民族自決
民族自決(みんぞくじけつ、self-determination)とは、各民族集団が自らの意志に基づいて、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利。民族自決権ともいう。
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歴史
1917年、ロシア革命中にウラジーミル・レーニン率いるソビエト政権による布告「平和に関する布告」は、「無賠償・無併合・民族自決」に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案した[1]。この民族自決は、ヨーロッパ・非ヨーロッパの区別なく植民地を含めた領土・民族の強制的「併合」を否定して民族自決の全面的承認した内容であった。フランスやイギリスなどの同盟諸国はこの布告を無視したが、アメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンはこの布告を「世界に貴重な原則を示した」と評価した。1918年、ブレスト=リトフスク条約で、ロシアは第一次世界大戦から正式に離脱し、さらにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄した。
1918年、ウッドロウ・ウィルソンが「十四か条の平和原則」の第5条で制限的な民族自決を記載してヴェルサイユ条約での原則となり、ヨーロッパでは、アイルランド・フィンランド・バルト三国・ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・セルビア人=クロアチア人=スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)が、アジアやアフリカでは、モンゴル・アフガニスタン・イラク・イエメン・エジプトが独立を果たした。しかしイギリスやアメリカ合衆国は海外に植民地を有しており、民族自決はあくまでヨーロッパ内部のルールであった。他方、ナチス・ドイツは民族自決を根拠とし、チェコスロバキアやポーランド、オーストリアなどに住むドイツ系住民の保護を名目に、それらの地域を侵攻した。
第二次世界大戦後もアメリカでは長らく人種差別が続き、それに反対する公民権運動が活発化した。民族自決はその後の民族独立の指導原理になった。
国際法上の権利としての確立
国連憲章第1条2、国連総会決議第1514号(1960年12月14日)「植民地諸国、諸人民に対する独立付与に関する宣言」においても認められ[2]、その後の国連や諸国家の行動を経て、植民地人民の独立の権利は一般国際法上の権利として認められるに至った。1966年に採択された国際人権規約により、規約締約国は自決権を保障する国際法上の義務を負っている。
植民地の独立がほぼ達成された今日では、国家内部の先住民・少数民族にも自決権が及ぶかどうかが議論の対象となっている。
脚注
- ↑ Vladimir Ilyich Lenin. The Right of Nations to Self-Determination. 2009年8月1日閲覧.
- ↑ なお、国連総会決議には直接の法的効力はない。