水生類人猿説
アクア説(アクアせつ、英: Aquatic Ape Hypothesis: AAH, Aquatic Ape Theory: AAT)とは、ヒトがチンパンジー等の類人猿と共通の祖先から進化する過程で、水生生活に一時期適応することによって直立歩行、薄い体毛、厚い皮下脂肪、意識的に呼吸をコントロールする能力といった他の霊長類には見られない特徴を獲得したとする仮説である。
この仮説は、古人類学の主流派からはほぼ黙殺されている。島泰三は説のあり方そのものを批判し、河合信和はトンデモ説、すなわち、科学的な仮説ですらないとしている。
肯定派としては、英国の動物学者であるデズモンド・モリスがいる。『舞い上がったサル (The Human Animal)』では、サバンナ説(21世紀にはいってから、この説も否定された)との両立が可能であると主張している。また1994年にはBBCのドキュメンタリイーTVシリーズで、「Aquatic APE」というタイトルで紹介されている。
この説は解剖学者と海洋生物学者が提唱し、脚本家であるエレイン・モーガンの著作で知られるようになった。古人類学の門外漢による仮説のため、古人類学からは無視されている。アクア説では現在のところ、科学的に検証する方法が提唱されていない。
概要
霊長類においてはヒトにのみ見られるとされる特徴のいくつかが水棲哺乳類・水棲鳥類では一般にみられることが、この説の根拠となっている。およそ500万年より以前の人類の祖先の化石が発見されていないミッシングリンクと呼ばれる時代におけるヒトにつながる進化の過程について提唱されている仮説のひとつ。
しかし20世紀後半からオロリン・トゥゲネンシス、サヘラントロプス・チャデンシスなど、500万年以前にチンパンジーの祖先と分かれて間もない頃と思われる化石の一部が発見されミッシングリンクは埋まりつつある。断片的な化石であるため詳細はわからないが、彼らが水棲であったという事を示す証拠は見つかっていない(ただし現在最古の人類トゥーマイは、当時チャド湖畔であったチャドで発見されている。また海ではなく内陸の淡水とする修正説もある)。2002年に確認記載されたサヘラントロプス・チャデンシス(700~600万年前)、オロリン(約600万年前)、アルディピテクス・カタパ(約550万年前)が、化石発見されており、上述のミッシングリンクの存在自体が実質消滅している。また、これらの化石人類はともに出た化石生物より森林から草原が混在していたところで生活していたと考えられている。
小史
- 1942年にドイツの解剖学者、マックス・ヴェシュテンヘーファーが最初に提唱した。
- 1960年に英国の海洋生物学者、アリスター・ハーディ卿が別個に同様の説を発表した[1]。
- 1972年に英国の放送作家、エレイン・モーガンがその著作で取り上げたのがベストセラーになり一般大衆にこの仮説が知られるようになる。
- 2005年、日本の経済人類学研究者の栗本慎一郎は、この水生類人猿説に立脚した人類史の議論を著書『パンツを脱いだサル-ヒトは、どうして生きていくのか』で展開したことで、日本でも知られるようになった。
- 日本の前衛科学評論家、斎藤守弘は、この説をなぎさ原人説と呼び、一部ではこの名称でも親しまれている。なお、水生類人猿説が示すのはヒトの祖先が類人猿から猿人へ進化した時期についてであるので、なぎさ“原人”としているのは誤解を生じる恐れがあるので注意。
以上のようにこの仮説の提唱者・支持者たちは、古人類学以外の研究者、非科学者が多い。
論拠
- 処女膜はヒトにあり、類人猿にない。クジラやアザラシの水生動物には処女膜がある。また、ヒトの膣の急な屈曲部は、チンパンジーにははっきりしていないか、完全に消失している。処女膜や屈曲部は膣内に水が入り込まないようにする役目がある。ヒトは類人猿に比較して高い水泳能力を有している[2]。
- 陸棲の生物の水棲への適応は進化の過程において繰り返し発生している。哺乳類に限っても牛や豚などが含まれる鯨偶蹄目に分類されるクジラ目、猫や犬等を含む食肉目に分類されるアシカ亜目、象などと近縁とされるジュゴン目と、現生種でも水棲に適応した複数の系統が見られる。ヒトを含む霊長目やその近縁においても同様の適応が起きる可能性はあり得る。
- ミッシングリンクの時代には海水面が高く、アフリカ大陸は北部の大部分が沈んでいた。人類の祖先はこの時に海辺で生活し、海水面が元通りになると陸生活に戻った。
- 体毛が薄く皮下脂肪が多いのは、水中で温度を保つのに都合がよいからだ。これは他の水棲哺乳類と同じ理由である。
- 海水中生活に適応した人類の祖先は、海水を離れた後も川辺で暮らした。川辺は失った水分をすぐに調達できる環境であったため、発汗のシステムは都合が良かった。
- ヒトは他の動物と比べて塩分摂取の必要量も許容量も多い。これは海水中生活に適応した名残である。
- 人の頭髪が長いのは、体が水に浸かっている時に露出している頭部を太陽光から守る為である。
- 発涙のシステムは海棲哺乳類・鳥類にのみ見られる特徴である。海棲鳥類は塩分を排出するために涙を流すが、海棲哺乳類の場合感情が激した時に涙を流すことがある。
- 直立二足歩行は、海水に浸かった時に顔だけを出すのに有効である。また他の水棲哺乳類やペンギンも同じ姿勢をとる。
- 他の水棲哺乳類と同様に頭から尻まで一直線になっているため対面性交の形をとった。
- 洗練されたバランス感覚と柔軟な背骨は、水中という視覚などによる指標のない世界で泳ぐのに必要だった。水棲哺乳類には人間よりも鋭いそれらがあり、アシカやイルカの芸は水族館でお馴染みである。
- 水中に入ると心拍数が減る現象「潜水反射」が人間にも備わっている。
- 一時期の胎児には名残が残っており、全身を毳毛(ぜいもう)と呼ばれる毛で覆われているが、この毳毛は泳いだ時に水が流れる方向と一致している。
- 現代の人間でも水中に長時間いて助からないと思われていても助かった例がいくつも報告されている。
- 類人猿には全く見られない手足に水かきの痕跡を持つ人がいる。
- 生後間もない乳児は水を怖がらず、水中で反射的に息を止める能力を持っている。
- 人間の新生児は他の類人猿よりも割合として重いが、これは皮下脂肪により浮力をつけて水中での出産を容易にするためである。
- 水中では嗅覚が役に立たず、衰えた。
- ケニアの湖で死因がビタミンA過剰症と見られる原人の化石が発見された。膨大な量の魚を食べていたと考えられる。
- 人の鼻の穴が下を向いているのは水が入りにくいように適応したためである、上唇の上の溝(人中)を持つ霊長類は人間だけである。これは上唇を鼻孔にぴったり密着させて水中で呼気が漏れたり、水が侵入するのを防いだ名残と考えられる。
- 女性の外性器が隠れているのは、体の表面積を減らした方が水中生活では有利なためである。
反論
- 仮説の根拠の裏付けとなるような化石が発見されていない。
- 本説が提唱された20世紀中盤にはヒトの祖先についてほとんど知られていなかったが、20世紀末から発見されだした人類の祖先化石と推測されるいずれの物も水棲説を支持していない。
- アフリカ北部の大部分が水没していたとすると、体の構造上泳げないキリンを始め、多くの動物の分布・存在が説明できない。
- 人間にも泳げない人がたくさん存在する。むしろ、ヒトは「訓練しないと泳げない」例外的な動物である。
- 類人猿程度の遊泳能力の動物が海や湖に入るのは、サメやワニの捕食対象になるだけである。
- 水棲哺乳類は総じて脚の退化が見られる。
- 陸上で胴体を引きずらずに歩行できる水棲哺乳類(森林棲のコビトカバを祖先にもつカバ以外)には、密生した短い毛が全身にある。
- 鼻孔を閉じる能力がない。
- 猿人・原人化石の中には、死後に遺体が水に没したために水成層から出土するものもあるが、多くは陸成層中から発見される。
- 水棲動物ではよく発達している瞬膜(水から目を守る膜)が、人間では完全に退化している。
- 潜水反射自体は、人間以外の哺乳動物にも普通に見られるものである。
- ヒトは顔に水が触れると交感神経が興奮する。モーガンの主張と正反対の現象が起こる。
- 魚の食べ過ぎで死んだのなら魚食に適応していなかった有力な証拠である。「ビタミンA過剰で死んだ」とされる原人については、「致死量のビタミンAを含む肉食獣の肝臓を食べたのが原因である」とするのが古人類学者の定説である。
- 水生哺乳類が水に入ると心拍数が下がるのは、人間によって強制的に陸に揚げられたイルカやジュゴンが水に戻された時の事を述べただけで、潜水反射とは無関係である。
脚注
参考文献
- Hardy, A. C. (1960). “Was man more aquatic in the past?”. New Scientist 7: 642-645.
- Hardy, Alister (1960). “Has Man an Aquatic Past?”. The Listener and B.B.C. Television Review LXIII (1624): 839-841.
- Westenhöfer, Max (1942). Der Eigenweg des Menschen (ドイツ語). Belrin: Mannstaedt & Co..
- エレイン・モーガン 『女の由来 : もう一つの人類進化論』 望月弘子訳、どうぶつ社、1997年。ISBN 4-88622-300-1。(原著改訂版の翻訳。原著初版の翻訳は、エレン・モーガン 『女の由来』 中山善之訳、二見書房、1972年。)
- エレイン・モーガン 『人は海辺で進化した : 人類進化の新理論』 望月弘子訳、どうぶつ社、1998年。ISBN 4-88622-302-8。
- エレイン・モーガン 『子宮の中のエイリアン : 母と子の関係はどう進化してきたか』 望月弘子訳、どうぶつ社、1998年。ISBN 4-88622-305-2。
- エレイン・モーガン 『進化の傷あと : 身体が語る人類の起源』 望月弘子訳、どうぶつ社、1999年。ISBN 4-88622-307-9。
- エレイン・モーガン 『人類の起源論争 : アクア説はなぜ異端なのか?』 望月弘子訳、どうぶつ社、1999年。ISBN 4-88622-311-7。
- デズモンド・モリス 『舞い上がったサル』 中村保男訳、飛鳥新社、1996年。ISBN 4-87031-263-8。
批判的な立場による文献
- 島泰三 『親指はなぜ太いのか : 直立二足歩行の起原に迫る』 中央公論新社〈中公新書〉、2003年。ISBN 4-12101-709-9。
- 島泰三 『はだかの起原 : 不適者は生きのびる』 木楽舎、2004年。ISBN 4-90781-847-5。
- 河合信和『ヒトは海で生まれたって? アクア説批判』、“Kawai's Anthropology Homepages 人類博のコラム”. 2009年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2010閲覧.2001年05月07日付けの第4回に記載