東ゴート王国
東ゴート王国(ひがしゴートおうこく、Ostrogothic Kingdom、497年 - 553年)は、大王テオドリックによって建国された東ゴート族の王国。首都はラヴェンナ。東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの同盟により、西ローマ皇帝の廃止後、イタリアのほぼ全域を支配下においた。
テオドリックの治世において、東ゴート王国は西ローマ帝国の統治機構を再整備し、それまでのローマ法を遵守しつつ新たな国家の構築が進められた。しかし、テオドリックの死後、後継者問題や宗教対立によって国内は混乱しはじめ、ローマ帝国の再統一を進めるユスティニアヌス1世がこれに乗じて東ゴート王国に軍を派遣。東ゴート王国はこれに屈服して滅亡した。
王国としては短命であったが、ローマ帝国末期から続く戦乱の中にあって、諸外国と政治的・軍事的均衡を保ち、つかの間ながらイタリア半島にゴート人とローマ人による共存と平和を実現した。
Contents
歴史
王国の成立
東ゴート王国の建国は、476年にオドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位した事件に端を発する。ゲルマン民族の一派でスキリア族の出身であった西ローマ帝国の親衛隊長オドアケルが、宰相の地位に収まっていたオレステスを討伐、彼の子で皇帝となっていたロムルス・アウグストゥルスを廃位した。
オドアケルは東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの交渉により西ローマ帝国の宰相としての地位を得た。西ローマ帝国の宰相となったオドアケルは、ヴァンダル王国との折衝ではシチリア島の返還に成功し、西ゴート王国とは南プロヴァンスの割譲によって国境線問題を解決するなどの成果を収めた。しかし、対外的な成功を収めたオドアケルは、イタリアの統治方針についてゼノンと対立し、公然と反ゼノン派を支持するようになった。このためゼノンは東ゴート族の王テオドリックと同盟を結び、イタリア遠征とその統治を約束した。
東ローマ帝国からの正式な要請を受けたテオドリックは、488年、民族を引き連れてモエシアを出立した。489年8月28日、イゾンツォ川に到達したテオドリックの軍は、オドアケルの派遣した軍と衝突、このイゾンツォの戦いでテオドリックは勝利を収め、翌月にはウェロニア(現: ヴェローナ)に到達した。
ヴェローナのオドアケル軍に勝利したテオドリックは、続いてメディラヌム(現: ミラノ)を占拠、当地でのオドアケル側の軍事長官であったトゥファを味方に引き入れることに成功した。しかし、テオドリックの命でラヴェンナ攻略に向かったトゥファは再度寝返り、テオドリックの軍をティキヌム(現: パヴィーア)に後退させ、オドアケルの援軍とともに市を包囲した[1]。
490年、西ゴート王国の王アラリック2世の援軍を得たテオドリックは、ティキヌムを包囲したオドアケルの軍勢を放逐すると、イタリア各地を占領、逆にオドアケルが籠城するラヴェンナを包囲した[2]。海上を全面封鎖され、陸戦でも戦果を挙げられなかったオドアケルは、493年3月5日、ラヴェンナ司教ヨハネスの仲介により降伏した。テオドリックは彼を謀殺し、イタリア王に即位[3]。東ローマ帝国の皇帝アナスタシウス1世は、497年に王位の認可を下し、東ゴート王国が成立した[4][5]。ただし東ゴート王国はローマ帝国から独立した王国ではなく、領土も住民も依然としてローマ帝国の一部とされた。王となったテオドリックも、ローマ帝国にとっては皇帝からイタリアの軍司令官に任ぜられた臣下に過ぎなかった[5]。
大王テオドリックによる治世
イタリアとパンノニアを平定したテオドリックは外交に力を入れ、近隣国と積極的に婚姻関係を結んだ。それまで、テオドリックは側室のみを持っていたが、493年3月にはフランク王クロヴィス1世(クロドウェック)の娘オードフレダ(アウドフレーダ)を正室に迎えた。また、娘のティウディゴートを西ゴート王アラリック2世に、オストロゴートをブルグント王ジギスムントに嫁がせ、500年頃には妹のアマラフリーダをヴァンダル王トラサムントに輿入れさせた[6]。
こうした婚姻政策は、諸勢力との軋轢を排除するためのものであったが、フランク王国は502年にブルグント王国を占領[7]、507年には西ゴート領であった南フランスに侵入し、勢力の拡大を計った。フランク王国の拡大を警戒したテオドリックは、フランク王国に抵抗するチューリング王国やアラマンニ人を保護したほか、508年、将軍イッバの指揮する軍を差し向け、アレラテ(現: アルル)を占拠、南フランスからフランク王国の影響を一掃した。
しかし、テオドリックのフランク王国封じ込めの動きや、パンノニアの国境にあった山賊集団の支援は、東ローマ帝国に警戒感を持たせることになった。東ローマ帝国は、テオドリックを牽制するため、イタリア半島沿岸に艦隊を差し向けたほか、ヴァンダル王国の懐柔に乗り出した。518年には、東ローマ皇帝となったユスティヌス1世がアリウス派を弾圧しはじめ、ローマ教皇がこれに同調したため、東ゴート王国は動揺をきたした。
東ローマ帝国の圧力は、まずヴァンダル王国との反目という形で現れた。523年にトラサムントが死んだことによって、ヴァンダル王国は東ローマ帝国寄りの姿勢をとり、テオドリックの妹アマラフリーダら親東ゴート派を殺害した。さらに東ローマ帝国は、ローマ貴族で西ローマ帝国の執政官であったボエティウスの処刑をアリウス派による迫害とし、アリウス派への信仰を禁止した。これに対してテオドリックは、ローマ教皇ヨハネス1世をコンスタンティノポリスに派遣して弁明を行ったが、全く効果はなかった。テオドリックは期待に応えられなかったヨハネス1世を軟禁し、憤死させたが、これがかえって東ローマ帝国との軋轢を深めることになった[8]。
アマル王家による王位世襲の断絶
526年、テオドリックは男子後継者をもうけることなく死に[9]、テオドリックの娘アマラスンタ(アマラフリーダ)の子アタラリックが国王に即位した。しかし、アタラリックは幼少であったため、アマラスンタが摂政として政治の一切を取り仕切った[10]。彼女の政治はテオドリックの理念に忠実なもので、東ゴート王国はしばらく平穏だったが、532年から533年にかけて情勢はにわかに剣呑になっていった。かねてよりテオドリック、アマラスンタと反目していたテオドリックの甥テオダハドや、軍最高司令官であったトゥリンら国内の反アマラスンタ勢力は、公然と彼女の政治批判を行うようになり、アマラスンタは東ローマ帝国への亡命を真剣に考えるようになった。しかし、彼女はフランク王国の軍勢が北イタリアのアレラテ(現: アルル)に侵攻したことを機に、トゥリンら反逆の中心人物を鎮圧に派遣、同地で刺客に襲わせて殺害した。
534年10月2日、アタラリックが早逝したため、アマラスンタは東ゴート王国の女王として即位した。この女王即位に関して、彼女はユスティニアヌスとの同盟交渉を行い、その承認を得ている。反目していたテオダハドを懐柔し、彼を共同統治者として指名したが、結果的にはこれがアマル家没落の原因となった。534年12月、テオダハドは突如反乱を起こし、アマラスンタをローマ北方のウォルシニィ湖(現: ボルセーナ湖)のマルタナ島に幽閉した。東ローマ帝国からの積極的な庇護も受けられなかった彼女は、535年4月30日、暗殺された。
テオダハドは、ユスティニアヌスにアマラスンタ暗殺の釈明をおこなったが、東ローマ帝国は庇護者である女王暗殺を帝国に対する挑戦とし、開戦の準備を始めた。一方テオダハドは、アマラスンタ暗殺を知ったローマ人たちが争乱を起こしかけたため、国内の内乱を防止するために軍を展開せざるを得なかった。テオダハド討伐のために派遣された将軍ムンドの陸戦部隊は、535年末までにダルタティア全土を制圧、また将軍ベリサリウス率いる艦隊は535年12月31日にシチリアを落とした。
皇帝軍の侵攻を畏れたテオダハドは、皇帝使節のペトルスに対し停戦交渉を始めたが、ベリサリウスがカルタゴの反乱鎮圧に向かい、北ではゴート軍がダルマティアのムンド率いる東ローマ軍を殲滅したため、テオダハドは一転して東ローマに対する強硬姿勢をとり始めた。536年、カルタゴを平定したベリサリウスはイタリア本土に向け進軍、レギウム(現: レッジョ・ディ・カラブリア)、ネアポリス(現: ナポリ)を陥落させた。政治的にも軍事的にも有効な手段をとらなかったテオダハドは、ローマ郊外に集結したゴート軍に合流したが、ゴート軍の司令官たちは536年11月、テオダハドに退位を迫った。このため、テオダハドは陣地からラヴェンナに逃走するが、途上でゴート軍の刺客に暗殺された。ここにアマル王家による王位の世襲は途絶えた。
ゴート戦争と王国の滅亡
王位は、ゴート軍指揮官ウィティギスに継承された。彼は北イタリアの全軍の集結と王位の確立を図るためラヴェンナに撤退したが、この間、ベリサリウスに、ローマ、ペルシア(現: ペルージャ)などを占領された。ウィティギスは王位継承を正当なものとするため妻と離婚、アマル家の生き残りでアマラスンタの娘マタスンタと強引に婚姻関係を結んだ。
537年、フランク王国との交渉でプロヴァンス一帯を譲渡する代わりに和平を結ぶと、11月末には全軍をラヴェンナに集結させ、ローマに進軍した。537年2月21日に始まるローマ攻城は1年以上にも及び、双方とも壮絶な消耗戦となった。結果的にローマを落とせなかったウィティギスは休戦を申し入れたが、ベリサリウスは密かに騎兵部隊を迂回させ、ラヴェンナ直轄領に攻撃をしかけた。このためゴート軍はローマの包囲を解き、ラヴェンナに撤退した。
538年6月21日、ベリサリウス率いる皇帝軍はローマを出立し、アウクシムム(現: オージモ)の要塞を包囲、同じ頃ジェノヴァに揚陸した東ローマ軍はミラノを占領した。ゴート軍はフランク王国からの援軍を得てミラノを奪還したが、フランク軍がミラノを略奪したため市民感情は険悪なものとなった。さらにテウデベルト率いるフランク軍が北イタリアに進軍し、ゴート軍も皇帝軍も見境なく攻撃したばかりか、ポー川に女性を人身御供として沈めたため、以後、ゴート軍はフランク王国との交渉を断った。両軍の戦闘はアドリア海沿岸に拡大したが、遂に539年、ベリサリウス率いる皇帝軍はラヴェンナを包囲、海上を封鎖した。ウィティギスはベリサリウスとの交渉の末、540年5月、城門を開放し、降伏した。マタスンタはユスティニアヌス1世の従兄弟ユスティヌス・ゲルマヌス(500年頃/505年頃 - 550年)と再婚した。[11]
和平交渉を利用してラヴェンナに入城したベリサリウスは、ウィティギスを捕えた後、東ローマに帰還した。しかし、ゴート軍は西ゴート王国の王テウディスの甥イルディバルドを新王とし、なお抵抗を続けた。イルディバルドはウィティギスの甥ウライアスとの確執から暗殺されるが、彼の甥であるエラリーコの短期間の王位の後、同じくイルディバルドの甥でエラリーコの従兄弟でもあるトレヴィゾ方面軍を指揮していたトーティラが王位に就き、東ゴート軍は勢力を回復することになった。東ローマ軍はラヴェンナを出立し北上したが、劣勢のはずのトーティラの軍勢に敗北して後退、542年にはファウェンティア(現ファエンツァ)の戦いでも大敗北を喫し、戦線はずるずると南下した。東ローマ軍の小部隊はイタリア各地の防備を固めていたが、トーティラはこれを無視して南下、543年にはナポリを奪還した。ゴート軍は各地の東ローマ軍と衝突し、重要拠点を陥落。546年12月に東ゴート軍は、イサウリア人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時にローマ略奪を行った。一時的に優位に立ったベリサリウスは、再びイタリアに赴任したが、地元の支持を得られず、その後の戦況は膠着状態に陥った。552年4月、本国に召還されたベリサリウスに代わり、総司令官ナルセスが東ローマ軍を率いて北方からイタリアに侵入した。ナルセス軍は工兵隊を駆使してラヴェンナを落とし、補給を行うとローマに向けて進軍を開始した。552年、ローマを出立したゴート軍とナルセス率いる東ローマ帝国軍は、ブスタ・ガロールム高原で対峙した(ブスタ・ガロールムの戦い(ギリシア語: Μάχη των Βουσταγαλλώρων、英語: Battle of Busta Gallorum)、タギナエの戦い(イタリア語: Battaglia di Tagina、英語: Battle of Taginae))。この戦いで、ナルセスは前線を全て弓兵でかため、突撃するゴート軍を殲滅、トーティラを討ち取った。
トーティラ亡き後、残存兵を引き連れたテーイアが王となったが、サレルヌム(現: サレルノ)近郊のモン・ラクタリウスの戦いで戦死した。ゴート軍はその後も王を担ごうとしたが (en:Battle of the Volturnus (554))、実現に至らず、東ゴート王国は滅びた[12]。
統治機構
東ゴート王国の王位は、テオドリックとゼノンの間の公約に基づき、東ローマ帝国が承認する。テオドリックはローマ帝国よりイタリア王の称号を得ており、実質的にはローマ帝国の西の執政官と軍司令長官としての役割を担った。ただしローマ帝国のイタリア王とは別に、正式な西ローマ帝国の執政官もローマ帝国によって任命され続けている。したがって、法制度上は西方でもコンスタンティノープルにいる皇帝の下でローマ帝国が存続している建前となっており、東ゴート王国の領土と住民はともにローマ帝国のものとされた。また、王とされたテオドリックもイタリアにおけるローマ帝国の官僚の一人に過ぎず[5]、例えばテオドリックが鋳造した金貨には皇帝アナスタシウス1世の肖像と名前が刻まれていた[13]。東ローマ帝国は、テオダハドを除いて、テオドリックからウィティギスまでをローマ帝国のイタリア王と認めている。敵対していたウィティギスの王位を認めたのは、テオドリックとゼノンの公約を正式に無効にするためである。ちなみにテオダハド、イルディバルド、トーティラ、テーイアは東ローマ帝国の認める東ゴート王国の王ではなく、盟約において彼らは反乱軍であり、実際、東ローマ帝国はそのように対処していた。
東ゴート王国の政治機構は、ローマの元老院、執政官の制度が、ほぼそのまま受け継がれた。ゴート人が就くことができる公職は軍官に限られ、民政は引き続きローマ人が行うこととされた。また、立法権を行使できるのも東ローマ皇帝だけとされた。新たにゴート人による監督官と呼ばれる各地方を管轄する軍官が置かれ、この軍官は軍事関連の任務を遂行する権利の他に裁判権をも有していたが、紛争に際しては法規に詳しいローマ人による補佐が必要とされた。しかし、このような政治機構が機能し得たのは、テオドリックからアマラスンタまでの約40年間の平和な治世においてであり、滅亡までの約20年間は東ローマ帝国との泥沼の死闘が繰り広げられた。
東ゴート軍は騎馬部隊を中心とする陸戦隊が編成されており、もっぱら長槍による騎馬突撃を得意とした。歩兵も精強であった。海軍はまったくといって良いほど組織されなかった。軍は基本的にゴート人によって編成されたが、地方単位でもローマ人との混成部隊が組織され、なかにはユダヤ人らが参加した地元民兵組織もあった。
文化
ローマ文化とゴート文化の融和により生成されるべき独自の文化は育たなかった。その要因として、東ゴート王国が短命であり、かつ平和な時期が短かったこと、住民の大部分が依然として従来のローマ系住人のままであり、ゴート系住人が住民全体の約2%と極めて少数であったこと等が挙げられる。また、テオドリックが東ローマの宮廷で育ったこともあり、文化面ではビザンティン文化の影響が強く、アマラスンタはアタラリックにローマ的な教育を行っていた。
今日、東ゴート王国の文化と呼べるものはあまり残ってはいないが、ラヴェンナにはテオドリックによって建設されたサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂、アマラスンタによって着手されたサン・ヴィターレ聖堂、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂が残っている。これらはビザンティン建築の代表的な遺構であるが、特にサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂は数少ないアリウス派教会堂の遺構としても貴重である。ローマ人と東ゴート族が折り合わなかった理由はいくつかあるが、とりわけ彼らがアリウス派キリスト教徒であったことは大きい。アリウス派美術は東ゴート族が残し得る美術だったかもしれないが、ラヴェンナが東ローマ帝国の属州に再編入された時、そのほとんどが失われた。
歴代君主
- テオドリック(493年 - 526年)
- アタラリック(526年 - 534年)
- アマラスンタ(534年)[14]
- テオダハド(534年 - 536年)
- ウィティギス(536年 - 540年)
- イルディバルド(540年 - 541年)
- エラリーコ(541年)
- トーティラ(541年 - 552年)
- テーイア(552年 - 553年)
系図
ティウディミル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.テオドリック | アウドフレダ (フランク王クロヴィス1世妹) | アマラフリダ | トラスムンド ヴァンダル王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ティウディゴート =西ゴート王アラリック2世 | オストロゴート =ブルグント王ジギスムント | 3.アマラスンタ | エウタリック | 4.テオダハド | アマラベルガ =チューリンゲン王ヘルマンフリート | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2.アタラリック | 5.ウィティギス | マタスンタ | ゲルマヌス・ユスティヌス (ユスティニアヌス1世従兄弟) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲルマヌス (550-605) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テウディス 西ゴート王 | ? | ||||||||||||||||||||||
6.イルディバルド | ? | ||||||||||||||||||||||
8.トーティラ | |||||||||||||||||||||||
関連作品
- 『闇よ落ちるなかれ』 (Lest Darkness Fall、L・スプレイグ・ディ=キャンプ、1939年)
- テオドリック大王死後の東ゴート王国に迷い込んだ現代アメリカ人が大活躍する歴史改変小説。
脚注
- ↑ 松谷 (2003), pp. 90-91.
- ↑ 松谷 (2003), p. 91.
- ↑ 松谷 (2003), pp. 93-95.
- ↑ 松谷 (2003), p. 97.
- ↑ 5.0 5.1 5.2 尚樹 (1999), p. 137.
- ↑ 松谷 (2003), p. 104.
- ↑ 松谷 (2003), p. 110.
- ↑ 松谷 (2003), pp. 114-117.
- ↑ 松谷 (2003), p. 117.
- ↑ 松谷 (2003), p. 139.
- ↑ 一人息子ゲルマヌス・ポストゥムス・カエサル(550年 - 605年/607年)を儲け、アマル王家の血筋を後世に伝えた。ゲルマヌスは後に東ローマ軍最高司令官を務め、妻はティベリウス2世の娘チャリート。娘は東ローマ皇帝マウリキウスの長男テオドシウスと結婚したが、子は無かった。ゲルマヌスとチャリートの間には他にも娘がいたとする説があり、その娘はヘラクレイオス王朝の開祖ヘラクレイオス1世の側室となって、息子ヨハンネス・アタラリックを儲けたという。更にヨハンネス・アタラリックはヘラクレイオス1世の曾孫コンスタンティノス4世の皇妃アナスタシアの父とされており、ユスティニアノス2世の祖父にあたるという。
- ↑ 松本 (2008), p. 124.
- ↑ ウォード=パーキンズ (2014), pp.113, 115.
- ↑ 息子アタラリックの治世では摂政を務め、息子の死後、即位。従兄弟にあたるテオダハドと再婚し、一時は共同統治を行った。
参考文献
- ウォード=パーキンズ, ブライアン 『ローマ帝国の崩壊 - 文明が終わるということ』 南雲泰輔訳、白水社、2014-06。ISBN 978-4-560-08354-3。
- 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999-02。ISBN 978-4-486-01431-7。
- 松谷健二 『東ゴート興亡史 - 東西ローマのはざまにて』 中央公論新社〈中公文庫BIBLIO〉、2003-04(原著1994年)。ISBN 978-4-12-204199-8。
- 松本宣郎 「第3章 ローマ帝政下のイタリア」『イタリア史』 北原敦編、山川出版社〈新版世界各国史 15〉、2008-08。ISBN 978-4-634-41450-1。
- 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
- Heather, Peter (1998). The Goths. Blackwell Publishers. ISBN 0631209328.
関連書籍
- Herwig Wolfram & Thomas J. Dunlap 『History of the Goths』 University of California Press、1990年、ISBN 0520069838