毛利匡広
毛利 匡広(もうり まさひろ、延宝3年11月11日(1675年12月27日)- 享保14年9月19日(1729年10月11日))は、長門長府藩の第6代藩主。元は長門清末藩の第2代藩主で、この時の名乗りは毛利 元平(もうり もとひら)。
清末藩初代藩主・毛利元知の次男。母は小笠原氏(真光院)。正室は毛利綱広の娘・放光院。側室に多喜氏、飯田氏、下村氏。子に毛利師就(五男)、毛利政苗(七男)、毛利広胖(広定)(八男)、毛利重就(十男)、増山正贇(十一男)、娘(有馬一準正室、毛利重広母)、娘(平野長喜養女)。官位は従五位下、甲斐守。幼名は権三郎。
生涯
清末で生まれる。天和3年(1683年)、父の死去で跡を継ぎ、叙任される。清末藩主時代の名乗りは元平(もとひら)である。
享保3年(1718年)4月15日、萩藩主毛利吉元の要請により長府藩を再興し、旧長府藩領のうち3万8千石を分地された。吉元は、元平の従兄にあたる綱元の子で、長府毛利家から宗家(萩(長州)藩主家)を継いでいた。このため、吉元は長男の元朝に綱元の跡目を、三男の元陳(もとのぶ)に自身の跡目を継がせることとしていた。しかし、元陳が早世したため、吉元は長府藩主となっていた元朝を新たな嗣子として自身の許に戻し、代わりに吉元の弟・元矩が長府藩主となっていた。だが、その元矩も早世したため、危うく断絶しかけたところを血縁的に近い元平に白羽の矢を立てたのである。
本家筋にあたる長府藩主家を継いだ元平は、名を匡広と改めた。「匡」の字は祖先の大江匡衡や大江匡房の偏諱に由来し、この字を使用したのは、秀元流長府藩主家では吉元の2人の弟、毛利匡英(本多忠次)・匡以(まさもち)に続いて3人目、歴代藩主の中では初となる(以降、十男の匡敬(重就)やその子である匡満、匡芳も用いている)。
元平(匡広)が長府藩主家を継いだことにより、清末藩は一時的に断絶する(のち七男・政苗が再興)。また、長府藩の家格は無城に落とされるが、後年に旧来の5万石に復して家格も城主格とされた。
享保5年(1720年)5月に5万石となる。藩政では藩財政再建のために倹約令を出したが、享保の大飢饉で大被害を受けたため、さらに倹約を厳しくせざるを得なくなった。さらに農業を奨励した。絵画に通じ、自画像を残している。
享保14年(1729年)9月19日、長府で死去し、跡を五男・親就(師就)が継いだ。法号は瑞泉寺殿浄活湛然大居士。墓所は山口県下関市長府の覚苑寺。