桜庭和志
櫻庭 和志(さくらば かずし、1969年7月14日 - )は、日本の男性プロレスラー、総合格闘家。秋田県南秋田郡昭和町(現:潟上市)出身。株式会社39代表取締役、株式会社ラバーランド代表取締役。3児(男×3)の父。新聞などでは常用漢字外の文字の使用には制約があるため、桜庭和志と表記されることが多く、著書などでも桜庭の表記が一般的である。マネージメントはハイタイド。
秋田市立秋田商業高等学校卒業、中央大学商学部中退。
レスリングをベースに持つ。1990年代末 - 2000年代初頭頃のPRIDEにおいて、強豪外国人に対し、互角以上の戦いを展開した数少ない日本人選手の一人。
総合格闘技の試合では卓越した変則技を繰り出して対戦相手を翻弄することから「IQレスラー」と呼ばれ、人気を博した。また、桜庭は数多くの総合格闘家が苦杯をなめてきたグレイシー一族に対し4度も勝利したことから「グレイシー・ハンター」との異名もとった。
Contents
来歴
小学生の頃にタイガーマスクに憧れ、レスリングの名門秋田市立秋田商業高等学校のレスリング部で活躍した。中央大学レスリング部では主将を務めた。卒業後はスポーツクラブのインストラクターに就職が内定していたが、留年したため内定を辞退。留年した二度目の4年生のときにUWFインターナショナルに入団し大学を中退した。
UWFインターナショナル
1992年7月にUWFインターナショナルへ入団した。当初桜庭は藤原組の入団試験を受けるつもりだったという。UWFインターではレスリング技術に加えて、打撃と関節技を習得する。1993年8月13日の日本武道館大会でスティーブ・ネルソンを相手にプロデビューする[1]、Uインター在籍中はキモとの対戦もある[2]。95年には新日本プロレスとの対抗戦に度々出場。金原弘光と組んで永田裕志、石澤常光とのタッグマッチも経験している。この試合は、4人が卓越したアマチュアレスリングの技術を駆使したことで完成度は高く、以降「伝説の第一試合」と呼ばれている。またこの時期はサソリ固めを得意技にしており、さらに技を掛ける時は大声を出して気合を入れるなど、総合格闘技時代の冷静な試合運びとは対照的な戦い方をしていた。一夜限りのプロレス復帰を果たした2000年12月31日のINOKI BOM-BA-YE 2000でも技をかける際に大声を出している。Uインターは1996年12月に解散している。
キングダム
Uインター所属選手のほとんどが参加した新団体キングダムへ移籍。キングダムはオープン・フィンガー・グローブを着用した顔面殴打ありのルールを採用した団体で、桜庭にとってはUWFルールからPRIDEルールへの橋渡しとなった。1997年12月21日、怪我で欠場した先輩の金原弘光の代役として急遽UFC Japanヘビー級トーナメントに出場。マーカス・コナンに一本勝ちし、UFC-J王者となった。このとき「プロレスラーは本当は強いんです」と発言した。なお、このトーナメントは日本大会限定で行われたため、UFCの正式な王者となったわけではない。
PRIDE
グレイシー撃破
1998年に高田延彦主宰の高田道場へ移籍。PRIDE.2のヴァーノン・"タイガー"・ホワイト戦でPRIDEデビューした。
1999年4月29日のPRIDE.5では前年にヴァンダレイ・シウバをKOしたばかりのビクトー・ベウフォートに判定勝利。PRIDE参戦後はアラン・ゴエス戦(PRIDE.4)での引き分けを挟んで、ヴァーノン・ホワイト(PRIDE.2)、カーロス・ニュートン(PRIDE.3)、ビクトー・ベウフォート(PRIDE.5)、エベンゼール・フォンテス・ブラガ(PRIDE.6)、アンソニー・マシアス(PRIDE.7)に5連勝を飾り、ミドル級のトップコンテンダーに登りつめた。
1999年11月21日のPRIDE.8ではメインイベントに登場し、当時不敗神話を誇っていたグレイシー一族の一人、ホイラー・グレイシーとの対戦。1Rから15kgの体重差を生かしてホイラーのタックルを切り続けた桜庭は猪木アリ状態からのローキックでダメージを与えていく。2Rも優勢は変わらず、引き込んだホイラーにハーフガードからチキンウィングアームロックを極めた。ホイラーはタップせず、セコンドのヒクソン・グレイシーもタオルを投げなかったため、島田レフェリーが試合をストップした。ホイラー陣営は猛抗議するものの裁定は覆らず、桜庭はマイクアピールで「あそこからどうやって逃げたのか知りたいです。次はお兄さん僕と勝負してください!」とヒクソンに対戦を要求した。
2000年1月、「PRIDE GP 2000」に出場。ガイ・メッツァーの試合放棄という幕切れで1回戦を突破すると、5月の決勝大会ではホイス・グレイシーとの対戦が決定した。ホイラー戦での裁定に不満を持つホイスはルール変更を要求[3]、桜庭も受諾し、15分無制限ラウンド・レフェリーストップおよび判定無しで行われることになった。試合は1時間を超す長丁場となったが、桜庭はホイスの道衣を脱がせようとするなどして翻弄。桜庭がホイスの左足にローキックを蹴り続けたダメージで7R開始直前にホリオン・グレイシーがタオルを投入し、桜庭の勝利で実に90分に及ぶ死闘に終止符が打たれた。その後準決勝に進出するものの消耗が激しく、イゴール・ボブチャンチン戦では中盤から劣勢を強いられた。1R終了後の判定ではドローとなったものの、桜庭陣営がレフェリーにタオルを投入し、TKO負けとなった。
2000年8月27日、PRIDE.10でヘンゾ・グレイシーと対戦、バックを捕られるもアームロックでヘンゾの左腕を脱臼させTKO勝ち。12月23日のハイアン・グレイシー戦ではハイアンが直前に怪我した為、試合時間が10分1Rに変更された。試合は桜庭が終始優位に立って判定勝ちを収めた。
ホイラー、ホイス、ヘンゾ、ハイアンらグレイシー一族相手に4連勝を果たし、「グレイシー・ハンター」の異名を取った。また、ただ勝利するだけでなくファンを喜ばせるために戦うというファイトスタイルが高く評価された。桜庭の活躍と共にPRIDEは大きく成長を遂げ、2000年の桜庭はPRIDEのエースとして全盛期を迎えていたといえる。同年はプロレス大賞・敢闘賞を受賞した。
シウバとの闘い、PRIDE離脱
2001年3月25日、PRIDE.13でヴァンダレイ・シウバと初対戦し、この大会から解禁されたサッカーボールキックでTKO負け。再起戦となったPRIDE.15では初参戦のクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンと対戦、ジャクソンのパワーに苦戦するも、最後はスリーパーホールドで一本勝ちを収めた。
2001年11月3日、PRIDE.17でPRIDEミドル級王座が新設され、同時にPRIDEミドル級の設定が93kgとルールに追加された[4]。当時の桜庭の通常体重は85kg前後で、桜庭が希望していたミドル級は90kg以下だったが、以後のPRIDEで、桜庭はこの条件で戦っていくことになった[5]。PRIDE.17ではミドル級王座を賭けてヴァンダレイ・シウバと再戦するが、シウバの投げでマットに叩きつけられた際に左肩を脱臼しTKO負けで王座獲得に失敗した。翌2002年8月28日にはDynamite!のメインイベントでミルコ・クロコップと対戦、下からの蹴り上げで眼窩底骨折に追い込まれ、ドクターストップによるTKO負けを喫した。総合格闘技でのキャリア初の連敗となった。その後も膝と肩に慢性的な故障を抱え、出場が不安定な時期が続く。
ホイスを破った2000年からこの時期にかけては、後述のローカルのミニ番組ながら冠番組の『39 LOVER'S』を持ち、『情熱大陸』[6]や『トップランナー』[7]、CMにも出演し、国税庁発表の高額納税者公示制度では2001年度に納税額2638万円、推定年収7755万円に。2002年度にも納税額1014万円で、推定年収3336万円でランクインした[8]。
2002年11月24日、PRIDE.23左足腱断裂、右目眼窩底骨折が完治しないまま強行出場。ジル・アーセンに勝利した。
2003年3月16日、肩と膝の負傷を乗り越え完全復帰。PRIDE.25で、ニーノ・シェンブリと対戦。激しい打撃でシェンブリの顔面に裂傷を起こしたが、惜しくも敗戦。
2003年8月10日、ミドル級グランプリに出場、シウバと3度目の対戦が行われた。この試合は桜庭が大幅に体重を増量させて挑んだ一戦であった。試合はスタンドで打ち合う展開が続くが、1R5分、桜庭のローキックにシウバのカウンターの右フックを打ち込まれて失神KO負け、対シウバ3連敗となった。
2003年12月31日、PRIDE SPECIAL 男祭り 2003のメインイベントでアントニオ・ホジェリオ・ノゲイラと対戦した。負傷中の身ながら時間切れまで追い込んだが、判定負けを喫した。開催前には、UWFインターナショナル時代の先輩である田村潔司との対戦オファーがあるも、田村が準備期間の短さを理由に拒否したため実現しなかった。
2004年6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDにおけるワンマッチに2004年唯一の出場。ニーノ・シェンブリと再戦し3-0で判定勝ち。
2004年12月31日のPRIDE 男祭り 2004ではヴァンダレイ・シウバとの4回目の試合が予定されていたが、膝と肩の状態が悪く欠場した。
2005年2月20日のPRIDE.29で、アリエフ・マックモドと対戦し、精彩を欠いた勝利に終わった田村潔司に対し、リングサイドから「こんな試合じゃつまらないでしょう。田村さん、僕と勝負してください」とマイクアピールをしたこともあったが、田村は無言でうつむいたままリングから去っていくなど、対戦を何度か申し込むもなかなか実現には至らず[9]。
2005年、ミドル級グランプリに出場し、1回戦ではユン・ドンシクを1R26秒で破り、2回戦ではヒカルド・アローナと対戦。パワーと体重差の影響もあり劣勢に追い込まれ、アローナの膝蹴りの連打により流血、2R終了時には顔面が大きく変形する程のダメージを負った。自力で起き上がることもできず、タオルが投入された[10]。試合後病院に搬送された。この試合を契機に主戦場としていた「ミドル級(-93kg)」は桜庭の適正体重に比べて重すぎるので「ウェルター級(-83kg)」に転向すればいいのではないのか、というファンや関係者からの声があがった[11]。だが桜庭は「ミドル級より軽い階級には興味はない」と語っていた。
2005年8月、ブラジルに渡航しシュートボクセアカデミーで40日間に渡り出稽古を行う。[12]。PRIDE.30においてケン・シャムロックをシュートボクセ仕込みの打撃でTKOした際は、CBA会長のフジマール・フェデリコと抱きあって共に勝利を喜んでいる。
2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005で美濃輪育久と対戦し、アームロックでTKO勝ち。この試合が最後のPRIDE出場となった。
2006年、株式会社39を設立[13]。
2006年3月31日、8年2か月所属した高田道場を契約満了により退団。フリーランスとなり、高田道場時代の後輩の豊永稔、高橋渉、佐藤豪則と行動を共にする。
HERO'S
2006年5月3日のHERO'Sにおいて、前田日明の呼び込みからタイガーマスクを被りリングに登場。翌日に会見し、正式にHERO'Sへの参戦を表明した。なお、HERO'Sへの移籍表明の後、高田延彦から「彼とはもう酒も食事もすることは無い」と絶縁された。高田は絶縁の理由として、移籍そのものが原因ではなく、前もってではなく、移籍表明の後に挨拶に現れた桜庭について「筋が通っていない」とし[14]、同時にPRIDEとK-1が敵対していた関係上、PRIDE統括本部長の役職を務めていた自らがHERO'Sの選手と親しくすることは立場上出来ないこと[15]を説明した。
HERO'Sではそれまで各ラウンドを5分で行っていたが、桜庭の要求に伴い、桜庭の階級である85kg級のライトヘビー級だけがPRIDEと同じく1R目を10分という変則的な形のルール変更が行われた[16]。
2006年8月5日に行われたケスタティス・スミルノヴァス戦において顎を打ち抜かれ半失神状態にまで追い込まれたが、ケスタティスに執念の打撃を浴びせた後、腕ひしぎ十字固めで勝利した。試合中に桜庭は殴り倒されて意識が朦朧となるが、レフェリーはこの状態をダウンと取らず、ドントムーブから試合再開。この判断が物議を醸した。10月9日の準決勝で秋山成勲との対戦が決定するも、9月25日の練習中に嘔吐し、検査の結果、脳には異常が無かったが、椎骨脳底動脈血流不全と診断され欠場となった[17]。
2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!のメインイベントで改めて秋山成勲と対戦。秋山の打撃のラッシュを浴び、上からパウンドをもらい続け、1R5分37秒TKO負けとなった。しかし、桜庭は試合序盤タックルに行った際に秋山の足が滑ると感じ、レフェリー梅木良則にタイムを要求したが受け入れられず、その後は秋山の打撃を一方的に浴び続けた。パウンドを浴び続けている間も桜庭はレフェリーに「滑る!」「反則だよ!」とアピールしたが受け入れられなかった。結局秋山のパウンドを受け続けている状態が危険と判断され、ゴングが鳴らされTKO負け(レフェリーのストップが先ではなく審判長によるストップ)となるも、桜庭は試合が止められた後も秋山を指さし、「すごい滑るよ!」などと怒りを露にした。数日後、秋山が試合前に全身にスキンクリーム(アメリカ製)を塗っていた事実が明らかにされ、この試合は秋山の反則行為によりノーコンテストとなった(詳細とその後は秋山成勲の頁を参照)。
2007年3月12日、HERO'S 2007 開幕戦でユーリー・"PLAY BOY"・キセリオから一本勝ちをとった試合後のMCで大晦日の試合内容には一切触れず、ファンに対しての謝罪にとどまった。
2007年4月8日、PRIDE.34のリング上にタイガーマスクの覆面姿で登場し、同時に田村もスーツ姿で登場した。この日がDSE代表として最後の興行となった榊原信行の夢のカードであったという田村との対戦を示唆した。
2007年6月3日、Dynamite!! USAでホイス・グレイシーと再戦したものの、0-3の判定負けを喫しリベンジを許した。しかしホイスは薬物検査で陽性反応が出ている。
2007年8月28日のHERO'S記者会見において、7月16日の大会で現役復帰を表明していた船木誠勝に「桜庭選手と試合をしてみたい」と対戦要求を受けた。
2007年9月頃に高橋渉、佐藤豪則らと自らのチーム「チーム桜畑」を結成。9月17日のHERO'Sで、「チーム桜畑」vs田村潔司のジム「U-FILE CAMP」の対抗戦も行われ、自らは柴田勝頼と対戦しテイクダウンを奪うとパウンドを連打、最後は腕ひしぎ十字固めで一本勝ちした。試合後、リング上で「次、船木さん試合お願いします」と船木の対戦要求に応え、更にリングサイドで観戦していたヒクソン・グレイシーに「お兄さん、そろそろ僕らも年なんで試合お願いします」と対戦を呼びかけた。
2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!のメインイベントで7年ぶりに復帰した船木誠勝と対戦し、チキンウィングアームロックで一本勝ちを収める。
2008年4月1日、東京都品川区に自身の総合格闘技ジム「Laughter7」をオープン[18](「桜畑道場」としての仮オープンは2007年12月3日)。
DREAM
2008年4月29日、DREAM.2のミドル級グランプリ1回戦でアンドリュース・ナカハラと対戦し、フェイスロックで一本勝ち。6月15日、DREAM.4の2回戦でメルヴィン・マヌーフと対戦し、TKO負け。序盤のマヌーフのハイキックを受けた際に左腕尺骨を骨折した。
2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜のメインイベントで田村と12年半ぶりに対戦し、判定負けを喫した。ちなみに桜庭はこの時の入場では、仮面ライダーをモチーフとした演出がされた。
2009年10月6日、DREAM.11で現役プロボクサーのルビン"Mr.ハリウッド"ウィリアムズと対戦し、アームロックで一本勝ち。大会3日前の10月3日に出場が発表されるという緊急出場となった[19]。
2009年10月25日、DREAM初のケージ開催となったDREAM.12に連続参戦、ゼルグ・"弁慶"・ガレシックと対戦し膝十字固めで一本勝ちを収めた。
2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜の開会式に桜庭はエヴァンゲリオン初号機仕様のマスクを被って登場し、開会宣言を行った[20]。この日に向けて三崎和雄戦も検討されていたが「試合ができるコンディションではない」として欠場した[21]。2008年まで4年連続で大晦日興行のメインイベンターを務めていたが、試合への出場はなかった。
2010年5月29日、オクタゴンケージでの開催となったDREAM.14でハレック・グレイシーと対戦し、0-3の判定負け。
2010年9月25日、DREAM.16でジェイソン・"メイヘム"・ミラーと対戦し、1R序盤にパウンドからの肩固めで一本負け。生涯初の一本負けとなった[22]。
2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜でDREAMウェルター級王者マリウス・ザロムスキーに挑戦し、右耳の裂傷によりドクターストップ負けとなり王座獲得に失敗した。試合後、桜庭は応急処置を受けたのちにリング上で「すいません、耳がとれちゃいました」とコメントした[23]。なお、階級をウェルター級に落としたためプロ初の大幅減量となった[24]。
2011年9月24日、DREAM.17でヤン・カブラルと対戦し敗れる。
2011年12月31日、元気ですか!! 大晦日!! 2011に参戦、柴田とタッグを組んでIGFルールで澤田敦士、鈴川真一組と対戦し、11年ぶりにプロレス復帰。
経営危機が伝えられていたK-1とDREAMを主催していたFEGが2012年5月に破産[25]。FEGは選手に総額約2億円のファイトマネー未払いを抱え[26]、選手代理人のシュウ・ヒラタによれば、2011年10月時点でFEGと選手契約していた桜庭のファイトマネーは2年以上未払いだった[27]。それにも関わらず桜庭は支払いを要求することがなかったといい[28]、そればかりか同年にFEG社長だった谷川貞治がスタートした「Tany's Labo」のロゴデザインを手掛けている[29]。
新日本プロレス
2012年8月12日、桜庭は新日本プロレス主催の真夏の祭典「G1 CLIMAX」最終戦となる両国国技館大会に柴田と共に登場し、新日本に参戦することを表明した。
9月23日、DESTRUCTIONにおいて、桜庭は柴田をパートナーに井上亘 & 高橋広夢組と対戦。以降、柴田と共に新日本のビッグマッチにのみスポット参戦している。11月11日、POWER STRUGGLEの第8試合に行われたIWGPインターコンチネンタル選手権試合、中邑真輔 vs カール・アンダーソンの試合後、勝利を収めた中邑が次の挑戦者として桜庭を指名し、桜庭もこれを受諾した。
総合格闘技ジム「Laughter7」を2012年11月末にオープンから4年半で閉鎖[30]。FEGの倒産がなければ続けられたと桜庭は語っている[31]。
2013年1月4日、レッスルキングダム7 ~EVOLUTION~ IN 東京ドームのダブルメインイベントに登場、中邑の保持するIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦したが敗北を喫した。
3月17日、柴田とのタッグで永田裕志 & 中西学組と対戦し、久々に永田と相対する。試合は桜庭が中西を三角締めでギブアップ勝ちを収めた。4月7日、INVASION ATTACKにて、再び永田とタッグマッチで対戦したが、レフェリーストップ負け。さらに試合中に永田の放ったバックドロップの受け身に失敗し、「右肘関節脱臼」と診断され欠場となった。
7月20日、桜庭の地元である秋田市立体育館で復帰戦を行い、永田と初のシングルマッチで対戦、腕ひしぎ逆十字固めで永田からギブアップを奪った。
10月14日、KING OF PRO-WRESTLINGで再び永田とシングルで対戦したが、永田のバックドロップホールドで敗北を喫した。試合後永田は翌年東京ドーム大会に参戦するグレイシー一族のダニエル・グレイシー & ホーレス・グレイシーの挑戦を受けることを宣言し、桜庭もこの永田のアピールに乗っかりタッグを結成した。11月9日、POWER STRUGGLEにて、CHAOSの矢野通 & 飯塚高史組を相手に快勝を収めた。
2014年1月4日、桜庭はレッスルキングダム8 IN 東京ドームにおいて、永田とのタッグでダニエル & ホーレス組と対戦したが、ダニエルが反則負けを喫し不透明決着となった。2月11日、THE NEW BEGINNING in OSAKAにて、再びグレイシー一族と相対するも道着を使用してのチョーク攻撃をホーレスに極められギブアップ負けを喫した。
4月6日 両国大会でダニエル・グレイシーが中邑の保持するインターコンチネンタル王座に挑戦表明した際、桜庭もリングに上がり「僕もこいつらに借りがあるので」という理由で中邑とタッグを組むことを表明、中邑もこれを受諾した。
5月3日 レスリングどんたくにおいて中邑とタッグを組みホーレス、ダニエル組と対戦したものの、ホーレスの胴着によるチョーク攻撃により2度目のタップ負けを喫した。
5月25日 BACK TO THE YOKOHAMA ARENAにてホーレスグレイシーとシングルで対戦、試合中盤に桜庭は胴着を脱ぎ捨てさらにはジャーマンスープレックスなどのプロレス技を出し、サクラバロックでホーレスを捕獲、ホーレスはタップせずレフリーストップにより桜庭が勝利した。
6月8日、矢野・邪道組 vs 鈴木みのる・飯塚組の試合後に、乱入し敗れた矢野・邪道組を救出しタッグを結成した。(この時、矢野は桜庭に新作のDVDの出演を条件に出して、桜庭が考えとくという答えだったため組んだ。)それ以降、桜庭はCHAOSと共闘している。
21日、矢野とのタッグで鈴木・飯塚組と対戦したが、矢野が鈴木のゴッチ式パイルドライバーに沈み敗北した。なお、試合後は桜庭も鈴木のゴッチ式パイルドライバーを食らった。
11月8日、キドクラッチで鈴木から勝利したが試合後、鈴木が桜庭に「おい、これがオマエのやりたかったプロレスなのか、これがオマエのUWFかって聞いてんだよ!オマエのUWFにはカウント3があんのかよ!?おい!!どうなんだよ!!テメー、よえぇクセによ、コノヤロー!」と丸め込みによる勝利に喜ぶ桜庭に怒り、シングルマッチで3カウントなしの試合を要求した。さらに鈴木は、「そろそろよ、オマエ、オレと決着つけろ!パートナーなんかいらねぇんだよ!3カウントもいらねぇんだよ!オマエ、オレと勝負しろよ。やれんのか!ムリなのか、どっちだ!!テメーのプロレス出してみろオラ!!」などとまくしたて、桜庭に対し完全決着戦を突きつけた。
2015年1月4日、桜庭はレッスルキングダム9 IN 東京ドームにおいて3カウント・リングアウト勝ちなし、ギブアップ・レフェリーストップのみで勝負を決める完全決着ルールで鈴木と対決するも、レフェリーストップで鈴木に敗れ試合後に握手を求め、鈴木はこれに応じて2人で何か話したがその内容は不明である。
4月5日、矢野通と組み棚橋弘至・柴田組と対決、サクラバロックで柴田からギブアップを奪った。7月5日大阪城ホール大会で柴田との師弟対決を行うも敗れた。 2016年7月3日の岩手産業文化センターアピオ大会に出場後、新日本プロレスから離れている。
RIZIN
2015年12月29日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYSで青木真也と対戦し、TKO負け。
2016年4月17日、RIZIN.1で所英男とタッグを組みヴァンダレイ・シウバ&田村潔司組と「グラップリングダブルバウト」で対戦し、15分時間切れによるドロー。 2016年11月13日、韓国にて旗揚げする総合格闘技イベント「Apec FC」に、グラップリング及び柔術部門のアドバイザーに就任した。対戦経験のあるユン・ドンシクの依頼を受け、参加した。
2017年6月、UFC212の大会中にアジア人として初のUFC殿堂入りがUFCより発表された。パイオニア部門の受賞[32][33]。7月6日にラスベガスで開催された殿堂入り式典には紋付き袴で登場、プレゼンターはドン・フライが務めた[34][35]。
QUINTET
2018年4月11日両国国技館、プロデューサー兼選手として、グラップリングの大会QUINTET.1を開催し出場。QUINTETは、1チーム5人による抜き試合で次のルールにより優勝を争う団体戦。 ・総体重430kg ・無差別 ・絞め、関節技の一本のみ ・判定なし ・8分1本勝負 ・4分1本勝負(体重差20kg以上) ・ラッシュガード着用
人物・エピソード
- イメージカラーはオレンジ。UWFインターナショナルとキングダムで先輩だった垣原賢人からたまたま借りたオレンジ色のコスチュームが似合っていたため、以後はスパッツなどでオレンジ色を愛用している[36]。自身のジムのLaughter7のリングもオレンジ色のマットを使用している[18]。
- 元プロ野球選手の下柳剛とは親友で、プロ野球のオフシーズンには自主トレーニングに桜庭が同行するなど多方面で交流がある[37]。下柳が桜庭のセコンドに付くことも多い[38]。
- 喫煙者でもある[39]。
- 天田ヒロミは中央大学の後輩にあたる。
- 故郷に里帰りした際、母親が自分の試合を観た経験が無いことが判明した。桜庭は「自分の息子の仕事くらい憶えといてよ」と苦笑交じりに駄目出ししていた。
- あるアーティストの音楽に嵌るとそればかり聴き続けるという傾向がある。しかし何か特定の音楽ジャンルが好きというわけではなく、BOØWY、その前は石原裕次郎、さらにその前はデッド・オア・アライヴ (バンド)と多岐にわたっている。
- 海外遠征の際にDVDに録画して持って行くほど、タモリ倶楽部「空耳アワー」の愛好者。
- 生前のジャンボ鶴田とは所属団体こそ違ったものの中央大学レスリング部の先輩として、またアマレス界の大物からのプロレス入りした先駆者として、親交があったと著書に記している。
- 入場の際、試合のコンセプトに合わせたコスプレをしたり、プロレス関連の小ネタを仕込むのが定番。
戦績
総合格闘技
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グラップリング
テンプレート:Fight-start テンプレート:Fight-header テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-end
獲得タイトル
表彰
秋山のオイル塗布問題
2006年12月31日に行われた秋山成勲戦にて、タックルで足を取った際に異常を感じ、秋山への金的攻撃で試合が止まった際にレフェリーへ「滑るんですけど」とのアピールや、格闘技では異例の「タイム」要求をするも試合は止まらず、パウンドの雨を浴びる中も「滑るって!!」「ふざけんなよ!!」など、猛抗議。しかし再三に渡る抗議も虚しく試合はTKO負け(試合を止めたのは主審の梅木良則ではなく平直行審判長と前田日明の判断によるゴングにでのストップ)試合が終わったあとにようやくチェックが行われるものの、肝心の足へのチェックではなく、肩を少し撫でる程度で終えており、また、秋山自身はチェックの前にTシャツを着ているセコンド擦り付けるように抱き合っており、裁定は覆らなかった。試合後も桜庭は怒りは収まらず、舞台裏では「思いっきり抗議しますよ僕は!!」「信じられんわ!!」などと怒りをあらわにした。この試合について秋山は翌日の記者会見で「自分はひどい多汗症で、ウォームアップをすると握った手から汗が滴り落ちるほど汗が出る」と弁明。桜庭のタイム要求についても「試合中に対戦相手からタイムを要求されて「よしわかった」と攻撃を止める選手はいない」とコメント。また、試合出場時にはリングへの入場前に必ずボディチェックがされるが、この時はスタッフがイベントの流れをスムーズにさせるよう指示していたり、本人が道着を着て走って入場していたため、殆どチェックしていないことがのちに明らかとなった。
桜庭本人が自著『ぼく…』にて試合後の経緯を語っており、「グローブから常夏の甘い匂いがする」とサブレフェリーやスタッフへ嗅いでもらうよう促したが一人を除いた全員が「鼻が悪い」「タバコのにおいしかしない」と発言し、ただ一人の例外の人間も「誰にも言わないでください」と前置きしたうえで「甘い香りがする」と発言したため、桜庭は「味方は誰一人としていないんだと実感した」と語った。この試合についてはホイス・グレイシーも怒りを露わにし、セコンドにいた元阪神の下柳剛も桜庭へ賛同する。そのあと、秋山が試合前にスキンクリーム(ワセリンやグリセリンが含まれている)を塗っている様子を撮影していたテープがあり、これが証拠となって2007年1月11日、都内ホテルにて主催者による記者会見が行われた。秋山はクリームについては「乾燥肌だったから塗っていた。反則だという認識はなかった」と発言しており、FEGも「カメラの前で堂々と塗っているので悪意はなく過失である」と判断。 しかし、HERO'Sルールでは試合前にはいかなるものも体に塗布してはならないと定めているため、試合は無効試合とされ、秋山のファイトマネーは全額没収となり、FEGが主催する大会への無期限出場停止処分が下される。この試合のレフェリーである梅木良則と、ほかの審判団も処分を受けることとなった。 秋山は桜庭に対して「桜庭さんの目を見て謝りたい。そして機会があったらもう一度笑って試合をしたい」と発言したが、桜庭は後に「彼は万引きおばちゃんと一緒でしょ? その場だけ謝って終わり。だから謝らなくていい。二度と会いたくない」と語っている。
得意技
- 腕ひしぎ十字固め
- キムラロック(サクラバロック)
- グラウンド状態で相手前方から片腕をチキンウィングアームロックに取り、首に足をかけて支点を作り絞り上げる関節技。
- ゆりかもめ
- グラウンド状態で掛ける複合関節技。かけた後、自ら身体をゆりかごのように揺らすことで更なるダメージを与えることから命名。
- はずかし固め
- 正式名称は「レッグスプレッド(股裂き)」。相手は股を大きく開いて非常に恥ずかしい体勢になる。実はオリジナルはヴォルク・ハンで単なるパフォーマンスでなく、股裂きとして立派に効果がある。女子プロレスの同名技とは別もの。
- モンゴリアンチョップ
- 幸せチョップ
- ダブルチョップ。両手のシワとシワを合わせて幸せ。
- 炎のコマ
- 相手の片足を掴んでグルグル回ることによって相手の背中に摩擦によるダメージを与える。
- サクラバードキック
- 猪木アリ状態で寝ている相手を飛び越えて相手を踏みつける。
- 毒霧
- サソリ固め
メディア出演
コマーシャル
- 協和醗酵工業「スーパーレモン」
- キリンビール「ラガービール」
- オリコ「オリコカード」
- リクルート「フロム・エー」
- 東洋水産「緑のたぬき」
- トクホン「トクホンVダッシュ」
- マクセル「DVD-R」
- 宝酒造「ジパング」
- ユニクロ
- ドワンゴ「いろメロミックス」
- サミー「北斗の拳SE」
- 資生堂「uno」
- 自重堂 「Jawin」イメージビジュアル。
- 久光製薬 「アレグラFX」サクラーバ役(2013年~)
映画
- 殴者(2005年)
吹き替え
- ムタフカズ -MUTAFUKAZ-(2018年) - エルデアボロ 役[40]
テレビ
- 「39 LOVER'S」(さくらばーず)(東海テレビ)
テレビドラマ
- 佐々木夫妻の仁義なき戦い 第7話(2008年、TBS)
- 減量ボクサー(2009年、BeeTV)
パチスロ
- サクスロ(ラスター・2007年)
著書
- 『凄技 プロレスラー桜庭和志の反常識技術講座』(ベースボール・マガジン社、1999年7月) ISBN 4583040059
- 『ぼく。―桜庭和志大全集』(東邦出版、2000年4月) ISBN 4809402029
- 『格闘ボーダレス―最強を決める男たちの証言!』(ソフトガレージ、2000年5月) ISBN 4921068534
- 『桜庭和志のギミック―これが桜庭流PRIDE必勝法だ』(学習研究社、2000年12月) ISBN 4057000321
- 『さくぼん―桜庭和志公式マガジン』(ダブルクロス、2001年5月) ISBN 4898296513
- 『Comic&Document 桜庭和志』(講談社、2001年7月) ISBN 4063344355
- 『まるごと桜庭和志―ゴング格闘技1999-2001編』(日本スポーツ出版社、2001年10月) ISBN 4930943531
- 『WORKS―Special edition』(フォーブリック、2001年12月、共著) ISBN 4894616688
- 『帰ってきたぼく。』(東邦出版、2002年8月) ISBN 4809402835
- 『ぼく…。』(東邦出版、2007年6月) ISBN 4809406288
- 『独創力。』(創英社、2009年11月) ISBN 4881421883
ビデオ
- 『PRIDE GP2000桜庭和志☓ホイス・グレイシー死闘1時間47分完全収録』 (2000年6月30日メディアファクトリー・フジテレビ映像企画部ZMVZ-1108
脚注
- ↑ “魅せる格闘技”の申し子が語るおのれを体現していくための哲学 仕事を楽しむためのWebマガジンB-plus 2010年12月1日
- ↑ 、fname="kamipro130">UWFインターナショナル取締役だった鈴木健はキモとの試合は、結末が決まっており、シュートマッチ、真剣勝負ではなかったことを後に明かしている(『kamipro』No.130、エンターブレイン。鈴木健インタビュー)
- ↑ ホイス陣営、ルール変更を一方的要求 BoutReview 2000年3月13日
- ↑ PRIDE.17東京ドーム レポート&写真/桜庭、涙のドクターストップ BoutReview 2001年11月6日
- ↑ 『帰ってきたぼく。』p.152。
- ↑ 毎日放送編『情熱大陸語録 青雲編』新潮社、2002年、p.161
- ↑ 桜庭和志のTV出演情報 ORICON NEWS 2017年9月10日閲覧
- ↑ 別冊宝島編集部編『プロレスリングとカネ 裏事件史』宝島文庫、2006年、p.185
- ↑ 十年越しの対決=U という名の大河物語最終章へ 田村vs桜庭は「Uの墓標」か?(1) All About 2005年2月21日
- ↑ 日本人全滅。ミルコ完勝 BoutReview 2005年6月27日
- ↑ PRIDE 榊原代表、桜庭戦の負傷ストップ問題に関してコメント BoutReview 2005年6月27日
- ↑ 桜庭がシュートボクセに武者修行 宿敵・シウバとガチンコ・スパーリングも スポーツナビ 2005年8月19日
- ↑ 『別冊宝島1914 プロレス大暗室』宝島社、2012年、p.50
- ↑ HERO'S 桜庭移籍について榊原DSE代表「家族に裏切られた気持ち」 BoutReview 2006年5月6日
- ↑ 『ゲーテ』2006年4月号(幻冬舎)、高田延彦インタビュー。
- ↑ やっぱり主役は、“サク咲く”桜庭和志 HERO'S 公式サイト 2006年8月4日
- ↑ 桜庭和志、無念のドクターストップ! 10.9HERO'S欠場「椎骨脳底動脈血流不全」で1か月の安静が必要 スポーツナビ 2006年9月27日
- ↑ 【DREAM】10・6大会まであと3日!桜庭がYoutube「DREAMチャンネル」で参戦を発表 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年10月3日
- ↑ FieLDS Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜 対戦カード DREAM公式サイト 2009年12月31日
- ↑ 「全勝で潰してやりたいと思います」ピリピリムードの記者会見! 青木真也、川尻達也がSRCとの対抗戦に出陣だ!! DREAM公式サイト 2009年12月22日
- ↑ 【DREAM】石井慧が国内初勝利、桜庭和志は生涯初の一本負け! 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年9月25日
- ↑ 【Dynamite!!】 高谷が王座奪取!長島☆自演乙が青木をKO!石井はバンナに辛勝 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年12月31日
- ↑ 【Dynamite!!】12・31桜庭和志、座禅を組んで減量?「体が軽くなって浮いちゃいそう」 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年12月29日
- ↑ 元・総合格闘技「K-1」の運営会社、FEGが破産手続き開始 マイナビニュース 2012年5月16日 2017年9月10日閲覧
- ↑ 谷川貞治vsターザン山本「不幸で悲惨な俺たちの姿がプロレス格闘技ファンを癒す!」『別冊宝島1914 プロレス大暗室』宝島社、2012年、p.92
- ↑ MMA Link Club: The growing Nick Diaz betting bandwagon(キャッシュ) FightOpinion 2011年10月21日
- ↑ 谷川貞治vsターザン山本「不幸で悲惨な俺たちの姿がプロレス格闘技ファンを癒す!」『別冊宝島1914 プロレス大暗室』宝島社、2012年、p.96
- ↑ 「https://twitter.com/SadaharuTany/status/274944695459786752 谷川貞治Twitter] 2012年12月1日
- ↑ [1] 2013年1月25日閲覧
- ↑ 「桜庭和志&柴田勝頼」『KAMINOGE』Vol.12、東邦出版、2012年
- ↑ 桜庭和志がUFC殿堂入り、パイオニア部門で受賞 日刊スポーツ 2017年6月4日 2017年9月10日閲覧
- ↑ 【UFC】桜庭和志が日本人初の名誉の殿堂入り イーファイト 2017年6月4日 2017年9月10日閲覧
- ↑ 堀江ガンツ「桜庭和志は、プロレスファンの光だ。アジア初のUFC殿堂入りが誇らしい。」 NumberWeb 2017年7月1日 2017年9月10日閲覧
- ↑ 桜庭和志、はかま姿にマスクでUFC殿堂表彰式出席 日刊スポーツ 2017年7月7日 2017年9月10日閲覧
- ↑ 『kamipro』No.130、エンターブレイン。高山善廣、金原、ミヤマ☆仮面(垣原賢人)の対談記事。
- ↑ 桜庭、4月PRIDEで完全復活だ 阪神・下柳と目標は「20勝!」 スポーツナビ 2004年1月14日
- ↑ 桜庭のセコンドに下柳 スポーツナビ 2004年1月14日
- ↑ 桜庭がアキバで吠えた! ホイスの挑発に猛反発=Dynamite!!USA 7年ぶりの“世紀の再戦”に向け闘争心に火がついた! スポーツナビ 2007年5月21日
- ↑ “『ムタフカズ』声優陣に上坂すみれ、桜庭和志、Creepy Nuts、吉田尚記ら”. CINRA.NET. . 2018閲覧.