水城
水城 (福岡県) | |
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城郭構造 | 古代の城 |
築城主 | 大和朝廷 |
築城年 | 天智天皇3年(664年) |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 土塁・城門跡・外濠跡 |
指定文化財 | 国の特別史跡「水城跡」 |
位置 | 東経130度29分33.56秒北緯33.5180472度 東経130.4926556度 |
地図 |
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水城(みずき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた、日本の古代の城である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定されている[1]。
概要
『日本書紀』に、「・・・。また、筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ」と、記載された城である[注 1]。
白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した[2]。そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城[注 2]を築く。また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである[3]。
水城は、大野城のある四大寺山(大城山)と[注 3]、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られている。全長約1.2キロメートル×高さ9メートル×基底部の幅約80メートル・上部の幅約25メートルの二段構造の土塁で、東西の端部の東門と西門が開く。土塁の基底部を横断して埋設された木樋(もくひ)は、長さ79.5メートル×内法幅1.2メートル×内法高さ0.8メートルである。土塁の博多側の現水田面より5メートル下に、幅60メートル×深さ4メートルほどの外濠が存在する[3]。
水城は、平野を遮断する直線的な土塁と外濠をあわせもつ「城壁」(防塁)である。中央に御笠川が北流する沖積地の軟弱地盤に築かれる。土塁の最下層部に多量の枝葉を混入し、基礎地盤を強化する、敷粗朶(しきそだ)工法で施工されている。また、土塁の上層部は、土質の異なる積土を10センチメートルほどの単位で硬く締め固めて積まれた、版築(はんちく)土塁である[4]。
水城は、博多湾側の福岡平野から筑紫に通じる平野を閉塞する「遮断城」である。東門と西門が設けられ、福岡方面から2道が通過していた。西門は3期の変遷が確認され、大宰府と筑紫館(後の鴻臚館)を結ぶ、儀礼的な外交の主要道として8世紀後半まで機能していたとされている[5][6]。
水城の西方に、丘陵の間を塞ぐ複数の小規模の土塁遺構がある。水城と一連の構築物で、「小水城(しょうみずき)」と総称される。土塁の長さ約80メートルの「上大利小水城」・土塁の長さ約100メートルの「大土居小水城」[注 4]・土塁の長さ約80メートルの「天神山小水城」[注 4]などである[7]。
天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬〜九州の北部〜瀬戸内海〜畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤や小水城などで防備を固める。この原型は、百済の泗沘都城にあるとされている[8]。
関連の歴史
『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。
- 天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)・百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した。
- 天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。
- 天智天皇4年(665年):長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く。
- 天智天皇6年(667年):大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。
調査研究
遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。
- 考古学的調査は、1913年(大正2年)の黒板勝美・中山平次郎の土塁断面の調査と、1930年(昭和5年)の長沼賢海・鏡山猛の木樋の調査があるが、本格的な発掘調査は1970年(昭和45年)に開始された。それ以降、福岡県教育委員会・九州歴史資料館・太宰府市・大野城市が、継続的に調査している[9]。
- 1975年(昭和50年)の発掘調査で、水城大堤の博多側に外濠が存在することが判明した[3]。1978年(昭和53年)の発掘調査で、8世紀後半代の「水城」銘の墨書土師土器が発掘された[10]。
- 2013年から2014年にかけて、福岡県教育委員会は、100年ぶりに土塁断面の再調査を行った[11]。
- 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[12]。
その他
- 九州旅客鉄道の鹿児島本線の「水城駅」は、『日本書紀』の「水城」に由来する。水城駅の近くで、列車は「水城の土塁切断部」を通過する[11]。
- 平成25年〜27年の三か年にわたり、「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業」が企画され、関係自治体に加え、官民も連携した各種の記念事業が展開された[13]。
- 2017年(平成29年)、続日本100名城(182番)に選定された[14]。
- 2017年(平成29年)4月1日 - 水城館開館[15]。
- 2017年11月、国際天文学連合(IAU)は火星と木星の間で古川麒一郎により発見された小惑星に「Mizuki」と命名、登録した[16]。
ギャラリー
- Mizuki zenkei.JPG
全景(東南側より)
- Mizuki sokumen.JPG
側面(東側より)
- Mizuki toi.JPG
木樋(復元)
- Mizuki higashi-mon soseki.JPG
東門跡礎石
- Stele of Mizuki Castle Ruins 3.jpg
土塁断面
脚注
注釈
出典
- ↑ 水城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ↑ 森 公章 編 『倭国から日本へ』、吉川弘文館、2002年、75頁。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 渡辺正気 著 『日本の古代遺跡 34 福岡県』、保育社、1987年、112-113頁。
- ↑ 杉原敏之 「水城」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、20-21頁。
- ↑ 松尾洋平 「古代遮断施設(防塁)についての一考察」『古文化談叢』 第60集、九州古文化研究会、2008年、129-131頁。
- ↑ 小鹿野 亮 「古代山城へつづく道」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、79頁。
- ↑ 中村昇平 「小水城の調査ー大土居水城跡を中心にー」『溝漊』 第13号、古代山城研究会、2007年、47-53頁。
- ↑ 小田富士雄 「大宰府都城の形成と東アジア」『季刊 考古学』136号、雄山閣、2016年、19頁。
- ↑ 横田 賢次郎 「水城跡」『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、507頁。
- ↑ 杉原敏之 「水城跡の発掘調査ー外濠の調査成果を中心にー」『溝漊』 第13号、古代山城研究会、2007年、43頁。
- ↑ 11.0 11.1 杉原敏之 「水城跡ー土塁断面の再調査からー」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、29-32頁。
- ↑ 狩野久 「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』 第21巻 月報21、岩波書店、2015年、3頁。
- ↑ 山村信栄 「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業について」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、21頁。
- ↑ 「真田丸ゆかりの城など「続日本100名城」に」朝日新聞、2016年4月9日
- ↑ 太宰府市ホームページ(2017年3月27日)
- ↑ 西日本新聞2017年11月19日
参考文献
- 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
- 小田富士雄 編 『季刊 考古学』 136号(西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
- 西谷正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、ISBN 978-4-490-10712-8。
- 小島憲之 他 項注・訳 『日本書紀 ③』、小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X。
- 齋藤慎一・向井一雄 著 『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年、ISBN 978-4-642-08303-4。
- 向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年、ISBN 978-4-642-05840-7。