毛利元朝
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毛利 元朝(もうり もととも、元禄16年1月19日[1](1703年3月6日)- 享保6年4月19日(1721年5月14日)[1])は、長門長府藩の第4代藩主[1]。のち長州藩の嗣子[1]。諱は後に
長州藩主・毛利吉元(長府藩第3代藩主毛利綱元の長男)の長男[1]。母は池田綱政の娘・法林院[1]。津山藩藩主松平宣富の娘と婚約。官位は従四位下[1]。佐渡守[1]。幼名は又四郎[1]。
経歴
父の吉元が長州藩主となったため、祖父・綱元の養嗣子となる。宝永6年(1709年)、祖父の死去により長府藩主となるが、正徳2年(1712年)に父・吉元の嗣子であった弟の元陳(左門)が死去したため、新たな嗣子として迎えられ、長府藩は叔父の元矩が継いだ。その後、将軍徳川吉宗より偏諱を受けて宗元と名を改めたが、長州藩の家督を継ぐことなく、享保6年(1721年)4月19日、19歳で早世した[1]。代わって、弟の宗広が嗣子となった。
法名は祐巌院殿四品賢良浄雄大居士[1]。墓所は下関市長府の瑞聖寺、萩市椿東の東光寺。
脚注
参考文献
- 時山弥八編 『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』、1916。