毛抜形太刀

提供: miniwiki
移動先:案内検索

毛抜形太刀(けぬきがたたち)は、平安時代中期頃に登場した太刀であり、日本刀の原型(起源)と考えられている刀である。「衛府の太刀」とも呼ばれた毛抜形太刀だが、『白河上皇高野御幸記(高野行幸記)』では、「俘囚野剣」とも呼ばれている。

毛抜形太刀成立までの過程

毛抜形太刀の直接的な起源は、古墳時代東北地方蝦夷が用いてきた蕨手刀である。朝廷の律令軍によって東北地方が制圧支配されると、蝦夷の文化・戦術(武人を含め)などが内国に伝わり、蕨手刀が段階的に改良発展された結果として、日本刀の原型とされる毛抜形太刀へと至る。

まず、蕨手刀の柄に透かしをつけた毛抜形蕨手刀に改良された。これは出土状況などから9世紀初めに蝦夷自身の手によって改良されたものと見られている。この柄の透かしによって、握りやすくなり、柄と刀が一体であった蕨手刀の弱点である斬撃時の衝撃を緩和させることに成功している。

さらに、毛抜形蕨手刀の柄頭から特徴的であった蕨形の装飾が消えて毛抜形刀(別名:舞草刀)となる。柄頭の装飾が消えたことからも、実用性に重きが置かれていく過程が分かる。この毛抜形刀についても、蝦夷が9世紀末までに開発したものと考えられている。

この毛抜形刀の刀身をさらに長くして70センチ近くに達したものが毛抜形太刀である。蕨手刀から毛抜形刀までは、東北蝦夷によって成立したものだが、この毛抜形太刀は、これらの刀を参考に内国で開発された。最古のものは、長野県塩尻市宗賀で出土したもので、10世紀のものと推定されている。出土刀も、神社に奉納されていた伝世刀も、全て関東以西である。突き刺す直刀と違い、斬ることに特化していった蕨手刀系統の刀は、馬上での疾駆斬撃戦に有利であった。そのため、毛抜形刀は内国の武人にも好まれたものとみられる。毛抜形刀から毛抜形太刀への飛躍は、9世紀末から10世紀前半の東国の乱の中で起こったものではないかと下向井龍彦(広島大学大学院教育学研究科教授)は考察している。毛抜形太刀は急速に普及し、衛府官人(天皇親衛隊幹部)の制式太刀として採用されるに至っている。

この太刀の登場により、律令的戦術から脱した武人・武官達は、中世の武士の原型を作ることとなる。

文化財

毛抜形太刀
伊勢神宮蔵。重要文化財。詳細は当該項目を参照。
毛抜形太刀〈無銘(伝藤原秀郷奉納)/〉附梨子地桐紋蒔絵鞘
宝厳寺蔵。重要文化財。詳細は当該項目を参照。
毛抜形太刀〈無銘/〉
太宰府天満宮蔵。重要文化財。詳細は当該項目を参照。
金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでん けぬきがたたち)
現存する毛抜形太刀の中でも最高作とされ、奈良春日大社蔵。ただし、深く錆つき、刀身は抜けないとされる。鞘には螺鈿蒔絵が施されている。
平成27年(2015年)から翌28年にかけての春日大社第60次式年造替に合わせて同太刀の復元が試みられ、その様子は平成28年12月にNHKドキュメンタリーとして放送された[1]

備考

  • この他、竹生島にも平家の公達経盛の所用とされるものが奉納されているが、これも焼け身である。
  • 赤地錦包毛抜形太刀のレプリカは、東京国立博物館において見られる。
  • 宮城学院女子大学名誉教授の佐々木忠慧が1990年2月に発表した説として、清少納言著の『枕草子』内の「たちはたまつくり」の一文を「太刀は玉造鍛冶(現西大崎地区)の作がよい」と解釈したものがある。これは「舞草(もくさ)刀研究会」が明らかにした玉造鍛冶像をヒントにした説であり、『枕草子』が成立した時期(10世紀末)、舞草鍛冶の鍛えた刀の出来栄えが宮廷で話題となり、清少納言が簡潔に書きまとめたとする説である。舞草刀とは極初期の日本刀と分類される刀であり、玉造鍛冶は現在の一関市を中心として活動した舞草鍛冶が俘囚として玉造郡衙(現大崎市、旧岩出山町西大崎地区)に移された(岩手から宮城へ南下した)集団と考えられている。いずれにしても、日本刀の成立には蝦夷鍛冶の技術力に因があることは確かである。
  • 考古学研究者の津野仁は、共鉄柄で柄頭が方形の刀に対して、「方頭共鉄柄刀」という呼称を提唱し、木柄刀との系統的な発展の違いと関連について、近年、論文を出している(津野仁 『日本刀の成立過程 - 木柄刀と古代刀の変遷 -』 2010年)。

参考文献

  • 日本の歴史07 『武士の成長と院政』 2001年 下向井龍彦 講談社 ISBN 4-06-268907-3
  • 『-特別展- 誕生 武蔵武士』 埼玉県立歴史と民俗の博物館 2009年

脚注