水谷則一

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水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 1984年8月29日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手外野手)、野球指導者(プロ野球監督)。

国民野球連盟宇高レッドソックス・熊谷レッドソックスに参加し監督を務めた。愛称はマメちゃん

来歴・人物

1927年、愛知商業のエースとして夏の甲子園に出場。準決勝で水原茂が率いる高松商業に0-1で惜敗するが、ベスト4となった。その後、慶應義塾大学ではその水原と共に活躍した。東京六大学リーグ通算64試合出場、131打数31安打、打率.237、0本塁打、8打点。

満洲鉄道倶楽部を経て1936年大東京軍の結成に参加。1936年4月29日名古屋軍戦(日本プロ野球公式戦最初の試合)に3番打者として出場し、日本プロ野球公式戦史上初めて左打席に立った打者となった。鬼頭数雄玉腰忠義と共にクリーンアップを務めて活躍した。

1947年、新設された国民野球連盟宇高レッドソックスに外野手として入団する[1]も、渡辺大陸の後を受けて監督に就任。同リーグが1年で消滅した為、そのまま退団。

1950年、松竹ロビンスに助監督兼任として現役復帰する。同年引退。

後に社会人野球の三菱自動車川崎の監督を務めた。

1984年8月29日逝去。享年74(満73歳)。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1936春夏 大東京
ライオン
松竹
14 67 59 6 15 0 2 0 19 7 2 -- 1 -- 7 -- 0 5 -- .254 .333 .322 .655
1936 27 115 96 9 25 5 2 0 34 12 4 -- 1 -- 18 -- 0 10 -- .260 .377 .354 .731
1937 56 246 201 24 53 4 3 0 63 21 19 -- 3 -- 40 -- 2 24 -- .264 .391 .313 .704
1937 49 214 165 28 43 7 1 2 58 24 11 -- 2 -- 46 -- 1 15 -- .261 .425 .352 .776
1938 34 139 115 10 24 3 1 1 32 11 2 -- 3 -- 21 -- 0 13 -- .209 .331 .278 .609
1938 38 175 142 16 35 1 1 0 38 19 6 -- 2 -- 29 -- 2 12 -- .246 .382 .268 .649
1939 96 436 359 48 97 13 7 2 130 39 21 -- 6 2 69 -- 0 20 -- .270 .388 .362 .750
1940 10 41 30 6 5 0 1 0 7 2 0 -- 0 0 11 -- 0 3 -- .167 .390 .233 .624
1950 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:6年 325 1434 1168 147 297 33 18 5 381 135 65 0 18 2 241 -- 5 102 0 .254 .384 .326 .710
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大東京(大東京軍)は、1937年秋季にライオン(ライオン軍)に、1941年に朝日(朝日軍)に、1946年にパシフィックに、1947年に太陽(太陽ロビンス)に、1948年に大陽(大陽ロビンス)に、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更

背番号

  • 1 (1936年、1950年 - 1951年)
  • 9 (1937年 - 1940年)
  • 30 (1947年)

脚注

  1. 『焦土の野球連盟』阿部牧郎、サンケイ出版、1987年、PP154-155。

関連項目

テンプレート:熊谷レッドソックス歴代監督