東ティモール

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東ティモール民主共和国
Republika Demokratika Timor Lorosa'e (テトゥン語)
República Democrática de Timor-Leste (ポルトガル語)
国の標語:Unidade, Acção, Progresso
(ポルトガル語: 統一、行動、前進)
公用語 テトゥン語ポルトガル語
首都 ディリ[1]
最大の都市 ディリ

面積

総計 15,007km2154位
水面積率 極僅か

人口

総計(2008年 1,133,000人(153位
人口密度 68人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2013年 61億4,700万[2]アメリカ合衆国ドル
GDP (MER)

合計(2013年 61億4,700万[2]ドル(147位
GDP (PPP)

合計(2013年258億[2]ドル(118位
1人あたり 21,705[2]ドル
独立
 - 宣言
 - 主権回復(事実上の独立)
ポルトガルより
1975年11月28日
インドネシアより
2002年5月20日[1]
通貨 アメリカ合衆国ドル (USD)
時間帯 UTC (+9)(DST:なし)
ISO 3166-1 TL / TLS
ccTLD .tl
国際電話番号 670

註1: かつては.TP

東ティモール民主共和国(ひがしティモールみんしゅきょうわこく)、通称東ティモールは、アジア東南アジア)地域に位置する共和制国家1999年8月30日国連の主導で独立についての住民投票を実施。 インドネシアの占領から2002年5月20日独立した[1]国際法上はポルトガルより独立)。21世紀最初の独立国である。ポルトガル語諸国共同体加盟国。

島国であり、小スンダ列島にあるティモール島の東半分とアタウロ島ジャコ島飛地オエクシで構成されている。南方には、ティモール海を挟んでオーストラリアがあり、それ以外はインドネシア領東ヌサ・トゥンガラ州西ティモールを含む)である。

国名

正式名称は、Republika Demokratika Timor Lorosa'eテトゥン語: レプブリカ・デモクラティカ・ティモール・ロロサエ)、República Democrática de Timor-Lesteポルトガル語:レプーブリカ・デモクラーティカ・ド・ティモール・レスト)。略称は、Timor Lorosa'eテトゥン語)、Timor-Lesteポルトガル語)。

公式の英語表記は、Democratic Republic of Timor-Leste、略称は、East Timor

日本語の表記は、東ティモール民主共和国。通称、東ティモール。ティモールの部分は、チモールとも表記される(近年では“ティモール”の表記が一般的である)。ちなみに、現地の発音は、「ティ」と「チ」の中間音。

国名は、「ティモール島の東部」という意味である。「ティムール (timur)」は、マレー語インドネシア語で「東」を意味する。テトゥン語の「ロロ」は「太陽」、「サエ」は「出る」、「ロロサエ」は「日の出」またはその方角(すなわち「東」)を意味する。ポルトガル語の「レステ」も「東」を意味する。

歴史

成立

ポルトガルの植民地になるはるか昔、紀元前2000年ごろパプア系語族が島の東部へ移住していき、ずっと時代が下って紀元10世紀ごろオーストロネシア語族が流入してきた、と伝えられている。さらに紀元前3000年ごろと同2000年頃の二度に渡って、インド=マレー系エスニックグループが移住してきたとの説もある。[3]

ポルトガル植民地

ティモール島は16世紀ポルトガルによって植民地化された。その後オランダが進出し、一時はポルトガルがこれを撃退したが、1859年西ティモールオランダ領として割譲し、ティモール島は東西に分割された(リスボン条約Deutsch版)。1904年ポルトガル=オランダ条約(1908年批准)で国境を直線的分断し、1913年[4](または1914年[5])に確定した。

1911年から翌年にかけて収奪の厳しさに耐えかねてリウライ(マヌファヒ小国王)のドン・ドンボアベントゥラが反乱を起こした。戦死者3424人、負傷者1万2567人を出した。さらに、1959年にピケケ県知事誘拐・蜂起事件が亡命インドネシア人と東ティモール人らによって引き起こされた。150人の死者が出たとの説もある。[6]

ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、当初はオランダ軍とオーストラリア軍が保護占領し、ティモール島の戦いEnglish版の後オランダ領東インド地域と合わせて日本軍が占領したが、日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活し、1949年インドネシアの一部として西ティモールの独立が確定した後もポルトガルによる支配が継続した。これに対し、人口の中で圧倒的多数を占める地元住民は独立志向を強めたが、アントニオ・サラザール首相などの「エスタド・ノヴォ体制」により抑圧された。

1974年にポルトガルで左派を中心としたカーネーション革命が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも独立への動きが加速し、反植民地主義のティモール社会民主協会(ASDT、9月に東ティモール独立革命戦線FRETILIN(フレティリン)と改称)が即時完全独立を要求[注釈 1]、ポルトガルとの関係維持のティモール民主同盟 (UDT)[注釈 2]、インドネシアとの統合を主張するアポデディ[注釈 3]の三つが政党として旗揚げした[7]。この動きは、東ティモールの領有権を主張し、反共主義を国是とするインドネシアのスハルト政権にとっては容認できず、反フレティリンの右派勢力を通じた介入を強化した。

インドネシアによる占領

ファイル:East Timor Demo.jpg
インドネシアからの独立デモ

1975年11月28日、右派勢力と連携したインドネシア軍が西ティモールから侵攻を開始する中、フレティリンが首都ディリで東ティモール民主共和国の独立宣言を行う。11月29日、インドネシア軍が東ティモール全土を制圧し、併合を承認する「バリボ宣言」(国連はこれを認めず)。12月7日、東ティモールに対する全面侵攻「スロジャ作戦」を開始。12月12日、国連安全保障理事会総会が、インドネシアの即時撤退を求める決議可決。1976年、インドネシアが27番目の州として併合宣言を行った。国連総会ではこの侵攻と占領を非難する決議が直ちに採択されたが、など西側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認した。

1977年 インドネシア軍が包囲殲滅作戦を展開。スハルト政権は東ティモールの抵抗に対し激しい弾圧を加えたため、特に占領直後から1980年代までに多くの人々が殺戮や飢餓により命を落とした。インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われている。1991年、平和的なデモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、400人近くを殺したサンタクルス事件は、住民の大量殺戮事件として世界的に知られることになった。また、官吏や教員などを派遣して徹底した「インドネシア化」も推進した。フレティリンの軍事部門であるファリンテルは民族抵抗革命評議会 (CRRN) の主要メンバーとなり、シャナナ・グスマンが議長になったが、インドネシア政府はグスマンを逮捕し、抵抗運動を抑え込んだ。1996年12月、ノーベル平和賞が現地カトリック教会のベロ司教及び独立運動家のジョゼ・ラモス=オルタに贈られた。

1998年にインドネシアでの民主化運動でスハルト政権が崩壊すると、後任のハビビ大統領は東ティモールに関し特別自治権の付与を問う住民投票を実施する事で旧宗主国のポルトガルと同意した。

国連の暫定統治と独立後の平和構築活動

1999年5月、インドネシア、ポルトガルと国連、東ティモールの住民投票実施の枠組みに関する合意文書に調印(ニューヨーク合意)。6月、国際連合東ティモール・ミッション(UNAMET)が派遣される。8月30日、独立に関する住民投票が行われた(投票率98.6%)。9月4日に発表された投票結果では、自治拒否78.5%で、特別自治権提案が拒否された事で独立が事実上決定。9月7日、インドネシア治安当局は、東ティモールに非常事態宣言を発令し国軍5,500人を増兵しインドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使って破壊と虐殺を行う。9月12日、インドネシアが、国連平和維持軍の受け入れを容認し、オーストラリア軍を主力とする多国籍軍東ティモール国際軍,INTERFET)が派遣された(東ティモール紛争)。その結果、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られたりした。10月には、国際連合東ティモール暫定行政機構 (UNTAET) が設立、2002年の独立まで率いた。

その後の制憲議会選挙ではフレティリンが圧勝し、大統領にはシャナナ・グスマン、首相にはマリ・アルカティリが選出され、2002年5月20日に独立式典を行った。独立後、国連は国際連合東ティモール支援団 (UNMISET) を設立、独立後の国造りの支援を行った。この中で、日本の自衛隊国連平和維持活動 (PKO) として派遣され、国連と協力して活動を行った。2005年には、国連の平和構築ミッション、UNOTIL(国連東ティモール事務所)が設立された。

独立後の混乱

2006年4月に西部出身の軍人約600人が昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして待遇改善と差別の廃止を求め抗議し、ストライキを起こしたが、政府はストライキ参加者全員を解雇した(国軍は2000人ほどしかいない)。これを不服とした参加者側が5月下旬に蜂起、国軍との間で戦闘が勃発した。ところが、鎮圧に赴いた警察や国軍の一部がスト参加者に同調して反旗を翻し、警察署を襲撃して死者が出たため、怯えた警察官が職務放棄。また若者を中心に暴徒化してディリは混乱した。治安維持が不可能となった政府は5月24日にオーストラリア・マレーシアニュージーランドポルトガルに治安維持軍の派遣を要請し、翌日には東ティモールへの利権を確保することを意図したオーストラリア軍が早速展開し、その後4カ国による治安維持が行われた。

この背景として東部住民と西部住民の軋轢や、若者の失業率の高さが挙げられている。また、アルカティリ首相の独善的姿勢や国連の活動終了が早すぎた可能性も指摘されている。

オーストラリア軍は反乱軍を指揮する少佐と接触し、少佐の武装解除命令によって6月半ばに蜂起は終結したが、暴徒の方は反政府デモとなり、グスマン大統領の忠告によって、アルカティリ首相は辞任に追い込まれた。ディリは半ば戦場と化し、住民のほとんどは難民となって郊外へ脱出した。治安維持軍によって年内に暴動は鎮圧されたが、オーストラリア政府の支援による警察の再建など、治安の回復には時間がかかると思われる。

暴動を受け、同年8月には国際連合東ティモール統合ミッション (UN Integrated Mission in Timor-Leste:UNMIT) が設立。平和構築ミッションから、再び、平和維持活動へと逆戻りした。

2007年1月13日フランスと共に東南アジア友好協力条約 (TAC) に締結した。この条約は東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟と東アジアサミット参加への条件とされており、締結国間の主権尊重と内政不干渉、紛争の平和的解決を謳うものである。東ティモールは2007年内のASEAN加盟を目指していたが、国内事情の混乱もあって実現しなかった。その後、2011年にASEAN加盟を申請して、2017年時点でも交渉中である[8]

2007年8月8日、与党フレティリンが下野し、グスマン連立政権発足の前後より、フレティリンの熱狂的な支持者が暴徒化し、首都ディリなどで民家などへの放火や投石が多発している。また、8月10日には、東部のバウカウ県では、幸い負傷者はなかったが、国連平和維持活動に携わる国連警察の車列が、発砲を受け車両1台が燃やされた。ビケケ県では子供1人が暴動に巻き込まれ死亡。数日の間に100名以上の逮捕者が出た。バウカウ・ビケケ両県は、フレティリン支持者が多い。8月12日には、国連警察、東ティモール警察、多国籍治安部隊(主に豪軍)、東ティモール国軍により暴動は沈静化した。

2008年2月11日、ラモス=オルタ大統領やグスマン首相が2006年の国軍反乱以降に反政府勢力となったアルフレド・レイナドEnglish版少佐指揮の武装集団に襲撃された。この際にレイナドは死亡し、ラモス=オルタは重傷を負ったがオーストラリアの病院での治療により一命を取り留めた。ラモス=オルタ大統領は4月17日に職務に復帰し、襲撃事件に伴う非常事態令も5月8日に解除された。国連によるUNMITは2009年も延長されたが、同年3月には国家警察への権限移譲が開始され、混乱は徐々に収束しつつある[9]

この一連の独立に至る記録が、2013年にユネスコ記憶遺産に登録された[10]

政治

国家元首大統領は、主として象徴的な役割を果たすにすぎないが、立法に対する拒否権をもつ。国民の選挙によって選ばれ、任期は5年。行政府の長である首相は、議会での選出後、大統領が任命する。現在は第3代大統領のタウル・マタン・ルアクが1期目を務めている。

立法府は、一院制国民議会で、定数は、52以上65以下の範囲で法律によって定められる。現在は65。

ただし、第1期のみは特例として88議席。議員は、国民の選挙によって選出され、任期は5年。2007年6月30日に行われた選挙では、東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が21議席、東ティモール再建国民会議 (CNRT) が18議席、ティモール社会民主連合と社会民主党の統一連合が11議席、民主党が8議席、他に3つの政党・統一連合が計7議席を獲得し、東ティモール再建国民会議を中心とする反フレティリン連立政権樹立が合意された。東ティモールの政党も参照のこと。

独立後のフレティリンは左派色を薄め、資本主義国との関係を重視している。独立直後の2002年7月にはポルトガル語諸国共同体に加盟している。また、インドネシアとの外交関係の安定も志向し、東南アジア諸国連合 (ASEAN) へのオブザーバー資格獲得や正式加盟も模索しているが、独立戦争以来の諸問題の解決が多く残り、経済的な格差も大きいため、まだ正式な加盟交渉には至っていない。

2006年6月23日、シャナナ・グスマン大統領から辞任を求められていたアルカティリ首相が辞任を表明した。26日、アルカティリ首相は、グスマン大統領に正式に辞表を提出、受理された。首相が首都ディリ市内の公邸で辞任表明を読み上げると、市民は歓迎し、騒乱の収拾・事態正常化への期待を高めた。7月8日、グスマン大統領は、前首相の後任にノーベル平和賞受賞者のジョゼ・ラモス=オルタ前外相兼国防相を任命した。前首相の与党のフレティリンが推したダ・シルバ農相を第一副首相に、デ・アラウジョ保健相を第二副首相に起用する。

2006年7月14日、オルタ内閣の就任宣誓式が、首都ディリで行われ、同内閣が正式に発足した。14閣僚のうち6人が新任で、残りの6人は前内閣からの再任である。国防相は、オルタ首相自身が務める。オルタ首相の任期は来年5月の総選挙まで。オルタ首相は施政方針演説で、アジアの最貧国である東ティモールの経済をインフラ建設などを通じ底上げし、復興を目指すと表明した。

2007年4月9日東ティモール大統領選挙が行われた。これは、2002年独立以後初めての国政選挙となった。登録有権者数は約52万人。独立運動指導者でノーベル平和賞受賞者のラモス・オルタ首相(シャナナ・グスマン大統領(当時)に支持されている)、旧与党・東ティモール独立革命戦線(フレティリン)のフランシスコ・グテレス(通称ル・オロ)国会議長、野党・民主党のフェルナンド・ラマサ党首ら8人が立候補したが、4月18日、選挙管理委員会は過半数を得た候補がいなかったとして、1位のグテレスと2位のオルタ両候補による決選投票を実施すると発表した。得票率はそれぞれ27.89%、21.81%で、投票率は81.79%だった。5月9日、決選投票が行われ、即日開票作業が行われた。そして、ラモス・オルタが制し、5月20日に第2代大統領に就任した。

2007年6月30日に行われた議会選挙では、グスマン党首率いる東ティモール再建国民会議 (CNRT) が18議席を獲得し、議会第2党に躍進。東ティモール独立革命戦線は、かろうじて第1党であったが、65議席中21議席と大幅に議席を減らした。これは前大統領シャナナ・グスマンがCNRTを結成して選挙に挑んだからにほかならない。ラモス・オルタ大統領は、与野党による挙国一致内閣を目指したが、フレティリンのマリ・アルカティリ書記長は、これに異を唱えた。一旦はその考えを受け入れたが、CNRT率いる野党連合とフレティリンは、何週間も論争を繰り返したが合意には至らなかった。これにより、ラモス・オルタ大統領は、反フレティリン野党連合(37議席)による連立政権を組閣することを決断。8月6日にグスマン党首を首相に指名し組閣を指示、8月8日にグスマンは首相に就任した。これに対して、首相は第1党から出すと定めた東ティモールの憲法に違反するとして、アルカティリが法的手段で闘うと述べ、首相就任宣誓式出席をボイコット、フレティリンはラモス・オルタ大統領の決定を非難した。そのうえ、議長もフレティリンではなく、連立を組んだ民主党のアラウジョ党首が就任した。しかし、連立政権は反フレティリンで一致しているだけで、初代大統領として国の混乱を招いた責任は免れないというグスマンへの個人批判を述べるものもいるという側面もある。連立政権はCNRT、社会民主党、民主党等4党。副首相にグテレス。外相に社会民主党幹部のダコスタ。なお、グテレスはフレティリン反主流派。議会選挙では「フレティリン改革派」を組織し、CNRT支援に回った。

地方行政

全13県。国土の北部沿岸を中心とするディリ地方、島の東端部のバウカウ地方、国土の中央部のサメ地方、インドネシアとの境界線付近のマリアナ地方、飛び地であるオエクシ地方に大きくグループ分けされる。

ディリ地方
ディリ県 - (ディリ)
マナトゥト県 - (マナトゥトEnglish版)
リキシャ県 - (リキシャEnglish版)
バウカウ地方
バウカウ県 - (バウカウEnglish版)
ヴィケケ県 - (ヴィケケEnglish版)
ラウテン県 - (ロスパロス)
サメ地方
アイナロ県 - (アイナロEnglish版)
アイレウ県 - (アイレウEnglish版)
マヌファヒ県 - (サメEnglish版)
マリアナ地方
エルメラ県 - (グレノEnglish版)
コバリマ県 - (スアイEnglish版)
ボボナロ県 - (マリアナ)
オエクシ地方
オエクシ県 - (パンテ・マカッサルEnglish版) 飛び地

地理と自然

東ティモールは環太平洋火山帯(環太平洋造山帯)の一部で小スンダ列島に属するティモール島の東部に位置しており、全土の約6割は山岳地帯となっている。最高峰は2,963mのタタマイラウ山(ラメラウ山)。高温多湿の熱帯性気候下だが、乾季雨季の区別がある。動植物の固有種が多数存在し、北部海岸にはサンゴ礁が発達している。

対外関係と軍事

独立して日が浅い小国であるため、隣国インドネシアをはじめとする東南アジア諸国、オーストラリアのほか、この地域に大きな影響力を持つ日本、中国アメリカ合衆国との良好な関係を築き、国家としての存立と発展を目指している。ASEAN加盟は2017年時点で実現していないが、アラウジョ首相は「我々は準備ができている」「ポルトガル語諸国共同体の議長国として多くの国際会議を主催した」として、早期加盟を目指す方針を示している[11]

独立直後は日本からの政府開発援助(ODA)が大きな役割を果たしたが、近年は中国が経済支援やインフラ整備で急速に存在感を増している[12]。対中接近の背景には、経済を支えるティモール海の既存油田が数年内に枯渇するとの危機感がある。2016年には中国海軍艦艇が初めて首都ディリに寄港した[13]

オーストラリアとは後述のように、ティモール海の資源権益を巡る紛争を抱える。

2001年に東ティモール国防軍English版を創設しており、陸軍(兵力1250人)と海軍(兵力80人)を保有する[14]

経済

通貨に関してはアメリカドルによる通貨代替English版(ドラリゼーション)が行われているが、補助通貨としてセンタボという単位の硬貨が流通している。

IMFによると、2013年GDPは61億ドル。一人当たりのGDPは5,177ドルでインドネシアの1.5倍ほどであり、東南アジアではタイに次ぐ水準である。[2] 2011年アジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は77万人と推定されており、国民の過半数を占めている[15]国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に分類されている[16]

ファイル:East Timor Export Treemap 2010.png
色と面積で示した東ティモールの輸出品目(2010年)

ポルトガル領時代は、アンゴラモザンビーク等の他の植民地同様、工業化が全く進まず、自給自足的な農業に依存した貧困状態だった。インドネシアによる統治が始まると社会資本の整備が緩やかに進んだが、1999年の住民投票で独立支持派が勝利するとインドネシア併合維持派の民兵が首都ディリを破壊し、経済は壊滅状態に陥った。しかし、2006年の混乱後は経済成長が始まり、2007年から2011年にかけては平均12.1%にも達する高いGDP成長率を記録した[9]。一方で、このGDPの伸びの大半は石油収入によるものであり、経済の多角化を図ることが目標とされている[9][17]

石油・天然ガスによる収入は2011年時点で実にGDPの8割に達しており[9]、IMFは東ティモールの経済を「世界で最も石油収入に依存した経済」と評している[17]。石油以外の主要産業は農業で、米やトウモロコシ、コーヒー豆などが生産されている[9]。コーヒーはフェアトレード商品として人気がある。かつての独立闘争の影響が残り、米やトウモロコシの主食は近隣諸国からの輸入に依存している。

ファイル:Timor Gap map.PNG
ティモール・ギャップ。赤色の海域が東ティモールの領域、黄色の海域がオーストラリアの領域、ピンク色の海域が共有領域である。

石油は南方のティモール海の海底油田より産出されている。隣国で、東ティモールへの影響力を獲得しようとしているオーストラリアとの境界線確定が課題だが、東ティモール側はインドネシア政府が結んだ境界線の見直しを求め、交渉は難航している。しかし、確定とは別に両国共同石油開発エリア (JPDA:Joint Petroleum Development Area) を定め (Timor Gap Treaty, Sunrise International Unitization Agreement, Timor Sea Treaty)、収入の90%を東ティモールに、10%をオーストラリアに渡すこととなった。2007年からは原油採掘に伴う税収やロイヤルティー収入が計上され (Treaty on Certain Maritime Arrangements in the Timor Sea)、その収入を集約するために東ティモール政府が設立した「石油基金」(2010年末時点で約69億ドル[18])を利用した国家予算が計上できるようになっている。最初の事業はグレーターサンライズ・ガス田開発である。

また、2009年3月にはグスマン首相が日本を訪問し、日本の麻生太郎首相との間で「日本と東ティモールとの間の共同プレスステートメント」を発表した。その中で日本は無償資金援助を東ティモールに対して行い、東ティモールの円滑なASEAN加盟を支援する事を表明した[19]

国民

民族

住民はメラネシア人が大部分である。その他華僑客家)、印僑インド系移民)、ハーフカストポルトガル人とメラネシア人の混血)、ごく少数のカーボベルデなどアフリカ系の移民などが存在する。

ファイル:Sprachen Osttimors-en.png
東ティモールの言語分布

言語

言語はテトゥン語ポルトガル語公用語である[20]。現在は、マカサエ語English版ファタルク語English版などのパプア諸語トランスニューギニア語族)とテトゥン語やマンバイ語English版などのオーストロネシア語族が中心に話されている[21]。 その他、インドネシア統治期に教育を受けた30-40歳代を中心にインドネシア語が使われている。現在は世代間で使用できる言語が異なっている事が問題となっている[19]。東ティモールは独立時の2002年からポルトガル語諸国共同体CPLP)に加盟している。

宗教

ファイル:キリスト像.JPG
ディリ郊外ファツカマ岬のキリスト像

キリスト教の信徒が国民の99.1%を占めており、アジアではフィリピンと並びキリスト教信仰が盛んな国である。キリスト教徒の大半はローマ・カトリックに属し、それ以外はプロテスタント諸派に属している。キリスト教以外の宗教の信徒の構成比は、イスラム教が0.7%、その他ヒンドゥー教仏教アニミズムなどとなっている。インドネシア統治時代の1992年推計ではイスラム教徒が人口の4%を占めていたとされるが、独立によりインドネシア政府の公務員などが東ティモールから退去し、イスラム教徒の比率は大幅に低下した。一方、独立運動を精神面で支え続けたカトリック教会への信頼は高まった。

文化

ファイル:Man in traditional dress, East Timor.jpg
伝統的な衣装に身を包んだ東ティモールの男性

音楽


祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日    
3月〜4月 聖金曜日   イースター前の金曜日
3月〜4月 イースター   移動祝日
5月20日 独立記念日   2002年
8月15日 聖母被昇天祭    
8月30日 住民投票記念日   1999年
9月20日 解放記念日   1999年のINTERFET(国連平和維持活動隊)による解放を記念
11月1日 諸聖人の日    
11月12日 サンタクルス記念日   サンタクルス事件の日
12月8日 無原罪の御宿り    
12月25日 クリスマス    

スポーツ

ポルトガルやインドネシアの統治を受けた歴史的経緯から、サッカーが盛んである。国際サッカー連盟(FIFA)は東ティモール国内に1万5500人のサッカー選手がおり(うち登録選手は500人)、10の国内クラブが存在するとしている[22]。東ティモールサッカー連盟(FFTL)は2002年に設立され、2003年3月にはサッカー東ティモール代表にとって初の公式戦(AFCアジアカップ2004年大会予選)が実施された。最初の試合は2003年3月21日にスリランカに2-3で敗れ、続く3月23日にはチャイニーズタイペイ(台湾)に0-3で敗れた。FFTLは2005年9月12日にFIFA加盟が認められ、現在はアジアサッカー連盟(AFC)にも加盟している。国内リーグとして東ティモール・サッカーリーグがある。

東ティモール代表が参加する公式戦は徐々に増加している。アジアカップは前述の2004年大会では予選に参加したが、2007年大会予選には棄権し、AFC内のFIFAランキング下位のチームが参加するAFCチャレンジカップにも参加していない。一方、東南アジアサッカー選手権には2004年から参加し、2008年にはスリランカに2-2で引き分けて同チーム史上初の国際Aマッチでの勝ち点を獲得、2012年にカンボジアに勝利して同じく初勝利を記録した。また、FIFAワールドカップの予選には2010年大会予選から参加。2010年大会予選・2014年大会予選は1次予選でそれぞれ香港ネパールに敗れ敗退したものの、2018年大会予選ではモンゴルを破って初めて1次予選を突破した(2次予選は0勝2分6敗で敗退)。2013年時点のFIFAランキングでは180位前後で、いわゆる「最弱国」の一つと見なされている。

スポーツ全体を統轄する組織としては、2003年にオリンピックの国内オリンピック委員会(NOC)である東ティモールオリンピック委員会が結成され、国際オリンピック委員会(IOC)やアジアオリンピック評議会(OCA)に参加した。国が独立準備中だった2000年シドニーオリンピックではNOC設立前だった東ティモールの選手に対して個人参加の特例が認められ、次の夏季オリンピックとなった2004年アテネオリンピックでは東ティモール選手団としての初参加が実現した。ただし、今までにオリンピックで東ティモール選手団がメダルを獲得した事はない。また、2003年からは東南アジア競技大会に参加し、2005年には武術で3つの銅メダルを獲得した[23]

脚注

注釈

  1. 若い活動家を中心に識字教室や保健プログラムを村落ごとに実施、自主独立の精神を高揚させた。
  2. 植民地政庁の役人やポルトガル人教会の支持を得て保守層を代弁した。
  3. インドネシアの支援を受けて武装化した。

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 清水健太郎 (2017年5月24日). “東ティモール独立15年 経済自立 道遠く 若者の半数失業 ASEAN加盟熱望”. 中日新聞 (中日新聞社): p. 夕刊 2 
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 World Economic Outlook Database, April 2014” (英語). IMF (2014年4月). . 2014閲覧.
  3. 山崎功「白檀をめぐるティモールのおいたち」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 16ページ
  4. Schwartz (1994), p. 199.
  5. Deeley, Furness, and Schofield (2001) The International Boundaries of East Timor p. 8
  6. 山崎功「近代ナショナリズムと「植民地」支配」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 20-22ページ
  7. 松野明久「ポルトガルでもインドネシアでもなく」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 35-38ページ
  8. “東ティモール民主共和国 基礎データ”. 日本国外務省ホームページ. http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html#section3 . 2017-8-2閲覧. 
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 東ティモール民主共和国基礎データ”. 外務省 (2013年10月28日). . 2014閲覧.
  10. UNESCO Memory of the World Archives
  11. “東ティモール首相 ASEAN早期加盟に意欲”. 毎日新聞ニュース. (2017年8月1日). https://mainichi.jp/articles/20170802/k00/00m/030/084000c 
  12. “東ティモール 中国の存在感高まる…首都に人・モノ・金”. 毎日新聞ニュース. (2017年8月1日). https://mainichi.jp/articles/20170802/k00/00m/030/086000c 
  13. “東ティモール独立15年 豪州と溝、中国が存在感 石油枯渇にらみ投資期待”. 『日本経済新聞』朝刊. (2017年8月23日). http://www.nikkei.com/article/DGKKZO2027420023082017FF1000/ 
  14. “東ティモール民主共和国 基礎データ”. 日本国外務省ホームページ. http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html#section3 . 2017-8-2閲覧. 
  15. アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update
  16. 外務省 後発開発途上国
  17. 17.0 17.1 IMF Executive Board Concludes 2010 Article IV Consultation with the Democratic Republic of Timor-Leste” (英語). IMF (2011年3月8日). . 2014閲覧.
  18. http://www.laohamutuk.org/Oil/PetFund/Reports/PFQR10q4en.pdf
  19. 19.0 19.1 外務省広報資料 わかる!国際情勢 vol.36 21世紀初の独立国、東ティモールの現状と課題[1]
  20. 法律の正文はポルトガル語で、一部がテトゥン語に翻訳されている
  21. 山崎功「白檀をめぐるティモールのおいたち」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 16ページ
  22. FIFA.com内の東ティモール基本情報(英語、2009年12月13日閲覧)[2]
  23. OCA NOCS Timor Leste [3]

参考文献

  • Schwarz, A. (1994). A Nation in Waiting: Indonesia in the 1990s. Westview Press. ISBN 1-86373-635-2. 

関連項目

外部リンク

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