毛利元功
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毛利 元功 (もうり もといさ、嘉永4年4月3日〔1851年5月3日〕 - 明治33年〔1900年〕8月8日)は、周防徳山毛利家の第10代当主。父は長府藩主・毛利元運(元功は八男)。兄に元敏、姉に毛利宗家に入り萩藩主・毛利元徳の正室、また夫婦で毛利敬親の養子となった安子(銀姫)。養父は徳山藩第9代藩主・毛利元蕃。妻は有馬道純の娘。子に元秀、秋元春朝(秋元興朝養子)、宍戸功男、忠礼、波子(立見豊丸室)、政子(鍋島直縄室)、艶(細川利寿室)。幼名は平六郎。初めは就右と名乗る。官位は従五位下、大和守。のち位階勲等は従三位勲三等に至る。
生涯
- 嘉永4年(1851年)4月3日 - 江戸日ヶ窪の長府藩邸で生まれる。
- 安政6年(1859年)11月30日 - 毛利元蕃の養嗣子となる。
- 文久元年(1861年)1月15日 - 毛利就右と名乗る。
- 慶応3年(1867年)10月18日 - 毛利元功と改名する。この年、養父・元蕃の名代として藩兵を率いて上京する。
- 慶応4年(1868年)1月 - 鳥羽伏見で幕府軍と戦い功を挙げる。
- 慶応4年(1868年)2月20日 - 英国留学の勅許を得、3月3日に兵庫から乗船し、閏4月29日にロンドンに到着する。兵庫出発後、4月2日付で従五位下を叙せられ、大和守に任じられる。また、9月2日、留守中に家督相続の命を拝する。
- 明治6年(1873年)7月24日 - 帰朝し、その後は東京に在って種々の公共事業に尽力する。
- 明治17年(1884年)7月8日 - 華族に列して子爵を授けられる。
- 明治18年(1885年)7月13日 - 勲四等に叙せられる。ついで累進して従三位勲三等に叙せられる。
- 明治33年(1900年)8月8日 - 病んで東京赤坂霊南坂邸に没する。享年50。子の毛利元秀が家督を相続する。
栄典
脚注
日本の爵位 | ||
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先代: 叙爵 |
子爵 (徳山)毛利家初代 1884年 - 1900年 |
次代: 毛利元秀 |