典文学研究の集大成として没後『池田亀鑑選集』全5巻が編纂された。
- 物語文学1、至文堂、1968年
- 物語文学2、至文堂、1969年
- 日記・和歌文学、至文堂、1968年
- 随筆文学、至文堂、1968年
- 古典文学研究の基礎と方法、至文堂、1968年
著書
- 「宮廷女流日記文学」東京帝国大学国文学研究室編「国文学研究叢書」第7編、至文堂、1927年
- 「伊勢物語に就きての研究」大岡山書店、1933年
- 全3巻 上巻 校本篇、下巻 研究篇、附録 伊勢物語版本聚影
- 「国語国文学講座 第2 源氏物語講義」雄山閣、1933年
- 「大和物語解説」尊經閣、1936年
- 「源氏物語展観書解説」富山房、1937年
- 「前田本今鏡解説」育徳財団、1939年
- 「古典の批判的処置に関する研究」岩波書店、1941年
- 「古典文学論」第一書房、1943年
- 「宮廷と古典文学」光風館、1943年
- 「平安時代文学概説」八雲書店、1944年
- 「花鳥風月誌」斎藤書店、1947年
- 「源氏物語鑑賞真珠抄」天明社、1947年
- 「源氏物語に関する論考」目黒書店、1947年
- 「日本文学教養講座 第6 物語文学」至文堂、1951年
- 「新講源氏物語 上巻」至文堂、1951年
- 「新講源氏物語 下巻」至文堂、1951年
- 「新講源氏物語(合本)」至文堂、1963年
- 「平安朝の生活と文学」河出書房、市民文庫、1952年、角川文庫、1964年、ちくま文庫、2012年
- 「日本文学大系 第8巻 物語文学」河出書房、1952年
- 「日本の古典」要書房、1952年
- 「源氏物語読本」要書房、1953年
- 「清少納言」同和春秋社、1954年
- 「古典の読み方」至文堂、学生教養新書、1955年4月、「古典学入門」と改題して岩波文庫、1993年
- 「古典解説シリーズ 14 枕草子」弘文堂、アテネ文庫、1955年
- 「花を折る」中央公論社、1959年
- 「研究枕草子」至文堂、1963年
- 「馬賊の唄」(池田芙蓉)桃源社、1975年、パール文庫として再刊、真珠書院、2014年
校注本
- 「土佐日記」岩波書店、岩波文庫、1930年
- 「紫式部日記」岩波書店、岩波文庫、1930年
- 「枕草子春曙抄 上巻」岩波書店、岩波文庫、1931年
- 「枕草子春曙抄 中巻」岩波書店、岩波文庫、1931年
- 「源氏物語」朝日新聞社、日本古典全書、1949年-1954年
- 「蜻蛉日記 上」至文堂、1953年
- 「蜻蛉日記 下」至文堂、1954年
- 「全講枕草子 上」至文堂、1956年
- 「全講枕草子 下」至文堂、1957年
評伝
- 長野甞一 「小説家・池田亀鑑(その一、二、三)」『学苑』昭和女子大学光葉会、218.219.221号、1958年5月、1958年6月、1958年8月
- 長野甞一 「源氏物語とともに-池田亀鑑の生涯(1-4)」『立教大学日本文学』7-10号、1961年11月-1963年6月、『説話文学論考』 笠間書院 1980年2月に再録。
- 長野甞一 「池田亀鑑博士の生涯と学業」「古代文化」第20巻第1号、古代学協会、1968年1月
- 池田皓 「この道一筋に‐亡兄池田亀鑑を想う‐」『水茎』10号「特集・池田亀鑑」古筆学研究所、1991年3月 pp.44-68
- 秋山虔 「池田亀鑑―基礎的研究に終始した厳しい姿勢」「国文学 解釈と鑑賞」57巻8号 1992年8月
- 萩谷朴 「歌合巻発見と池田亀鑑先生・その一 その二」「水茎」16.17号 古筆学研究所 1994年3月.10月
- 柳井滋 「源氏物語を伝えた人々2 池田亀鑑」「むらさき」紫式部学会 第37輯 2000年12月、のち「池田亀鑑 源氏図書館構想」として『源氏学の巨匠たち-列伝体研究史 紫式部学会創立80周年記念出版』武蔵野書院、2012年12月11日、pp. 55-81。 ISBN 978-4-8386-0441-8 所収。
- 伊井春樹 「昭和の源氏物語研究史を作った十人 三 池田亀鑑」紫式部顕彰会編『源氏物語と紫式部 研究の軌跡 研究史篇』 角川学芸出版 2008年7月、pp.47-61。 ISBN 978-4-04-621171-2
- 伊藤鉄也編 「もっと知りたい池田亀鑑と「源氏物語」」 新典社、第一集、2011年、第二集、2013年、第三集、2016年(復刻『花を折る』前編・池田亀鑑著作選/美しく悲しい安養尼のお話上下/嵯峨の月/笄の渡/落城の前/咲けよ白百合)所収。
参考文献
- 池田亀鑑博士追悼録『学苑』201号 昭和女子大学光葉会 1957年2月
- 池田亀鑑博士追悼号『国語と国文学』34巻2号 東京大学国語国文学会 1957年2月
- 追悼・学史 池田亀鑑博士「古代文化」第20巻第1号、古代学協会、1968年1月
関連人物
脚注
- ↑ 池田亀鑑博士追悼録「年譜」『学苑』201号 昭和女子大学光葉会 1957年2月
- ↑ 上原作和「小説家・池田亀鑑の誕生―少女小説編―」「もっと知りたい池田亀鑑と「源氏物語」」第三集、新典社、2016年9月
- ↑ 坂本太郎「恵まれた東大教授の十七年間 ㈥学位論文の審査」(『わが青春』『坂本太郎著作集』第十二巻、吉川弘文館、1989年、初出『古代史への道-考証史学六十年』1980年)
- ↑ 長野甞一 「源氏物語とともに-池田亀鑑の生涯」『説話文学論考』 笠間書院 1980年2月、池田皓 「この道一筋に‐亡兄池田亀鑑を想う‐」『水茎』10号「特集・池田亀鑑」古筆学研究所、1991年3月
- ↑ 伊藤鉄也「池田亀鑑の生い立ち (出雲文化圏と東アジア) -- (学び舎の風景) 」『アジア遊学』第135号、勉誠出版、2010年(平成22年)7月、pp. 201-205。
- ↑ https://ci.nii.ac.jp/naid/500000491187
- ↑ 池田亀鑑賞
関連項目
外部リンク
典拠レコード: