毛利匡芳
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毛利 匡芳(もうり まさよし、宝暦8年1月15日(1758年2月22日) - 寛政4年6月18日(1792年8月5日))は、長門長府藩の第10代藩主。
長州藩主毛利重就(元は第8代長府藩主・毛利匡敬)の五男。母は武藤氏(瑞順院)。同母弟に親著(長州藩主毛利斉元の実父)。正室は右大臣西園寺賞季の娘・宝珠院。側室は鏡貞院。子は元義(長男)。官位は従五位下、甲斐守。幼名は政次郎。諱ははじめ匡豊、のち匡芳に改めた。
江戸にて生まれる。宝暦11年(1761年)正月9日生まれとする説もある。明和6年(1769年)、兄で先代藩主の匡満が嗣子なくして若死にしたため、跡を継いだ。安永3年(1774年)12月に叙任する。天明3年(1783年)5月、父・重就による幕府への嘆願で城主格となった。節倹条例や奢侈禁止令を出して藩財政を再建し、さらに文武発展を目指して藩校・敬業館を開いた。寛政4年(1792年)6月18日、江戸にて死去し、跡を長男・元義が継いだ。法号は功篤院殿哲嵒良壽大居士。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺、山口県下関市長府の功山寺。