毛利就頼
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毛利就頼 | |
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長12年(1607年) |
死没 | 延宝4年7月17日(1676年8月26日) |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 吉川氏→吉見氏→大野毛利家 |
毛利 就頼(もうり なりより)は、江戸時代前期の武士。長州藩一門家老である大野毛利家の祖。
略歴
慶長12年(1607年)、初代岩国領主・吉川広家の次男として誕生。
慶長9年(1604年)に毛利氏家臣である吉見氏の当主・吉見広長が毛利氏に反抗し出奔したため、先代当主で隠居中の吉見広頼の婿養子となり、吉見政春(よしみ まさはる)と名乗った。長州藩初代藩主・毛利秀就より周防国熊毛郡[1]を与えられた。後に毛利姓に復姓し、秀就より偏諱を受けて毛利就頼と名乗った[2]。
寛永14年(1637年)、一門・毛利元法と共に加判役となり、国元留守居役として藩政に参画する。慶安4年(1651年)財政再建のために、実兄・吉川広正の援助を受けて平生開作(干拓事業)を行う。吉川家から派遣された横道忠右衛門を奉行として工事を成し遂げた。
延宝4年(1676年)、死去。子孫は長州藩一門家老大野毛利家として幕末まで存続している。