松前城
松前城 (北海道) | |
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別名 | 福山城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 |
独立式層塔型3重3階(1849年(嘉永2年)築 非現存) (1960年RC造外観復元) |
築城主 | 松前崇広 |
築城年 | 慶長11年(1606年) |
主な改修者 | 松前氏 |
主な城主 | 松前氏 |
廃城年 | 1875年 |
遺構 |
本丸御門、御殿玄関、石垣、土塁 堀 |
指定文化財 |
国の重要文化財(本丸御門) 国の史跡 北海道有形文化財(御殿玄関) |
再建造物 | 天守 |
位置 |
北緯41度25分49.17秒 東経140度6分30.96秒 |
地図 |
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松前城(まつまえじょう)は、北海道渡島総合振興局管内松前町にあった日本の城(平山城)。福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれる。
Contents
概要
石田城と並び日本における最後期の日本式城郭である[1]。北海道内で唯一つの日本式城郭である[2]。
戊辰戦争の最末期に旧幕府軍(元新選組の土方歳三が率いていた)との戦いにおいて落城した。天守は1949年(昭和24年)6月5日に失火により焼失した[3]。そのため、創建当時から現存する建築物は切妻造の本丸御門[2]と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)[4]および旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみである。曲輪も天守が焼失した際の火災に巻き込まれず、焼け残った古い建築物である[5]。曲輪・石垣などもよく残り、旧城地一帯が国の史跡に指定されている[6][7]。
現在は松前城とその周辺の寺町や観光施設の松前藩屋敷を含む広いエリアが松前公園として整備されており、公園には松前町発祥の貴重な松前系品種を含む250種1万本の桜が植えられており、2か月に渡り花見ができる全国屈指の桜の名所となっている[8][9]。
歴史・沿革
福山館
蠣崎家(後の松前家)が居城としていた大館より福山(現在の松前城の位置)に移り、1600年(慶長5年)から慶長11年にかけて陣屋を築いた。
後にロシア艦隊などが来航すると幕府は、1849年(嘉永2年)に北方警備を目的に、松前崇広に福山館改築(松前築城)を命じた。
築城
築城計画の際、現在地の福山ではなく、地形的に要害となりうる箱館の臥牛山(函館山)に築城するべきという意見もあったが、城下の商人が城が移転することで経済的打撃を受けて松前港は寂れてしまうとの反対意見や予算があまりないということもあって、当時の松前氏の居館であった福山館を拡張する方法で落ち着き、三の丸から本丸までを津軽海峡に向けて雛壇式に築城した。
長沼流兵学者・市川一学の縄張りにより旧福山館の拡張・改築を行い、この時に初めて3重の天守を上げ、1854年(安政元年)に竣工し、この頃から松前城と呼ばれるようになったと伝わる。海側からの艦砲射撃に備えて砲台を備え、かつ城壁の中に鉄板を仕込んでおり、城の本丸方の虎口から本丸までの通路は複雑かつ側面から鉄砲などで射撃しやすい構造とした。天守や櫓、門の屋根には、寒さで凍み割れやすい粘土瓦のかわりに銅板を葺いた。
通常、天守の壁は柱の間の竹で編んだ骨組みに壁土を塗りこむが、ロシア戦の砲撃に耐えられるように、中に硬いケヤキ板を仕込んで備えとした。
石垣の石は付近の山で採れる、比較的柔らかく加工しやすい緑色凝灰岩が使用され、緑色の石垣に覆われた全国でも珍しい城であった。北地のために石垣の奥の土が解凍の際に流れ出してしまわないよう、隙間のないように石が敷き詰められるなどの工夫がなされている。ノミで丹念に整形し、隙間なく積んだ石は亀の甲羅の模様に似ているため、亀甲積みとも言われている。ただし城の中心である福山の台地から海岸まではあまり距離がなかったので、大規模な城郭とすることはできなかった。石垣の積み方も参照。
戊辰戦争における攻防戦と落城
幕末の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。1868年(明治元年)秋、旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、官軍の拠点である五稜郭を制圧した後、11月5日には元新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。松前藩兵は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城した。
これは、旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためである。
長沼流の軍学者であった市川は、大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えとしたが、搦手方は敵は攻めてこないものとして、直線に通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備としていたのである。
これを土方に衝かれた形となってしまった。現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っている[10]。
しかし、翌1869年(明治2年)に榎本らの政権は降伏し、再び松前城は松前氏の領有となり、1871年(明治4年)の廃藩置県の施行により城は明治政府の領有となった。1875年(明治8年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊された。
そして、松前城の石垣を再利用して松前波止場と呼ばれている岸壁が整備された[11]。#松前港福山波止場を参照。
昭和年間
1941年(昭和16年)に天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づき当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。
1949年(昭和24年)6月5日5日午前1時10分頃、城跡にあった松前町役場の当直室から出火から[3]、飛び火して天守と本丸御門東塀を焼失した[3]。当時の毎日新聞によると出火原因は宿直の町職員が電灯に毛布をかぶせてコタツ代わりにしたものが過熱したものとみられるという。損害は松前城だけで当時の金額で2000万円と推定されている[12]。
旧国宝の本丸御門は、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行後は重要文化財に指定されている[2][13]。
1953年(昭和28年)に松前駅まで開通した国鉄松前線の松前トンネルが敷地の下を通っていたが、JRへの民営化後の1988年(昭和63年)に松前線が廃止され、トンネルも封鎖されている。
1959年(昭和34年)7月から天守焼け跡の敷地の整理が行われて[14]同年8月から本格的に再建工事開始[15][16]。
1960年(昭和35年)9月に外観工事が完成[17]。その後、第2期工事などが行われて1961年(昭和36年)5月16日に落成した[18]。この復元工事の完成に伴う式典には松前家子孫も来町し、松前の旧城下町で大名行列が行われた[19]。
平成年間
1991年(平成3年)、「松前藩史」にある、売却して士の窮乏を救ったとされていた銅瓦の破片と推測される金属片が福山城跡の東角付近から出土し、その記述の裏付けになると注目された[20]。
1992年(平成4年)の発掘では外堀の発掘が行われ、三の丸の下部に約180年前の石垣がそのまま残っていることが確認された[21]。
1994年(平成6年)の発掘では松前城搦手御門跡の発掘が行われて約120年前の石垣の根石が確認され、本丸しのぐ幅27メートルの大規模のものであったと考えられるようになった[22]。
1995年(平成7年)の発掘では福山城太鼓櫓跡の発掘が行われると共に、福山城の5番台場と6番台場の位置や規模を確認する発掘調査が行われた[23]。
1996年(平成8年)の発掘では番所跡の発掘が行われ、その位置や規模を確認が行われた[24]。
2001年(平成13年)には北海道遺産(「福山城と寺町」)に選定された[1]。
2005年(平成17年)に松前町神明の山中で松前城石切り場跡が発見され[25]、2007年(平成19年)に15カ所の作業跡や「矢穴」が確認された[26]。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(3番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
文化財
本丸御門
1941年(昭和16年)、国宝保存法の国宝に指定。
1950年(昭和25年)の文化財保護法施行後、国の重要文化財に指定。
本丸表御殿玄関
本丸御門、天守とともに残存していた旧表御殿は、1875年開校の松城小学校校舎として利用されたが、1900年の新校舎建設に伴って取り壊された。しかし、玄関のみは新校舎に取り付けられて引き続き利用されることとなった。1982年、校舎新築に伴って玄関部分は曳家して城内に保存されることとなった[27]。
1983年(昭和38年)7月26日、北海道の有形文化財に指定[28]。
非現存の文化財(旧国宝)
本丸御門東塀
本丸御門の東側に続く土塀で、長さは59尺、狭間5箇所、屋根は銅板葺であった。
1941年(昭和16年)、国宝保存法の国宝に指定された。
1949年(昭和24年)6月5日の役場火災の類焼によって焼失し、指定解除となった。
天守
天守は本丸南東隅に上げられ、三重三階の層塔型で、築城当時は「三重御櫓」と称されていた。約10間四方の櫓台を築き、その上に犬走のように余地を残して建てられていた。各階の大きさは以下の寸法概要のとおりであるが、各階の高さについては判明しない。[29]
1941年(昭和16年)、国宝保存法の国宝に指定。
1949年(昭和24年)6月5日の役場火災の類焼によって焼失し、指定解除となった。
外観
最上重屋根の入母屋破風以外には破風はなく、各階外壁には2条の長押形を施し、軒裏は白木造りで、屋根は銅板葺であった。[30]
内部
1・2階は中央に身舎、外側に入側をまわし、3階は間仕切りのない構造。外に面する壁の内側には、防弾のため厚さ約60ミリメートルの欅板を張ってあった。[30]
階層
(内部階) |
梁間
(南北) |
桁行
(東西) |
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---|---|---|---|
3階 | 21尺 | 27尺 | |
2階 | 30尺 | 36尺 | |
1階 | 39尺 | 45尺 | |
総高
(櫓台上から棟) |
5丈4尺6寸 | ||
出典 | 『復原『名城天守』』[29] | 1935年当時の松前城天守 |
整備事業
天守の復興
1949年(昭和24年)6月5日焼失の約10年後、1959年(昭和34年)8月から再建工事を着工し、1961年(昭和36年)5月16日に竣工。基本構造は鉄筋コンクリート構造によって、外観は焼失前の姿をできる限り忠実に再現した。内部は松前城資料館として利用されることとなった[31]。
2010年(平成22年)からは天守閣の本格的な復元を検討することになり[2]、同年5月に松前城整備審議会が発足して論議を本格化させた[32]。
2011年(平成23年)の耐震診断で鉄筋コンクリート造の復興天守閣が「国の耐震基準を下回っていて震度6で倒壊の恐れがある」とされたため、補強か復元かの判断を迫られることになった[33]。
復元整備
1991年以降の発掘調査や古い写真などを基にして[6]築城当時と同じ石材で南東部を復元する工事が進められた[34]。
2000年(平成12年)に外堀に架かる木橋と石橋[35]のほか、搦手口には高麗門形式の「搦手二ノ門」が木造復元によって再建[36]。
2002年(平成14年)に「天神坂門」が復元された[37]。
城下町の整備
1992年(平成4年)9月に松前町松城のバス待合所が商家の土蔵風に改装される[38]など北海道道松前港線の拡幅工事に伴う旧城下町地区の再整備事業においては[39]、町屋造りで商店街の建物の外観を統一し[39]、「最北の城下町」や「小京都」と呼ばれた町並みの再興を目指した[40]。
北海道道松前港線は2006年(平成18年)の「沖口広場」の完成と共に「城下通り」と命名された[41]。
行事
松前城址を中心とする約15万m2の松前公園には約250種・8000本の桜が植えられており、毎年春の「松前さくらまつり」には20万人以上の花見客が来訪している[42]。
1984年(昭和59年)からは8月に「松前城下時代まつり」が開催されている[43]。
松前港福山波止場
1875年(明治8年)、商人の栖原小右衛門は資金を集め松前城の解体石材を再利用して船着き場を建設した[44]。1892年(明治25年)にセメントを用いた大規模改修が行われ、戦後、現在の松前港が整備され役割を終えるまで船着き場として利用された[44]。松前城の石垣を再利用した築造であり近代土木技術の遺構として高く評価され、2014年度(平成26年度)には土木学会によって「土木学会選奨土木遺産」に認定された[44]。
立地
- 所在地
- 北海道松前郡松前町字松城144
- アクセス
- 北海道新幹線「木古内」駅から函館バス「松前行き」で約1時間29分「松城」下車、徒歩約10分
脚注
- ↑ 1.0 1.1 “次世代へ 北海道遺産 18 福山城(松前城)と寺町=渡島管内松前町 桜似合う最後の和式城郭”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2003年2月9日)
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 “道内唯一の日本式城郭 松前城天守閣 復元を検討 松前町 可能性審議し年内結論”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2010年3月3日)
- ↑ 3.0 3.1 3.2 “国宝松前城全焼す”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1949年6月6日)
- ↑ “道南文化財巡り 25 福山城本丸御門と銀板写真(松前町) 黒船来航の時を刻む”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2007年9月28日)
- ↑ “国宝松前城炎上余聞”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1949年6月26日)
- ↑ 6.0 6.1 “21世紀の道南へ 第5部 建造物・史跡 6 松前城 古い写真基に復元進む”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2000年10月23日)
- ↑ 松前氏城跡 福山城跡・館城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ↑ 浅利政俊さんが「桜守」に Hakodate.com 2005年4月26日
- ↑ “日本一のお花見”が楽しめる場所は北海道にある 桜と共に歴史を重ねる、松前町のあゆみ 松前町 2017年5月29日
- ↑ “お気に入り 松前城の石垣=松前町 激動を物語る砲弾跡”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2014年1月27日)
- ↑ “土木遺産を訪ねて 6 松前波止場(松前町) 明治期商人の熱意結実”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2004年8月10日)
- ↑ 昭和毎日:昭和24年6月5日 国宝・松前城燃える 毎日jp(毎日新聞)(2009年6月)
- ↑ 福山城(松前城)本丸御門 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ↑ “出るのは石ばかり 松前城再建 関係者もうなる”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1959年7月27日)
- ↑ “六月十日に入札 松前城再建、着工は八月”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1959年5月29日)
- ↑ “来月から外部工事へ 松前城再建、順調に進む”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1959年9月9日)
- ↑ “夜空に浮かぶ“夢の城” 松前城 白壁もくっきりと 天守閣完成 待望の照明テスト”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1960年9月12日)
- ↑ “人波に埋まる松前城 盛大に落成式行う”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1961年5月16日)
- ↑ “松前町はお祝い一色 城落成記念行事で 松前家子孫も来町 ザッと3000からの人出”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1961年5月17日)
- ↑ “松前の福山城跡で出土の3片、幻の銅瓦か-「売却し藩士の窮乏救う」。藩史裏付ける資料”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1991年12月18日)
- ↑ “松前城の外堀発掘-180年ぶりに三の丸の一部”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1992年8月14日)
- ↑ “松前城搦手御門を発掘 本丸しのぐ幅27メートル規模”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1994年11月18日)
- ↑ “福山城遺構確認調査 5、6番台場に着手 場所特定し規模を把握”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1995年6月30日)
- ↑ “追手門、番所の規模確認 松前城の本年度発掘終了”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1996年10月24日)
- ↑ “石切り場跡 遺構調査 昨年発見 城の歴史解明に期待 松前町教委 分布図を作成、発掘も”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2006年6月13日)
- ↑ “松前城石切り場跡 作業跡15カ所 「矢穴」も確認 14日 小学生以上対象に見学会”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2007年7月11日)
- ↑ “文化遺産オンライン「旧松前城本丸表御殿玄関」”. 文化庁. . 2017閲覧.
- ↑ “北海道指定の文化財一覧”. 北海道教育委員会. . 2017閲覧.
- ↑ 29.0 29.1 西ヶ谷恭弘監修 『復原『名城天守』』 学習研究社編、学習研究社、1996年。
- ↑ 30.0 30.1 学習研究社編 『【決定版】図説 国宝の城』 学習研究社、2010年。
- ↑ “松前城天守閣、入場200万人達成いつでしょう?”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1993年4月16日)
- ↑ “松前城整備審が発足 天守閣復元へ本格論議”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2010年5月21日)
- ↑ “築50年・松前城天守閣 震度6で倒壊の恐れ 国の耐震基準下回る 補強か復元か 町、来年にも判断”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2011年10月28日)
- ↑ “復元 松前城の工事進む 南東部を4年計画 当時と同じ石材で”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1999年11月17日)
- ↑ “きのう今日あす 地方版から”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2000年4月25日)
- ↑ “築城時の威容「復元」 松前搦手二ノ門”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2000年12月8日)
- ↑ “江戸の趣 松前城復元 小ぶりでも城門きりり”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2002年12月18日)
- ↑ “こだま 松城バス待合所が商家の土蔵風に改装、オープン”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1992年9月26日)
- ↑ 39.0 39.1 “どうなんリポート いよいよ出現…松前の商店街整備事業 幕藩の装い“復活” 06年度完成予定 活性化に期待”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2004年6月27日)
- ↑ “発信2006 最北の城下町 松前城400年 上 復元 「小京都」再興へ息長く”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2006年6月27日)
- ↑ “松前城 築城400年 「沖口広場」が完成 道道松前港線 名称「城下通り」に”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2006年4月25日)
- ↑ “乱れ咲き”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1987年4月30日)
- ↑ “武者行列が行く 初の松前城下時代まつり”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1984年8月12日)
- ↑ 44.0 44.1 44.2 “松前港福山波止場、選奨土木遺産に 城の石垣再利用を評価”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2014年12月5日)