橋本実梁

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橋本実梁(『高名像伝 : 近世遺勲. 地』)

橋本 実梁(はしもと さねやな、天保5年4月5日1834年5月13日) - 明治18年(1885年9月16日)は、攘夷派の公卿。橋本家19代当主で橋本実麗の養子。戊辰戦争でも戦った功臣で、のち式部寮に籍を置いた。晩年に伯爵に叙勲され、元老院議官となる[1][2]幣原内閣で大蔵大臣を務めた澁澤敬三は孫にあたる。

出自

天保5年4月5日(1834年5月13日)、京都に生まれる。実父は左近衛中将小倉輔季、幼名は茂丸[1]。のち中納言橋本実麗の養子となる[2][1][3]

概要

安政5年(1858年)、25歳の時、廷臣八十八卿列参事件で参加した一人として実父の小倉輔季らと共に連座された[4]文久3年(1863年8月18日の政変でも差控を命じられている[1]

慶応4年の戊辰戦争(1868年)では東海道鎮撫総督に任ぜられて江戸城攻撃の先鋒の一角を担い、同年の江戸開城の折は、勅使として徳川家に対する朝廷からの沙汰を伝達した[5]

明治2年(1869年)7月6日 度会府(わたらいふ)が現今の三重県に置府され、ほどなく(17日に)渡会県となったが、実梁はその初代長官(度会府知事・度会県知事)に任命され、明治4年(1871年)11月22日に統合再編成された新生の度会県が生まれると、実梁はその権令(県令)となった[6]

明治5年(1872年)2月17日、式部寮に異動され、式部助(すけ=次官)に転任する[6]。このときの式部寮はまだ宮内省の所管ではなく太政官直轄であった。また類似の職務も掌っていた神祇省が同年3月14日から15日に統廃合され、祭祀の職務(大中少の掌典)はすべて式部寮に移管された。ともあれ人事の再編成もおこなわれ、同年11月に権助(ごんのすけ)兼大掌典[1]の役を得る(このとき兼務は得るかわりに、助から権助へ降格されている)。

実梁は、雅楽課長を務めていたこともあり、雅楽の衰退および楽師の窮状を憂いて岩倉具視に働きかけ、岩倉が没した翌年の明治17年(1884年)より楽道保存賜金の支給が実現されたとのエピソードが残されている[7]

晩年の明治17年(1884年)7月7日の勅旨による一連の叙任では、功を認められて伯爵の位を授けられた[8]

略歴

栄典

著書

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 野島, 寿三郎 (Nojima, Jusaburō) (1986). 神道人名事典(Shintō jinmei jiten) (snippet), 神社新報社. ISBN 4-915-26556-0.  ISBN 978-4-915-26556-3
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 (1990) 政治家人名事典(Seijika jinmei jiten) (snippet), 日外アソシエーツ. 
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 国立国会図書館 (2012年12月20日). “西園寺公望関係文書(橋本実梁旧蔵)”. リサーチ・ナビ. . 2013年3月閲覧.
  4. 4.0 4.1 野島, 寿三郎 (Nojima, Jusaburō) (1994). 公卿人名事典(Kuge jinmei jiten) (snippet), 日外アソシエーツ. 
  5. 5.0 5.1 岩倉公実記』中、皇后宮職、東海道先鋒総督橋本実梁朝命ヲ田安慶頼ヘ伝達ノ事、1906年。NDLJP:781064
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 森, 嘉兵衛 (Mori, Kahei) (1959). 鄉土の歴史〈〔第7〕〉四国編. 宝文館. 
  7. 塚原, 康子「明治30年の宮内省式部職雅楽部」、『Bulletin (of the) Faculty of Music, Tokyo National University of Fine Arts & Music』第31巻、 92頁、 NAID 40007460695
  8. 8.0 8.1 官報』 大蔵省印刷局、日本マイクロ写真、華族ヘ榮爵ヲ賜ル (明治十七年七月七日/叙任 (明治十七年七月七日))、1884年07月08日。NDLJP:2943511
  9. 臼井, 勝美 (Usui, Katsumi) (2001). 日本近現代人名辞典. 宝文館. 
  10. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  11. 『官報』第667号「賞勲」1885年9月18日。

関連項目

外部サイト

日本の爵位
先代:
叙爵
伯爵
羽林家橋本家初代
1884年 - 1885年
次代:
橋本実頴