李成桂
李成桂 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 태조 / 이성계 / 이단 / 중결 / 군진 / 송헌 |
漢字: | 太祖 / 李成桂 / 李旦 / 仲潔 / 君晋 / 松軒 |
発音: | テジョ / イ・ソンゲ / イ・ダン / チュンゴル /クンジン / ソンホン |
日本語読み: | たいそ / りせいけい / りたん / ちゅうけつ / くんしん / しょうけん |
ローマ字: | Taejo / I Seonggye / I Dan / Junggyeol / Songheon |
李 成桂(り せいけい、리성계、太祖 康献大王、1335年10月27日 - 1408年6月18日)は、元(モンゴル)の武官、1357年から高麗の武官、李氏朝鮮の創始者にして初代国王。咸鏡南道の永興(金野郡)の出身[1]。『李朝太祖実録』によれば本貫は全州李氏という[2]。大韓帝国期に太祖高皇帝の称号を送られた。
Contents
略伝
李氏朝鮮王室の根元である全州李氏の始祖は新羅で司空という役職に就いていた李翰と『太宗実録』など李氏朝鮮時代の歴史書には記録されている一方で、李翰の中国渡来説があり[3]、これは全州李氏の記録である『完山実録』には、「李翰は元々は、中国に住んでいたが、海を渡って新羅に渡来した」と記録されており、また『李氏得姓之由來(이씨득성의유래)』には、「李翰は本来は中国の唐朝帝国の末裔であり、李翰の新羅への渡来以降代々全州に住んでいた」と記録されていることを証拠とする[3]。
李翰とその子孫たちは全州の有力者として影響力を持ち、1170年の武臣の反乱を契機に中央政界に進出した[4]。しかし全州李氏一族の発展はすぐに躓くことになる。李成桂の六代前の李璘は兄の李義方と共に武臣の乱鎮圧の勢いに乗じて中央に進出したが、兄が出世競争に敗れると李璘も都から追放され、夫人も流離いの身となった[1]。李璘の子で、李陽茂も苦難の日々を過ごした。そして彼らは都での権力闘争に敗れると、故郷の全州で一揆を起こした疑いまでかけられるようになる[4]。ついに李成桂の四代前、李陽茂の子である李安社は180名に及ぶ一族郎党を率いて故郷を離れた。
最初彼らは江原道に定住したが、中央からの追手に見つかったため、当時元が支配していた咸鏡北道に亡命した[4]。朝鮮王室の記録では「李安社が地方の役人と女を巡って激しく対立し、その役人が何かにつけて揚げ足をとり李安社を排除しようとした。それに堪えられなかった李安社は一族郎党を率いて江原道に避難したが、その役人が人事異動で江原道の責任者として来ることになったので、再び一族郎党を率いて咸鏡北道に移住した[4]。そこは元の影響下にあり、国外亡命の様相を呈した」[5]と記している。しかし現在では研究が進んだ結果、これが事実ではないことが明らかとなった。その実態は中央政府の監視や圧力に耐えられなかったか、すすんで中央に反旗を翻した末に敗北して亡命に至ったと考えられている[4]。
咸鏡道北部に亡命した李安社は元からダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任された[6]。しかし女真族との間に徐々に対立が生じると、李成桂の曽祖父李行里(翼祖)は一族郎党を率いて南方の江原道安辺郡に移住して[6]、妻である貞淑王后崔氏(本貫は登州[7][8]であり、登州で戸長を務めていた崔基烈(최기열)の娘)とのあいだに李椿を授かり、一族は磨天嶺以南(以北には女真族の集落が散在)の東北面を管轄する大勢力となり一種の独立政権を築いた[6]。そして1335年、李成桂が双城総管府[9]の和州(咸鏡南道の永興、現在の金野郡)で李子春と永興崔氏(もと中国山東半島登州人で咸鏡道に移住した[10][11]懿恵王后)の子として生まれた[1]。
李氏の出自
論点
李成桂の出自は公的には全州李氏とされているが、三田村泰助は「がんらい李成桂は、全羅道全州の名門の出といわれるが、疑わしく、数代まえより、北鮮の咸鏡道にいた。」と述べている[12]。池内宏は、全州李氏という如きは決して信じるべきではないと斥けている[13]。六反田豊(東京大学教授・専攻李氏朝鮮)は、高祖父李安社の時代に全州から東北面に移住して、元朝に入仕した後各地を転々とした。或いは父李子春は、双城などの千戸として元朝に仕えたが、1355年に高麗に内応して小府尹に任命され、翌年高麗が行った双城総管府攻撃の際に、高麗王の命令を受けてこれを攻撃して戦功を立て咸鏡道の万戸・兵馬使の任命されたというのは「伝説」として[14]、「こうした伝説は、『高麗史』・『太祖実録』・『竜飛御天歌』等にみられるが、どこまで史実を反映したものであるかは疑問である。」と述べている[15]。生母の懿恵王后崔氏は、もと中国山東半島登州人であり、咸鏡道に移住して暮らしていた[16][17]。一方、李成桂を女真族とする説やモンゴル軍閥とする説もある。倉山満は、李成桂を「謎の人物」であり「どこの誰だかよくわからない」と評して、「韓国は当然ながら朝鮮人だと言いますし、中国人のなかには漢民族だとか、モンゴル軍閥の一人だと言う人もいます。最も信憑性が高いのは、女真人(満州人)でしょう。」と述べる[18]。
女真族説
池内宏[19]や岡田英弘[20]や宮脇淳子[21]や宮家邦彦[22]や豊田隆雄[23]らは李成桂が女真族或いは女真族の血を引いている可能性を指摘している。(山内弘一は李氏一族は全羅道の全州出身という『竜飛御天歌』の説を紹介したのちに、李の父親の部下に女真人の活躍者がいたから、「女真人の血を引くとする説もある。」としている[24]。また、室谷克実は崔南善が著書『物語朝鮮の歴史』において李氏朝鮮の創建過程を簡素に書いたのは李成桂が女真族であることを認識していたからではないか、と述べている[25]。宮嶋博史は、「全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した。」「女直とは女真族であり、朝鮮と女真との関係は李朝の建国以後においても、格別深いものがあった。李朝を建国した李成桂の配下には、多くの女真族が含まれていた。彼が高麗末に傑出した武将としての地位を占めることができた理由の一つが、女真族の武力の吸収にあったのである。」と記している[26]。
李成桂女真族説の根拠としては次のことが挙げられる。
- 李氏朝鮮の第4代国王世宗(1397年5月7日~1450年5月18日)の時代に建州女真に対する侵略戦争を行い、豆満江方面に領土拡張を行い、また、東北部(咸鏡道)の開拓事業を行い、朝鮮の領土に組み込み併合するまでは、李氏一族の出身地の咸鏡道を含む朝鮮半島北部(咸鏡道・平安道)は、新羅・高麗の領土となったことはなく、女真族の領土・居住地域であり、李成桂は女真族色の濃厚な元の直轄地出身だったこと[27]。
- 李成桂は女真族の酋長の李之蘭と義兄弟の契りを結んでいること。(野史の記録で正史ではないが、野史だからといって誤りではない。また、彼は李成桂に臣服して戦功を立て、後開国功臣に列せられるなど特殊な関係があったことは事実である)
- 李成桂の手兵が強かったのは狩猟の民で、弓矢の名手の女真族を加えていたことが大きく[12]、李氏一族は金同不花、猛安朱胡引答忽、猛安括児牙兀難など女真族の酋長を配下に多数抱え、李氏一族が頭角を現したのは彼らの助けが大きかったこと。
- 李子春は吾魯思不花というモンゴル名を持ち、さらに、祖父李椿は孛顔帖木児、李子春の同母兄李子興は塔思不花、李子春の兄弟は完者不花、那海など李氏一族は皆モンゴル名を持っていること。(ただし、高麗人も貴族はモンゴル名を持っていた)
- のちに15世紀になって編纂された王朝創建の偉業を称えた『竜飛御天歌』によると、李氏一族は全羅道の全州出身で古くは新羅に仕えたがやがて咸鏡道に移住した、と書かれているが、後世に潤色されて書かれているため信憑性が疑わしいこと。(神道碑は李氏の遠祖を全州の大姓、穆祖をもって知宣州となし、しかも穆祖自ら全州より宣州に移れりとは言わざるに、これには穆祖、全州より三渉に入り、後、徳源に移れりとなし、かつその遷徒の事情を示し、穆祖が170餘家の移民を従えたりというがごときも、神道碑の伝えざるところで、穆祖の元に帰したる後の佳地は、南京或いは孔州とせられずして、慶興の斡東とせられ、斡東における翼祖の危難、その危難によって赤島に遁れし前後の事情も、すこぶる詳細に敍せられている。かくのごとき穆・翼二祖の事績とせられるものに著しき潤色が加えられている)
- 李氏一族の家系図には、李氏一族のモンゴル名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれていないこと。
- 元に仕える行政長官ダルガチは、原則としてモンゴル人か色目人が任用されて、元初期には一部の女真族がモンゴル名を持つことでモンゴル人とみなされ任用されたが、李安社はダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任されたこと。
- 千戸長として女真族の統治を行っていたこと。
- 姓を李氏と言ってはいるが、祖先が元の家来で、元の開元路出身であること。
岡田英弘と宮脇淳子は、「双城で高麗軍に降伏した者のなかに、ウルスブハ(李子春)というジュシェン(女直)人があったが、その息子が李成桂(朝鮮の太祖王)で、当時22歳であった[28]」とし、『李朝実録』の冒頭『太祖実録』の内容[29]を用いて次のことを挙げている[28]。
- 『李朝太祖実録』冒頭には「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王、姓李氏、諱旦、字君晋、古諱成桂、號松軒、全州大姓也」とあり、本貫が全州李氏であること、新羅の司空李翰を始祖として、以下21代を経て李成桂に至ったとするが、第16代まではほとんど名だけが知られるにすぎず、第17代(李成桂4代の祖)からやや詳しい伝記がある。その第17代以後の祖先の活動舞台と居住地を通観すると、前16代につなげるために全羅北道全州(完山)を出発点として、東海岸の三陟から豆満江畔にわたり、そのほぼ中央に位置する咸興をもって活動の根拠地としたように書いてある。 すなわち、全州李氏の出身だというのは後世の捏造であると考えられるが、情況証拠しかなく、立証する術はない。しかし、李氏朝鮮王室が全州李氏を大切に扱ったという記録もない[28]。
- 李成桂の父子春は、高麗を東北方面からおさえるモンゴル勢力の拠点であった永興の双城総管府につかえ、千戸(千人隊長)の役職についていたが、高麗恭愍王がその5年後(1356年)にこの総管府を攻略したとき、李子春はただちに高麗に投じ、北に移って咸興を活動舞台とした。4年のち(1360年)李子春は死に、李成桂が家を継いで、東北面上万戸(万人隊長)の職についた。李成桂の活動は、まず咸興から豆満江方面におよぶ女真部族の平定、つぎに鴨緑江上流方面の女真部族、モンゴル勢力の残存するものを討伐し、やがて中央に召し出されて国都の防衛、南方の倭寇討伐にしたがった。彼の本領はどこまでも軍事にあった[28][29]。
- 『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には次の記事がある。「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。」これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道の吉州)にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、度祖(モンゴル名ブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。彼は女真で育ち(女真の族長になった)、腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。この記事を見ると、太祖も女真族としか考えられない。「外兄弟」には二つ意味があり、一つは「父の姉妹が産んだ子」もう一つは「姓が違う兄弟」である。 遊牧民や狩猟民のような族外婚制をとる人たちは、姓の違う集団と結婚関係を結ぶのを習慣とするから、父の姉妹が嫁に行って産んだ従兄弟を「姓が違う兄弟」と呼ぶのである。だから、李成桂の伯母/叔母が女真の族長に嫁入って生まれたのが三善三介であるとするなら、李成桂の祖父は女真の族長と結婚関係を結ぶような別の族長であった証拠である。どちらの意味にしても、女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるというならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然である。『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから、朝鮮王の家系について、なるべく高麗との関係を重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、この「三善三介」についての記事である[28]。
『神道碑』、『定陵碑』、『竜飛御天歌』、『李朝実録』、『高麗史』などの李氏一族の伝承の史料解釈上、李成桂の父祖として伝えられる四祖(穆祖、翼祖、度祖、桓祖)のうち、信じうるのは父と祖父のみで、李行里は信拠に値すべき史実の伝存するものがなく、人物の存否は明言できないが、李安社は李成桂自ら根拠地を南京より孔州(現在の慶興)に移転して事績を激しく変化させていることから、李安社は李成桂の領土拡張の理想を寄せた架空の人物であることは殆ど疑う余地がなく[30]、系譜を長くするため作為された架空の人物であり、父と祖父は事跡については創作と考えられている[31]。桓祖は、ただわずかに信をおき得べきは、彼が双城付近の千戸としてその地の土民の間に多少の勢力を有していたことにして、その他の伝説は双城攻破の際における桓祖の功業、元への上表を裏面に包める入朝親喩、これより以前に起れる桓祖并に父祖の入朝など一として信頼に値すべきものなく、これらの伝説はことごとく抹殺せざるを得ない[31]。『神道碑』における桓祖の記事は、病没に関する一句と「朔方道萬戸」以外はほとんど信頼に値しない。また、『神道碑』は恭愍王五年における双城修復の後三十一年、同年九月四日における桓祖の死没の後二十七年、太祖李成桂即位に先立つ五年で、『竜飛御天歌』は碑に後れること六十年にして成り、『高麗史』はさらに四年をへて撰進せられし書ならば、神道碑』とこれ等の両書の関係は明瞭で、相互の諸条の符節が合するごとくは、後者が前者を踏襲したためである[31]。伝説・系図の制作は、『神道碑』建立の際においてせられ、鄭惣が『定陵碑』を撰する際に系図の延長、李成桂の王氏に代わるとともに穆祖の伝説の南京より孔州に移転、野人古慶源の地を侵奪して翼祖の伝説の変化、『竜飛御天歌』の編纂において穆・翼二祖の伝説の周の祖先の伝説に擬するなど特殊の機会と必要とに応じて、その形態の変化が見られる[31]。のちに15世紀になって編纂され、王朝創建の偉業を称えた『竜飛御天歌』及び『高麗史』は世宗の時、同一なる編者の手により成った書で、しかし『高麗史』は李成桂即位の四年、判三司事鄭道傳・政堂文学鄭惣等、はじめて高麗太祖より恭讓君にいたるまで三十七巻を撰進せし後、大宗しばしば史臣に命じて改修竄定せしめ[32]、太祖李成桂のごときは、史官の極諫を用いずして、鄭道傳・鄭惣等の既修に関わる恭愍王以来の『高麗史』及び王申以来の史草を親覧したることなれば[33]、これらの史書及び文宗元年上進せられし今の『高麗史』に見えたる李朝の祖先に関する記事に曲筆ないし潤色の跡ありと考えられる[31]。「高麗時代に女真族と認識した跡形がない」「名門家と結婚している」のは、女真族であることを偽り高麗人を装い、祖父以前は架空の人物で李朝の祖先に関する事跡は創作であるためであると考えられている[31]。李成桂の祖父の後妻趙氏が双城総管の女、度祖が元の宣命を受けて亡父の職を襲げり、その配朴氏が斡東の百戸の女、塔思不花没後の継承の争議に関して元の裁断を仰いだというのは、四祖の伝説が双城と元とに結合させられることより派生したもので何等措信の価値あるものにあらずと考えられている[31]。
高麗系モンゴル軍閥説
東洋史学者尹銀淑(ユンウンスク)博士とモンゴル系中国人学者・エルデニ・バタル博士(内モンゴル大学教授)は博士の学位論文を通じて、李成桂はモンゴル軍閥出身で、李成桂の家門は旧高麗領に置かれた元の直轄統治機構である双城総管府でほぼ100年間にわたりモンゴルの官職を務め、勢力を伸ばしたために、李朝を建国することができたという新しい学説を提唱している[34][35][36]。
尹博士は学位論文『蒙元帝国期オッチギン家の東北満州支配』において13~14世紀に東北、満洲地域を元のオッチギン家が支配したという事実に注目したと述べている。チンギス・ハンが1211年に征服した土地を近親者に分け与え、オッチギンには東北、満州地域を統治させた。オッチギンは遊牧と農耕を基盤にこの地で独立的な勢力を形成していた。
李成桂の高祖父李安社は全州から豆満江流域の斡東地域に移り、 後の1255年に千戸長、ダルガチの地位を元皇帝から賜ったが、千戸長はモンゴル族以外の人が任命されることが非常に珍しい高位の職であることから、 実質的にはオッチギンから認められた軍閥勢力が就任していたと述べている。1290年にオッチギン家で内紛が起きたため、李安社の息子、李行里は斡東の基盤を失って咸興平野に移住したが、千戸長、ダルガチの職位は李行里の曾孫である李成桂の時まで五代に渡って世襲された。エルデニ博士は学位論文『元・高麗支配勢力関係の性格研究』において李成桂一門はオッチギン家を通じ、当時最先端にあったモンゴル帝国の軍事技術を直接吸収し、その後、オッチギン家直属の斡東と双城総管府の多くの条件を活用して自らの勢力を育てた。李成桂は1362年に元の将軍ナガチュとの戦闘で、この先端技術を用いて勝利していると述べている。
尹博士は1388年の威化島回軍も、モンゴルの内部事情に精通している李成桂が、元の軍事力が崩壊したことを把握した上で起こした「旧モンゴル将軍の裏切り」と見るべきだと述べている。従って、李氏朝鮮の建国は朝鮮半島の自生的産物としてだけでは見る事は出来ず、モンゴル帝国の中心地である北東アジアで、13世紀から14世紀に起きた激変の歴史の総体的果実として生まれた王朝が李氏朝鮮であり、李氏朝鮮は表面では親明事大を標榜していたにもかかわらず、パクス・モンゴリカ体制の中心である北方遊牧帝国の伝統を事実上維持し続けていたと述べている。
朝鮮王朝建国までの道程
1356年、高麗の恭愍王は反元政策を掲げ、元に奪われていた領土の収復を推進した[4]。領土奪還のためには全州李氏一族の協力が必要であった[4]。李成桂の父で、当時元の千戸の地位にあった李子春は恭愍王の政策に進んで協力した[4]。恭愍王は双城総管府攻撃の直前に、李子春を開京に呼んで小府尹という高位の官職を与えた[4]。東北面兵馬使柳仁雨率いる高麗軍が双城を攻撃すると、李子春は内部から呼応して高麗軍と共に戦い[4]、双城を容易に陥落させた[4]。 この功により李子春は従二品の位を授かり、東北面兵馬使に任じられ[4]、全州李氏一族は母国に復帰した[4]。
双城陥落から四年後の1360年に李子春は朔方道万戸兼兵馬使に任命されたが[37]、その直後に46歳で亡くなった。既に彼の息子である李成桂は武将となっており、翌年には朴儀の反乱を鎮圧して功を立てている[37]。また、この年に李成桂は二つの大きな戦いを経験している。一つ目は紅巾軍の侵入である。1361年、10万の紅巾軍が南侵して首都開京を占領した[37]。首都奪還戦において2000名を率いて開京一番乗りを果たした[37]。この戦いはその後の李成桂の台頭の始まりとなった[38]。二つ目は元軍との戦いである。双城を奪還のために侵攻してきた元の大軍を咸興平野で殲滅し、ここでも勇名を高めた[39]。
当時の中国遼東地方では、元の権威が弱まったことに乗じて、元人の納哈出(ナガチュ)が行政丞相を自称して強大な勢力をもっていた[37]。納哈出は遼東を支配下に置くと、自ら軍勢を率いて高麗に侵入し、瞬く間に西北部を攻略して三撤(咸鏡南道北青)、忽面(咸鏡南道洪原)にまで迫った[37]。1362年2月、李成桂は東北面兵馬使として納哈出征討を行い、これを撃破して咸関嶺(洪原の西15km)まで追撃したが納哈出を逃してしまった[37]。同年7月、遼東で兵を補った納哈出は再び高麗に侵入したが、再度これを撃破し、納哈出に高麗侵入を断念させた[37]。1363年、元は高麗の態度を不遜だとし、反元の王を廃し、王の叔父である徳興君を王位に就かせようとしたが、高麗は断固としてこの要求を拒んだ[39]。1364年、元は高麗の反逆者崔儒に元兵1万を授けて高麗に侵攻させたが、李成桂は崔瑩らと共に国境近くでこれを殲滅した[39]。この敗北により元は恭愍王の復位を容認して崔儒を高麗に送還し、高麗は元の干渉からほぼ完全に脱却した[40]。そして同年2月、満州から大軍で侵入して和寧(咸鏡南道永興、現在の金野郡)以北を占領していた女真族を李成桂は討伐して領土を奪還した[37]。この女真討伐戦の時に文官として従軍したのが、親友でありながら後に李成桂と対立した鄭夢周である[37]。 李成桂は1370年には東北面元帥として東寧府を攻め、さらには大陸の遼陽城までも制圧した[39]。
南方の対倭寇戦では、1377年に智異山で倭寇を殲滅したことによって名声を確固たるものにし[37]、同年8月にも西海道(黄海道)一帯の倭寇を大破していた[39]。そして1380年倭寇が500隻から成る軍勢で侵入し、その中で最も強力な倭寇の集団が雲峰(全羅北道南原郡)の引月駅を占領したため、高麗側は9人の元帥に攻撃させたが敗北して二人の元帥が死んだ。この事態を受けて李成桂は総指揮官に任命され、首領阿只抜都率いる倭寇を引月駅に進撃してこれを破った(荒山戦闘)[37]。
一連の戦いで名声を得た李成桂のもとには、新興官僚[41]や地方豪族が集まっていくことになる[42]。1388年、明が高麗領である鉄嶺以北の割譲を一方的に通告してきたため、高麗第三十二代国王王禑と崔瑩は遼東地域を支配下に置くことで明の圧力を退けようと計画した[40]。李成桂は右軍都総使に任じられ[1]、前線指揮を担った[43]。李成桂は四つの不可論[44]を理由に出兵を反対していたが、王禑は崔瑩の意見に従い反対論を無視し遠征を開始した[1]。実はこの出兵には遼東支配以外にも新興官僚勢力や李成桂ら武人の勢力を削るという目的があった[40]。王禑は遠征軍の勝利に興味がないと公言し、出征の日に激励の言葉を一つもかけなかった[4]。また、反乱に備えて遠征する武将らの家族は王宮に来させて人質(回軍の時には全員脱出した)とした[4]。
1388年5月、遠征軍は鴨緑江河口の威化島に到達したが、大雨による増水で河を渡ることが出来ず、日が経つにつれて逃亡する兵士が後を絶たず、食糧の補給も難しくなっていた[1]。このような状況を理由に李成桂は撤退を要求したが、これも認められなかったため、李成桂は独自に撤退を開始した(威化島回軍)[1]。回軍を聞いて遠方から2000名以上が李成桂を助けるべく馳せ参じた[4]。また民衆も回軍を歓迎し[4]、李成桂に希望を持つ歌が流行った[45]。一方の高麗朝廷は既に民から見放されており[4]、回軍の報せを受けた崔瑩が抵抗軍を組織しようとしたが集まる者は殆どいなかった[4]。
6月1日に開京に着いた李成桂は、王禑に遠征の責任を問い、崔瑩の処罰を要求した。しかし、王禑は李成桂らを反逆者として、彼らを殺したものに褒賞を与えるという触書を出したため[4]、李成桂は交渉を諦めて王宮を攻め崔瑩を捕虜とした[4]。崔瑩は処刑されずに遠方に流され(二か月後に処刑されている)、王禑は王の地位を失わなかったが、権力を失い名ばかりのものとなった[4]。王禑は王権を取り戻すべく、内侍80名に李成桂らの私邸を襲わせたが失敗して追放され[4]、子の王昌が曹敏修らに擁立されて王位に就いた[4]。
しかし、李成桂らに擁立された恭譲王に1389年、王位を奪われ[1]、王昌と王禑は処刑された。恭譲王も朝鮮王朝樹立の2年後の1394年には李成桂の命令で処刑された(李成桂自身は王氏一族を内地に復帰させて自由に暮らすのを認めようとしていたが、臣下達の強い要請によって処刑せざるを得なかったとされる)[4]。このとき李成桂により王氏(高麗王家)一族の皆殺しも行なわれた。即位の後3年間王氏一族を巨済島などの島々に集めて監視し、1394年4月に一斉に海に投げたり斬殺したりして王氏を虐殺した。元々王氏一族ではなかったが高麗王家から姓を賜った者たちは死は免れたものの、本姓に戻るよう命じられた。王氏一族の一部は姓を変えて隠れることができたが、文宗により王氏掃討の令が解かれた後にも王氏一族の多くは復姓しなかったとされる。文宗の時になって隣人の密告で捕まった王氏が許され一族を継いだが、韓国統計庁が2000年に行なった本貫調査によると開城王氏の人口は2.0万人と極端に少なかった。高麗王家では日本の武家同様、後継者に危害の及ばぬように後継者以外の王子は出家させたり母側の姓にすることが一般的であり王氏の数は元々少なかった上、このときの皆殺しで王氏の数が激減したことも原因とされる。
政治の実権を握った李成桂、鄭道伝、趙浚らは親元的な特権階級、権力と結びつき腐敗した仏教勢力が私有地を拡大したために国庫が尽きている現状を痛烈に批判し、1390年から田制改革を強行した[1]。
1392年7月、国家の方針を決定する都評議使司は新興官僚層が推戴した李成桂に即位を要請し、恭譲王を追放した[1]。「禅譲」の形式による新国家樹立であった[1]。李成桂は、「権知高麗国事」を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言・権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、「権知高麗国事」とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である[46]。このように李成桂は、事実上の王でありながら、「権知高麗国事」を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王(という称号)が与えられたため、高麗が宋と元から王に認めてもらったように、李成桂も明から王に認めてもらうことにより、正式に李氏朝鮮となる。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している[47]。
後継者争いと失意の晩年
李成桂は、八男の李芳碩(神徳王后康氏の子)に後を継がせようとし、神懿王后韓氏を後宮(側室)にした。建国に奔走した神懿王后韓氏の生んだ王子たち、特に五男の李芳遠はその仕打ちに激しく反発し、1398年に反乱を起こした(第一次王子の乱)。これにより、芳碩と功臣鄭道伝が五男の李芳遠に殺されてしまうと、李成桂は芳遠の奨める次男の李芳果(定宗)に譲位し、退位してしまう。その後も李成桂の王子達の反目は続き、1400年、今度は四男の李芳幹が反乱を起こす(第二次王子の乱)。この乱は李芳遠によって鎮圧され、乱後に李芳遠は定宗から王位を譲位され即位した(太宗)。 長男から六男までが神懿王后韓氏の子で、七男と八男が、神徳王后康氏の子である 李成桂は自分の息子達の争いに嫌気がさし咸興に引きこもって仏門に帰依した。1402年、神徳王后康氏の親戚であった安邊府使の趙思義がむごい仕打ちを受けた神徳王后康氏の仇を討つべしと咸鏡道の豪族たちを率いて決起した。(趙思義の乱) 太宗に恨みがあった李成桂もこれを後ろで支持したとされる。乱が鎮圧された後、李成桂は太宗と和解してソウルに帰って来て、国璽を太宗に授け正式に朝鮮王として認めた。太宗は父から後継者として認められようと咸興に使者(差使)を送ったが李成桂はソウルから差使が来る度に遠くから矢で射て殺してしまったとされ、そこから任務を遂行しようと行ったが帰って来ない人またはそんな事を示して「咸興差使」という言葉が生じた。しかしこれはあくまで伝説であり、最後の咸興差使としてもっとも有名な朴淳は実は趙思義の乱に加わった都巡問使の朴蔓を説得するべく戦地に向かい殺されている。[48]その後李成桂は政治には関心を持たず念仏三昧の生活をしていたと言う。
1408年、74歳で薨去した。御陵は健元陵(京畿道九里市、東九陵の一つ)である。また李成桂は自分を神徳王后康氏と一緒に葬るべしとの遺言を残したが、神徳王后を恨んだ太宗はこれを守らなかったため神徳王后は健元陵に葬られることはなく、御陵は都の外へ移された後破壊されその墓石は橋の修理に使われ民がこれを踏みにじると言う酷い侮辱を受けた。
伝説
李成桂の生誕については神秘的な伝説に彩られている。あるとき父李子春の夢枕に老翁が現われた。老翁が語るには「我は白頭山の神仙である。もしお前たち夫妻が100日間祈願参籠をするならば、生まれた子供は後に天下を頂くことになるであろう」。夢から覚めた李子春は霊夢にしたがって妻・崔氏とともに白頭山に100日間の祈願参籠を行った。そして100日満願の翌日、李子春はまた霊夢を見た。今度は天界で五色雲に乗って天女が下降った。その天女は李子春に拝礼すると「この品物を受け取ってください。やがて後日東国を測量する時必要になるでしょう」と言って、袖の中から尺を取り出した。李子春がその尺を受け取ったところで、夢から覚めた。翌日、妻・崔氏が身籠もったことがわかった。崔氏は13か月後男児を生んだが、その赤ん坊が李成桂である。
今の北朝鮮江原道安邊郡の釋王寺にも李成桂にまつわる有名な伝説がある。若い頃李成桂は安邊郡で昼寝をしたが、自分が垂木を三つ背負い、花が落ち、鏡が割れる夢を見た。近所の洞窟にいた修行僧にこの夢の意味を問いかけたところ、僧は「人が垂木を三つ背負うと王の字になり、花が落ちれば果実が実り、鏡が割れると音がする。これはあなたが王になるという瑞夢である」と言った。この高僧こそが生涯李成桂の師となった無学法師であると伝えられている。李成桂は彼と巡り会ったことを深く感謝し、王になった後寺を建て「王になる夢を解釈した寺」という意味で釋王寺と名づけた。
李成桂は在世に「伝御刀」という刀を使ったが、この刀は父李子春が先祖の墓にあったものを李成桂に与えたと伝えられている。李成桂はその刀で先祖の墓を侵犯した妖物を倒した。また竜王の子孫である禑王と闘った時も伝御刀を用いたが、禑王を倒すやいなや伝御刀は泣きながら刃がこわれたと言う。その後伝御刀は誰も直すことができず、その行方は伝わっていない。そして李成桂のもう一つの武器の「御角弓」という弓とスモモで作った矢は現在北朝鮮で保管している。
李成桂が戦時に騎乗した駿馬の名が8頭伝わっている。その名前を順番どおり列挙すれば「横雲鶻」、「游麟青」、「追風烏」、「発電赭」、「龍騰紫」、「凝霜白」、「獅子黄」、「玄豹」である。後に世宗は画家安堅には八駿馬の姿を描くように、「集賢殿」の楽士らには賛を作曲するように勅した。
人物
高麗一の弓の達人として名高い。朝鮮王朝実録では朝鮮王朝の太祖に対する崇拝や誇張を考慮に入れるとしても彼の武勇に疑いの余地はなく、指揮官としての実力もあるが彼の個人的武勇、特に弓の腕を称える史料が多い。
- 何種類もの弓矢の扱いに優れ、李成桂とたびたび弓の腕を競っている義兄弟の李之蘭は「公は天才なり、人力の及ぶ所に非ず」と言った。
- 海州での戦いで17人の倭寇の兵を射殺して「全て左目のあたりを狙ってある」と言い、兵が敵の死体を確かめるとその通りであった。
- かつては同志であった崔瑩と客をもて成し宴会をすると、崔瑩はいつも「わしは麺をご馳走しよう。そなたは肉の類を用意されよ」と言った。李成桂は軽く承諾して必ず酒肴の獲物を取ってきた。ある日は狩りの途中峠から獐(ノロ)が現れ崖を下ってゆくと、兵たちは険しい崖を降りられず遠回りをして崖の下で待っていた。しかし李成桂は馬を走らせまっすぐその崖を下りながら一気に鏑矢を以てその獐を射止め、兵たちを驚愕させた。実録によると「その勢い迅雷の如く、甚だ遠くへ去った獐を射て正中、これを斃せり」とあり、部下にそれを聞き驚いた崔瑩は李成桂を褒め称えた。
- 荒山の戦いでは倭寇軍の大将阿只抜都が槍を振るって高麗兵をなぎ倒す様を見てその武勇を惜しんだ李成桂は李之蘭に生け捕りにするよう命じたが、それでは味方の犠牲が出るとのことで生け捕りは諦めた。しかし射殺しようとしても阿只抜都の鎧や兜に全く隙が無く、李之蘭に「わしがやつの兜の緒を切り兜を落とす故、その間にやつを射殺せよ」と言った。李成桂はまず馬を走らせ兜の緒を射て切り落とし、阿只抜都が地に落ちかけた兜をかぶり直したのでまた兜を射て完全に脱がした。李之蘭がその隙を逃さず阿只抜都を射殺し、それを見た倭寇軍の士気が下がり潰走し始めたのでこれを追撃し山に追い込んで四面から包囲して撃滅し大勝利を収めることができた。
- 第二次王子の乱の後、王位継承を認めてもらうため太宗が送った使者を片っ端から射殺したと言う「咸興差使」の故事もあるが、これは後の創作である。
情け深い人物としても知られる。当時の武将は気性の激しい人が多く、崔瑩・邊安烈などの武将は幕僚や兵を酷く叱ったり打ち殺したりするほどであったが、李成桂は決して配下の者に声を荒らげることが無く威厳はあっても兵や幕僚に優しかったため人々に親しまれた。また権勢を振るう李仁任やその部下の林堅味・廉興邦などの奸臣を粛清した時彼らの一族郎党を皆殺しにしていた崔瑩に罪の軽い者の助命を頼んだが断られた。母違いの兄弟たちも分け隔てなく厚遇し、彼らの母の卑しい身分を証明する書類を焼いて捨てた。
後継者の太宗・李芳遠との仲は李成桂の息子たちや婿を殺された恨みもあって極めて険悪であったが、後に形式上の和睦をしている。燃藜室記述によると太宗は咸興から帰った李成桂を迎えるため自ら野外で宴を用意したが、太宗の幕僚であった河崙が「上王(李成桂)の怒りいまだ解けず、どんなことにも備えなければなりませぬ。天幕を立てる柱は図太いものになされよ」と助言した。宴が始まり太宗が現れた途端李成桂は突如弓を取り太宗を射たが、太宗は予め立てた太い柱の後ろに隠れて何とか無傷で済んだ。宴の最中、李成桂は王の玉璽を取り出し「お主の欲しがっている物はこれであろう、取りにまいれ」と言った。これを聞いた太宗が李成桂に酒をつぎに行こうとしたら河崙はまたこれを止め、「酒をつぐことは御自らなさらず、宦官の者にお任せあれ」と言った。李成桂は太宗が近づけば隠し持った鉄槌でたたき殺すつもりでいたが、太宗は近寄らず自分の代わりに宦官に酒をつがせた。それを見た李成桂は袖の下から鉄槌を取り出して投げ捨てながら「これは天のなせる業にあらずや」と言い、太宗を殺すことをついに諦めたとされる。
郷妻の神懿王后韓氏と京妻の神徳王后康氏など二人の妻を持った。当時の武将や貴族は故郷で娶りそこに済む普通の妻である郷妻(ヒャンチョ)と、出世した後貴族の家から政略結婚で娶り都に住む京妻(ギョンチョ)の二種類の妻を持ち二人を同じく正室として待遇することが一般的であったが、李成桂は京妻の神徳王后康氏を愛し、死んだ郷妻の神懿王后韓氏を後宮(側室)に降格したり、神懿王后が生んだ息子たちが建国に大いに貢献したにも関わらず彼らを冷遇したため、後継者争いの原因になった。
仏教を深く信仰した。自分は出家しなかったものの、第一次王子の乱の時夫を殺された娘の慶順公主を自ら出家させ、義兄弟の李之蘭も戦場での殺生を悔やみ出家している。また自らは王子の乱で無残に殺された息子たちを思いいつも彼らの供養をしていた。実録によると、李成桂は咸興から戻ってもソウルに来ることなく逍遥山に泊まり念仏をしていた。都へ戻るよう説得しに来た使者の成石璘が「念仏読経にあたり、なぜ逍遥山にそこまでお拘りになりますか」と聞いたところ、李成桂は「そなたらの意は知れておる。わしが仏を好むは他に非ず、ただ二人の息子と一人の婿のためなり。」と言って、空に向かって「我らはすでに西方浄土へ向かっている」と悲痛に叫んだという。
高麗の継承
王位に就いた壬申年7月17日(旧暦)、つまり1392年8月3日(陽暦)から癸酉年2月14日、つまり西暦1393年3月26日まで李成桂は形式上では高麗の王だった。 1393年3月27日から正式に朝鮮王だった。 実際には高麗王朝を崩しながらも、形式的には高麗王朝を受け継ぎ、朝鮮を立てる形を取ったのだ。一言で、合法的な強度の形式をとったのである。[49]
年表
- 1335年:和寧府(永興:現在の咸鏡南道金野郡附近 双城総管府のあった所)で、元のダルガチ李子春の次男として産まれる。
- 1357年:父とともに高麗に寝返り、双城総管府陥落の手引を行なう。
- 1360年:父の死とともに高麗の官吏になる。
- 1362年:咸鏡道に入り込んだ納哈出(ナハチュ)軍を撃退する。
- 1363年:元は、恭愍王を廃位し、代わりに徳興君を王位に建てようとする。
- 1369年:満州地域に侵略する為に遠征を行う。
- 1376年:倭寇が忠清道公州を落とし開京が危機に陥ったため倭寇討伐に赴く。
- 1380年:倭寇の首領アキバツ(阿只抜都)の軍を雲峰で撃退した(荒山戦闘)。
- 1382年:女直のホバツが朝鮮東北部を荒らしたのでこれを撃退した。
- 1385年:咸州に入り込んだ倭寇を撃退。
- 1388年:李成桂は第32代高麗王王禑から遼東半島の明軍討伐の命を受けるも、兵を都の開京(開城)へ向け軍事クーデターを起こし、高麗の権力を掌握する。(威化島回軍)王禑を退位させ、王禑の子王昌を第33代高麗王に擁立する。
- 1389年:王昌を父王禑とともに殺害し、第20代神宗の7代孫を恭譲王として第34代高麗王に擁立する。
- 1392年:恭譲王を廃位して、高麗王として即位。(権知高麗国事)
- 1393年:明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が「国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、高麗のほうでは「朝鮮」(朝の静けさの国)と「和寧」(平和の国)の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。「和寧」は北元の本拠地カラコルムの別名であったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王国の名前である「朝鮮」を選んだ、そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。[50]
- 1394年:漢陽(漢城、今のソウル)に遷都。 杆城に追放していた恭譲王を謀反の疑いを理由にその子とともに殺害する。
- 1398年:李成桂は八男の芳碩を後継にしようとしたが、五男の芳遠が反乱を起こし芳碩を殺してしまう(第一次王子の乱)この時病床にありこの争いに嫌気が差した李成桂は、国事を放棄し、芳遠の推挙した次男の芳果(定宗)に国事を譲る。
- 1399年:開城へ再遷都。
- 1400年:定宗の弟、李成桂の四男である芳幹が第二次王子の乱を起こし、その鎮圧に功の有った芳遠(太宗)に定宗は国事を譲位する。李成桂は、ショックで咸州に引きこもってしまう。漢陽に再々遷都する。
- 1401年:明から正式に国王号が認められる。
- 1402年:太宗と和解し、漢陽に戻る。
- 1408年:死去(73歳)。晩年は念仏三昧の日々を送ったという。
宗室
父母
兄弟
后妃
高麗時代は一夫多妻制であり、故郷に住む第一夫人が神懿王后韓氏、神徳王后康氏は、都の開京に住む第二夫人であった。
後宮
王子
神懿王后韓氏所生
神徳王后康氏所生
王女
- 慶慎公主(?-1426年。上黨府院君 景粛公 李薆に降嫁。1男を儲けた。)
- 慶善公主(靑原君 沈淙に降嫁。1女を儲けた。)以上は神懿王后韓氏の娘
- 慶順公主(?-1407年。神徳王后康氏の娘。興安君 李済に降嫁。)
- 宜寧翁主(?-1466年。賛徳周氏の娘。啓川尉 李䔲に降嫁。4男3女を儲けた。)
- 淑慎翁主(?-1453年。和義翁主金氏の娘。唐城尉 洪海に降嫁。3男1女を儲けた。)
李成桂が登場する作品
- 開国 - 韓国KBSで1983年に放送。李成桂の生涯を描いている。演:イム・ドンジン。
- 龍の涙 - 韓国KBSで1996年から1998年にかけて放送。威化島回軍から朝鮮を建国し、没するまで晩年の姿が描かれている。演:キム・ムセン。
- 辛旽 高麗中興の功臣 - 2005-2006年、韓国MBCで放送。高麗の武将として権力を握っていく過程が描かれている。演:イ・ジヌ。
- 大風水 - 2012.10.10~2013.02.07-韓国SBSで放送。高麗の武将として朝鮮を建国するまでの過程が描かれている。演:チ・ジニ。
- 鄭道伝 - 韓国KBSで2014年放送中。倭寇を滅ぼした武将の彼が次第に民の苦痛に共感し始め、朝鮮の建国へと進んでいく過程が描かれている。演:ユ・ドングン。
脚注
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 姜(2006)
- ↑ 太祖實錄 總序によれば、「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。
- ↑ 3.0 3.1 “김성회의 뿌리를 찾아서 <17> 전주이씨(全州李氏)”. 世界日報. (2011年10月9日). オリジナルの2017年9月16日時点によるアーカイブ。
- ↑ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 4.13 4.14 4.15 4.16 4.17 4.18 4.19 4.20 4.21 4.22 4.23 4.24 李(2006)
- ↑ *李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、78 - 79頁より引用
- ↑ 6.0 6.1 6.2 「壬辰倭乱、ヌルハチと朝鮮 2」、Kdaily(韓国語)、2007年2月8日
- ↑ 『国朝紀年』「貞淑王后崔氏籍登州」
- ↑ 『東国輿地勝覧』巻48『定陵碑』「皇曾祖諱行里、襲封千戸、今封翼王、陵號曰智、配登州崔氏、今封貞妃、陵號曰淑」
- ↑ 元々、高麗の領土であったが、1258年のモンゴル軍の第四次侵略において、高麗の土着の豪族が投降する動きがあり、これに対応してモンゴルは、和州(永興)に設置し、周辺を領土化した。 村井(1999)
- ↑ 斗山世界大百科事典
- ↑ 韓国民族文化大百科事典
- ↑ 12.0 12.1 「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』人物往来社、1967年、p153
- ↑ 池内宏「李朝の四祖の伝説とその構成」『満鮮史研究 近世編』中央公論美術出版、1972年、p29
- ↑ 六反田豊 1986, p. 45
- ↑ 六反田豊 1986, p. 77
- ↑ 韓国民族文化大百科事典
- ↑ 斗山世界大百科事典
- ↑ 倉山満『嘘だらけの日韓近現代史』、扶桑社、2013年、34頁
- ↑ 池内宏「鮮初の東北境と女真との関係」
- ↑ 岡田英弘『皇帝たちの中国』
- ↑ 宮脇淳子『世界史のなかの満州帝国』
- ↑ 宮家邦彦『哀しき半島国家韓国の結末』、PHP研究所、2014年、160頁「李氏朝鮮は1392年、元が衰退したのちに親『明』であった女真族の李成桂が建国し、コリア半島をほぼ制圧したあと、1402年に明に朝貢・冊封した。」
- ↑ 豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』、彩図社、2015年、70頁「倭寇の撃退に功績をあげた李成桂は1392年、高麗を倒して朝鮮を建国。漢城(現ソウル)に都をおいた。出身については、女真族だったと主張する研究者も多い。出身地が女真居住地域だったこと、李成桂がモンゴル名を持っていたこと、幕下に女真の首領を加えたことなど、数々の傍証がある。」
- ↑ 武田幸男編『朝鮮史』山川出版社
- ↑ 『日韓がタブーにする半島の歴史』新潮新書
- ↑ 岸本美緒/宮嶋博史「明清と李朝の時代」『世界の歴史 12』ISBN 9784124034127、p17、p247 中央公論社、1998年
- ↑ 伊藤英人「朝鮮半島における言語接触」東京外国語大学語学研究所論集、第18号、p79
- ↑ 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 岡田英弘宮脇淳子研究室『論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である』
- ↑ 29.0 29.1 平凡社『アジア歴史事典』太祖(李朝)の項(末松保和)
- ↑ 池内宏「李朝の四祖の伝説とその構成」『満鮮史研究 近世編』中央公論美術出版、1972年、p37
- ↑ 31.0 31.1 31.2 31.3 31.4 31.5 31.6 池内宏「李朝の四祖の伝説とその構成」
- ↑ 『李朝太祖実録』巻七
- ↑ 『李朝太祖実録』巻十四、七年閏五月および六月の條
- ↑ 「李成桂の家系はモンゴル軍閥」, 朝鮮日報, 2009/10/04.
- ↑ (朝鮮語) 이성계는 몽골군벌이었다, 朝鮮日報, 2006.09.04.
- ↑ (朝鮮語) 보르지기다이 에르데니 바타르 (ボルジギダイ・エルデニ・バタル) 『팍스몽골리카와 고려 (パックス・モンゴリカと高麗)』, 혜안 (2009/08). ISBN 9788984943674
- ↑ 37.00 37.01 37.02 37.03 37.04 37.05 37.06 37.07 37.08 37.09 37.10 37.11 麗(1989)
- ↑ 伊藤(1986)
- ↑ 39.0 39.1 39.2 39.3 39.4 李(1989)
- ↑ 40.0 40.1 40.2 水野(2007)
- ↑ 儒教の知識を持ち、腐敗した仏教勢力やこれに連なる貴族が有する膨大な土地と人を国家に取り戻すことなどを訴えた。 李(2006)
- ↑ 旗田(1974)
- ↑ 金(2002)
- ↑ 第一は小を以て大に逆らうのが不可であり、第二は夏に軍を動員するのが不可であり、第三は国を挙げて遠征すれば、倭寇がその虚に乗じてくるから不可であり、第四は暑くて雨の多い時に当たり、弓弩の膠(にかわ)が解け、大軍が疫疾にかかりやすいから不可である(姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』朝日新聞社、2006年、120頁より引用)
- ↑ 平壌城では火が燃えさかり、安州城の外では煙が立ちこめている。平壌と安州の間を往復する李将軍よ、願わくは蒼生(人民)を救いたまえ。(李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、57頁 - 58頁より引用)
- ↑ 小島毅『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p129
- ↑ 小島毅『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p130
- ↑ 太宗實錄 2年の記事。「遣上護軍朴淳于東北面, 被殺于彼軍中。 淳至咸州, 敎都巡問使朴蔓及州郡守令, 勿從思義, 遂被殺于彼軍中。」
- ↑ 정도전은 왜 이성계를 왕으로 만들었을까
- ↑ 『世界各国史17朝鮮史』武田幸男 143頁
- ↑ “大君”の称号ができたのは1401年(太宗元年)。
参考文献
- 伊藤亜人他監修平凡社編『朝鮮を知る事典』平凡社、1986年
- 岡田英弘『モンゴル帝国の興亡』ちくま新書、2001年
- 岡田英弘・宮脇淳子研究室『論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である』
- 姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』朝日新聞社、2006年
- 金素天『韓国史のなかの100人』前田真彦訳、明石書店、2002年
- 武田幸男編訳『高麗史日本伝(下)』岩波文庫、2005年
- 朝鮮史研究会編著旗田巍編修代表『朝鮮の歴史』、三省堂、1974年
- 宮脇淳子『世界史のなかの満州帝国』PHP出版、2006年
- 村井章介『中世日本の内と外』筑摩書房、1999年
- 李殷直『朝鮮名人伝』明石書店、1989年
- 李景珉監修水野俊平著『韓国の歴史』河出書房新社、2007年
- 李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年
- 麗羅『人物韓国史(上)』徳間文庫、1989年
- 六反田豊 『定陵碑文の改撰論議と桓祖庶系の排除 : 李朝初期政治史の一断面』 九州大学文学部東洋史研究会〈九州大学東洋史論集 15〉、1986-12。
- ネイバー知識検索 의혜왕후 懿恵王后. 韓国民族文化大百科事典.
- ネイバー知識検索 의혜왕후 懿惠王后. 斗山世界大百科事典.