植村甲午郎
うえむら こうごろう 植村 甲午郎 | |
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生誕 |
1894年3月12日 東京府東京市 |
死没 |
1978年8月1日(84歳没) 東京都 |
出身校 | 東京帝国大学法学部政治学科 |
職業 | 実業家、財界人、日本航空会長、フジテレビ会長、ニッポン放送社長、会長、経団連会長 |
植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日 - 1978年(昭和53年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 - 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。
第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年) )。
来歴・人物
東京府東京市に植村澄三郎の長男として生まれる。祖父厚十郎は旧幕臣で甲府勤番士として甲府へ赴任していた。慶應義塾幼稚舎、東京府立一中、第一高等学校を経て1918年(大正7年) 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
農商務省に入省。大臣秘書官、資源局調査課長を務めた後、企画院調査部長となり、国家総動員法策定の指揮を執る。1940年(昭和15年) 企画院次長。
1941年(昭和16年) には九州の石炭王・松本健次郎に請われて、「石炭統制会」の理事長となる(松本が会長)。戦後も松本の引きにより、1945年(昭和20年) 経団連の前身である「日本経済連合委員会」の副委員長兼事務局長となり、1946年(昭和21年) に経団連が発足すると引き続き事務局長に就任した。翌1947年(昭和22年) に公職追放。
1951年(昭和26年) 追放が解除されると経団連に復帰し、相談役を経て副会長に就任する。1955年(昭和30年) には植村が中心となって「経済再建懇談会」を立ち上げ、これまでの個々の企業による献金から、戦前から岸信介ら商工省・企画院人脈との深い繋がりから、経済界・財界から政界・自由民主党への今に至る画期的な献金システム、俗にいう奉加帳方式を整備した。また、フジテレビジョン社長、会長、ニッポン放送社長・会長、財団法人日本科学技術振興財団会長、日本航空会長等も務めた。
株式会社フジテレビジョン創設に関わり代表取締役会長、株式会社ニッポン放送の社長や会長を務めたことから、鹿内信隆との関係が深く、信隆の長男・鹿内春雄が彼の秘書を務めていたことがある。
1960年(昭和35年) 、足立正(日本商工会議所会頭)らと発起人となり社団法人日韓経済協会を設立。自ら初代会長に就任する。
1968年、石坂泰三の後を継いで経団連会長に就任すると、副会長を5人から7人に増員し、集団指導体制の下で調整力を発揮しながら、石油ショック・日米繊維交渉など内外の経済問題に対処していった。業界内・間の調整にその威力を発揮したが、この頃の環境や公害問題への対処に植村の限界があったとも云われている。1974年には会長を土光敏夫に引継ぎ、名誉会長となる。1972年(昭和47年)勲一等旭日大綬章受章。1978年8月1日死去。享年84。
その他
幼少期、慶應幼稚舎→普通部コースでは遊んでしまうのではと心配した両親の勧めもあり、府立一中という当時の官立のエリートコースへ道を変えることとなる。入学後は、幼稚舎時代の気風を引き摺っていたのか勉学に身が入らなかったが、中学四年次にさすがに将来展望に焦りを感じ、級友らの助けを借り勉学に邁進することとなる。以後、一高受験するも失敗、一年間浪人した。当時、一高入学試験では論作文が出題され思うように書けず、山の手・お坊っちゃん育ちの薄弱な人生経験不足を痛感した。その時に得た教訓として「何事も付け焼刃ではモノにはならない」ということであったと、のちに「私の履歴書」の連載において語っている。
松本清張小説・「深層海流」が植村をモデルにしている。
1968年より1974年頃まで、財団法人サンケイスカラシップ第2代会長として海外留学生公募に携わる。初代会長は吉田茂、第3代は鹿内信隆。
参考文献
- 『人間・植村甲午郎 - 戦後経済発展の軌跡』、植村甲午郎伝記編集室、株式会社サンケイ出版、1979年7月10日発行
家族
系譜
- 植村氏
石坂泰三━石坂泰夫 ┃ 中村是公━━━━秀 ┃ ┃ ┃ ┣━━章子 ┃ ┏富井周 富井政章━━━┫ ┗淑 ┃ ┏植村泰忠 ┣━━┫ ┃ ┗和子 植村甲午郎 ┃ ┃ 渋沢栄一━━渋沢正雄━━渋沢正一
脚注
外部リンク
テンプレート:日本航空歴代社長 テンプレート:日本経済団体連合会会長 テンプレート:ニッポン放送歴代社長 テンプレート:フジテレビ歴代社長