江藤小三郎
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江藤 小三郎(えとう こさぶろう、1945年(昭和20年)? - 1969年(昭和44年)2月11日)は、日本の思想家、社会運動家、陸上自衛官。陸上自衛隊生徒(7期)修了。
1969年(昭和44年)2月11日の建国記念の日に、国会議事堂前にてガソリンをかぶって焼身自決した行為が、翌年の三島由紀夫の自決(三島事件)の決意に少なからず影響を与え[1]、のちの新右翼・民族派運動にも影響を及ぼした。
人物
1945年(昭和20年)、神奈川県横浜市金沢区六浦に生まれる。父は維新の元勲江藤新平の孫で衆議院議員の江藤夏雄。祖父は新平の二男の江藤新作。新作は犬養毅の側近だった[2]。
1969年(昭和44年)2月11日の建国記念の日、国会議事堂前 (憲政記念館脇、井伊掃部頭邸跡の碑南) で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すとしてガソリンをかぶって焼身自決する[1]。行年23歳。その行為は後の新右翼・民族派運動に多大な影響を及ぼし、翌年の三島由紀夫の自決の決意にも繋がったことが看取される[1]。
「覚醒書」
混沌たる世界、暗雲立籠む皇国。自然科学におかされ地獄道に落ちし民族。
これを救う道、一事に極む。これ大自然に沿いし無私の心なり。無私の心、真我に通ず。真我集へば破るる事なし。国の大事、すべて無私より始まる。
ここに気付き行えばあとは康し。
一皇万民、天皇の許に真我が集う時、皇国毅然として興る。皇子皇民、一丸となり熱鉄玉を呑む勢いにて行えば世界万民を救う道をなすこと難くなし。
我、神命により不生不滅の生を得む。ここに肉体を放棄し永遠の生命を得む。
我「建国の日」に魂魄となりて、民族の危機にあたるものなり。
- 昭和四十四年二月十一日
辞世の句
「あらあらし 空にこみとり大楠の 大御心を誰ぞ知るらん」
「かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬ 大和魂」
三島由紀夫への影響
作家の三島由紀夫は、江藤小三郎の自決について次のように述べている。
二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、暗い工事場の陰で焼身自殺した。そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があつた。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のやうな政治行為であつて、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇つてゐることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。 — 「若きサムラヒのために」[1]
その後
1975年(昭和50年)2月11日(建国記念の日) 、赤坂の乃木会館において、「江藤小三郎之命追悼慰霊祭」が開催されている。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 三島由紀夫「若きサムラヒのために――政治について」(Pocket パンチ Oh! 1969年5月号)。サムライ 1996-11, pp. 19-23、35巻 2003-10, pp. 58-60
- ↑ 江藤新平の遺稿を整理・編纂し『南白遺稿』として刊行。
参考文献
- 三島由紀夫 『若きサムライのために』 文春文庫、1996年11月。ISBN 978-4167124038。 - 初版は1969年7月(日本教文社)。
- 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集35巻 評論10』 新潮社、2003年10月。ISBN 978-4106425752。
関連項目
外部リンク
- 「覚醒書」 - 江藤小三郎
- 流れ第28巻 国の大事無私より始まる-江藤小三郎を憶う - 中村武彦
- 江藤小三郎先輩 - 中山優 (亜細亜大学教授) 他
- 江藤小三郎の正気(「八女便り」第12号) - 馬場能久
- 江藤小三郎終焉の地を訪ねる