末松義規
末松 義規(すえまつ よしのり、1956年12月6日 – )は、日本の政治家、元外交官。立憲民主党所属の衆議院議員(6期)。
復興副大臣兼内閣府副大臣(野田改造内閣)、内閣総理大臣補佐官、内閣府副大臣(菅第1次改造内閣・菅第2次改造内閣)などを歴任。
Contents
概要
略歴
福岡県北九州市八幡西区引野に生まれる。北九州市立引野小学校、北九州市立引野中学校、福岡県立東筑高等学校、一橋大学商学部卒業。大学在学中は少林寺拳法部及び法学部の皆川洸ゼミ(国際法)に所属。少林寺拳法黒帯[1][2]。
外務省職員
大学4年次に外務公務員採用上級試験に合格。1980年、大学を卒業し外務省に入省[1]。同期に石井正文、片上慶一、越川和彦、井出敬二、須永和男、小原雅博、高橋礼一郎、山田文比古、山崎純、水谷章らがいる。
大学では中国語を学んでいたが、外務省ではイラン・イラク戦争の担当課に配属される。大学も同期の齊藤貢とともにアラビア語研修組に選ばれ、シリア、エジプトでの研修を経て、1983年から在アメリカ合衆国日本国大使館に所属。プリンストン大学中東学部大学院修士課程に留学し、1986年に修了した。在イラク日本国大使館二等書記官を経て、1986年通商産業省資源エネルギー庁石油部計画課国際石油問題担当に出向[1]。
外務省中近東アフリカ局中近東第二課首席事務官を経て、1994年5月、同経済協力局調査計画課首席事務官を最後に退官。
衆議院議員
その後、旧東京7区選出の菅直人から後継指名を受け、1996年の第41回衆議院議員総選挙に東京19区から旧民主党公認で出馬し、新進党の渡辺浩一郎らを破り、初当選(菅は同じく旧東京7区に含まれる東京18区から出馬し、当選)。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では東京19区で3選。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、自由民主党の松本洋平に小選挙区で敗れたが、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し4選。
2008年、衆議院青少年問題に関する特別委員会委員長に就任。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、前回敗れた松本に比例復活すら許さず、5選。同年衆議院消費者問題に関する特別委員会委員長に就任。
2010年9月、菅第1次改造内閣で内閣府副大臣(消費者問題・沖縄政策・北方領土対策、海洋政策、食品安全、少子化対策、男女共同参画、ワーク・ライフ・バランス推進、自殺対策、共生社会政策)に就任。翌2011年1月に発足した菅第2次改造内閣でも再任された。
2011年6月27日、東日本大震災復興対策本部宮城現地対策本部長に就任。同年9月5日、野田内閣の内閣総理大臣補佐官(東日本大震災復興対策担当)に任命された。同年10月3日、内閣総理大臣補佐官の担当に、少子化対策及び自殺対策担当が加わる。
2012年2月10日、復興副大臣兼内閣府副大臣に就任。同年10月29日、衆議院東日本大震災復興特別委員会委員長に就任。
2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では松本に敗れ、比例復活ならず落選。
2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙では再び松本に敗れ、比例復活ならず落選[3]。
2016年武蔵野大学客員教授[4]。また、一橋大学法学部や早稲田大学国際教養学部で外部講師として教鞭を執った[1]。
2017年9月25日、民進党に離党届を提出した[5]。10月22日の第48回衆議院議員総選挙では立憲民主党公認で出馬し、松本に敗れるも比例復活で当選[6]。
活動
消費者庁副大臣として
- 2010年10月、日本農林規格違反の農林水産省の処分のほとんどが非公表になっている問題について、法の運用を厳しくする方針を表明した[7]。
- 2010年12月、こんにゃくゼリーによる窒息事故を防止するため、こんにゃくゼリーの安全指標を発表した[8]。
沖縄政策担当副大臣として
- 菅内閣の政務三役は普天間基地移設問題などの解決を求めて上京した沖縄県の自治体首長との面会を拒絶していたが、国民新党幹事長の下地幹郎らの仲介によって、末松と浦添市長の儀間光男らの会談が実現した[9]。
- 2010年10月、尖閣諸島中国漁船衝突事件が起きた八重山列島、石垣島や西表島を訪問。地元自治体の首長らと会談した。市長らから、尖閣諸島に上陸視察の実施を要望されるが、末松は「検討している」と述べて退けた[10]。
- 2010年10月、泡瀬干潟の埋め立て事業の中止を求めて訪問してきたWWFジャパン、日本野鳥の会などの市民団体(参議院議員の大河原雅子が同伴)に対して、埋め立て事業は継続する考えを表明し、[11]11月に泡瀬干潟の埋め立て事業の早期実現の要請を沖縄市長の東門美津子から受けると、事業推進を約束した[12]。
北方領土対策副大臣として
- 2010年11月、ロシア大統領のドミートリー・メドヴェージェフが国後島を訪問して北方領土がロシアの領土であると国内外に向けてアピールしたことに対抗して、末松は北方領土が視察できる北海道根室市納沙布岬を訪問した。しかし、到着が日没を過ぎていたため、視察を中止した[13]。
- 2010年11月7日、北方領土の元島民らと懇談し、北方領土問題の早期解決を求められると「地元の声を外交当局や官邸に伝えたい」と表明した[14]が、同11日に出演したテレビ番組では、2008年にロシアが中国と正式画定させた国境交渉では「お互いに痛み分けで半分ずつにしている」「4島返還はロシア側にとって完璧な負け」であるとし、「今やれば(日本が求める)4島全部は取れない。タイミングをずっと延ばして一世代待ち、日本側が有利なタイミングを見るしかない」と反対の意向を表明した[15]。この発言について根室市議会から抗議を受け末松は「ウィン・ウィン(双方が勝者になる形)の関係による合意」やパレスチナ問題を例に挙げ「日本人みたいに性急ではなく、孫の代も考えてやっている」と釈明したが、市議会は「(北方領土は)ロシアの不当な占拠であり、ウィン・ウィンを前提とするのはやめてほしい」「パレスチナ問題とは状況が違う」と反論された[16]。
復興副大臣として
- 2012年2月10日、復興副大臣兼内閣府副大臣に任命される。
- 2012年3月2日、茨城県知事の橋本昌と茨城県庁で会談し、液状化対策や、防災林整備等の要望を受けた。
- 2012年3月21日、千葉県を視察し、香取市長の宇井成一など3市長及び千葉県知事の森田健作と会談。液状化被害への対応支援などを求められ、復興交付金交付に応じる考えを表明した[17]。
- 2012年4月28日、在京韓国大使館の公使と東日本大震災の復興事業に韓国企業が参加する方法について会談を行った[18]。
- 2012年6月1日、第2回在日韓国人経済人大会に参加し、東日本大震災に対する韓国からの支援に謝意を伝えた。また、復興交付金に1兆8000億円を計上されていることや、減税優遇される復興特区に関する手続き等について詳しく説明し、韓国企業に対して復興事業への参加を呼びかけた[19][20]。
防災担当副大臣として
- 2012年2月、防災担当の内閣府副大臣に就任。29日、北海道における大雪被害の状況を視察し、高橋はるみ北海道知事などと会談した。5月には、つくば市で起きた竜巻災害を受け関係省庁局長級会議の座長に就任し、現地の視察を行った。
外務部会長として
政策・主張
内政
- 国旗及び国歌に関する法律の採決でに反対票を投じた[22]。
- 衆議院青少年問題特別委員長として、ひきこもりやフリーター現象を将来の国家危機と捉え、問題解決に着手したと自身のホームページで主張している[23]。
- 民主党の「次の内閣:環境大臣」として、地球温暖化防止対策基本法案の策定等に尽力したと自身のホームページで主張している[24]。
- 選択的夫婦別姓制度導入について、「どちらとも言えない」としている[25]。一方、選択的夫婦別姓制度導入を求める請願を提出している[26]。
日韓関係
- 2004年12月12日、日韓からアジアの新機軸を考える会を発足させ、会長に就任した[27]。会の創立式の後、末松は西大門刑務所を参拝・顕花し、刑務所施設を見学した後「胸が締め付けられる思いだ」と述べた[28]。
- 2007年12月7日に開催された、民主平和統一諮問会議日本地域事務処が主催する、第13期民主平和統一諮問会議「2007平和統一フォーラムin東京」席上で、「拉致問題で日本国民の対北朝鮮不信が高まっている」と指摘、「日本が制裁を解き、しっかりとした交流を行い国交正常化を推進するには、核問題の進展とあわせて、北朝鮮の指導者には、拉致問題で誠意ある形の絵姿を示すことが求められている」と述べた[29]。
外国人参政権
- 2008年1月、在日韓国人等に参政権を付与することを目的とする「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」に参加。また民主党日韓議員交流委員会の事務総長を務める。
- 2008年5月30日の在日本大韓民国民団栃木県本部(金一雄団長)と栃木韓国商工会議所(陳賢徳会長)の会合で、白眞勲と共に、小沢一郎代表(当時)の諮問機関として「永住外国人の地方選挙権検討委員会」(渡部恒三委員長)設置の動きを報告し、「住民の声を政治に反映させるのが政治家の務め。皆さんの参政権獲得の思いを、これまで以上に政治家の出身選挙区でぶつけることが獲得への近道だ」と述べた。また、反対派の提案する「帰化推進」策については、「参政権と同列に扱う問題ではない」とした上で、「帰化しない者に対する新たな差別が起きる。帰化するかしないかを踏み絵にすべきではない」と述べた[30]。
- 2009年11月26日、東京・永田町の衆議院第1議員会館で、在日本大韓民国青年会や在日本大韓民国民団が主催する「永住外国人の地方参政権法案の早期立法化を求める11・26緊急院内集会」に・小川敏夫・渡辺浩一郎・手塚仁雄・初鹿明博・白眞勲・近藤正道・魚住裕一郎・鰐淵洋子・笠井亮と共に参加し、在日外国人の参政権法案を早期に成立させる決意表明をした[31]。
- 2010年1月22日、日本テレビで放送された「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」の中で、永住外国人の地方参政権問題に関して、「(地方参政権について)マニフェストにも載せた」という主旨の発言をしているが、2009年民主党のマニフェストにはこれに関する記述は見られない[32]。
- 2010年11月に歴代副大臣として初めて外国人集住都市会議に参加。鈴木康友浜松市長らと意見交換を行い、日本語学習機会を保障する制度導入などを求められたが、「国民全体で議論するために世論を喚起していく必要がある」と応え、外国人庁の設置については長期的な課題であるとの位置づけを示した[33]。
国防政策
- 将来的に高度電磁波バリア、高度レーザー、サイバー高度技術などにより、攻撃国の中枢機能・兵器体系を無力化することで、日本本土を防衛することを提案している。日本をレーザー防衛する構想(ABL:エア・ボーン・レーザー)を研究・推進しており、そのための米国視察なども行っている[34]。
自由民主党について
自身のホームページで以下のような批判を行っている[35]。
- 霞が関の官僚機構が、政治の世界まで牛耳ってきたため、国民が求める政治がずっと不可能になっており、官僚の天下りや無駄遣いなどが横行した。しかし、自由民主党は無策だった。
- 新型インフルエンザや北朝鮮の弾道ミサイル危機に対して、自由民主党は無策で国家危機管理ができていなかった。
所属団体・議員連盟
エピソード
- 2007年7月18日、自身のブログにて新潟中越沖地震の被災地視察を報告したが、渡部恒三を水戸光圀、自身を渥美格之進に見立てて「黄門様の珍道中」と表現した[37]。
- 2008年9月、民主党の小選挙区世論調査の結果が悪かったため、第44回衆議院議員総選挙で民主党の一次公認リストから外れた。同年10月21日公認。
- 2010年の第22回参議院議員通常選挙では小川敏夫の選挙対策本部長を務めた。
- 趣味は、旅行・神社巡り・少林寺拳法・アラビア語[38]
- 好きな食べ物は、玄米菜食・たこ焼き・お好み焼き・焼きいも[38]
- 2015年6月、中国山東大学を訪問。
著書
- 『ボクが外交官を棄てた理由』(1994・KKベストセラーズ)
- 『政治のしくみ』(1994・明日香出版)
- 『大和・再光』(2003)
- 『いま、日本にある危機と希望』(ワニ・プラス)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 「末松義規ってどんな人? | 末松義規の公式サポーターサイト」
- ↑ 末松義規ってどんな人? | 末松義規の公式サポーターサイト
- ↑ 東京 - 開票速報 - 2014衆院選:朝日新聞デジタル
- ↑ [1]
- ↑ 民進党 公認内定の末松氏が離党届 柿沢氏も検討毎日新聞 2017年9月25日
- ↑ 東京ブロック(比例区)-開票速報-2017衆議院選挙(衆院選):朝日新聞デジタル
- ↑ 産経新聞2010.10.27
- ↑ 産経新聞 2010.12.22
- ↑ 門前払いを反省 菅内閣の政務三役、沖縄首長と次々面会(朝日新聞 2010年11月12日20時19分) [2]
- ↑ 沖縄タイムズ2010年10月27日
- ↑ 。 泡瀬沖合埋め立て事業継続方針示す 市民団体要請に末松副大臣 - 琉球新報[3]
- ↑ 泡瀬埋め立て 事業推進「支える」 沖縄市長要請に末松副大臣 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース [4]
- ↑ 末松副大臣が元島民と懇談 「地元の声官邸に伝える」 - 共同通信(2010/11/07 18:37)[5]
- ↑ 末松副大臣が元島民と懇談 「地元の声官邸に伝える」 - 共同通信(2010/11/07 18:37)[6]
- ↑ 「一世代待つしかない」 北方四島返還で末松副大臣 - 産経新聞(2010.11.12 00:09) [7]
- ↑ 北海道新聞 「末松副大臣の「返還は1世代待つべき」発言に、根室市議団猛反発…「ロシアの不当な占拠。ウィン・ウィンを前提とするな」[8]
- ↑ 産経新聞2012.3.21 交付金「次は満足してもらえる」復興副大臣が被災地視察 [9]
- ↑ 末松義規のブログ
- ↑ “<在日韓国経済人大会>被災地復興へ参加を…復興庁が呼びかけ”. 民団新聞. (2012年6月13日) . 2012閲覧.
- ↑ 末松義規のブログ
- ↑ ミラン・フプツェイ駐在朝鮮民主主義人民共和国チェコ大使と拉致問題対策本部・合同部会が意見交換 - 立憲民主党
- ↑ 第145回国会 本会議 第47号
- ↑ 衆議院議員 末松義規
- ↑ 衆議院議員 末松義規
- ↑ 朝日新聞、2014年衆院選、朝日・東大谷口研究室共同調査
- ↑ 第140回国会 請願1185号
- ↑ 韓日議員らによる「アジア平和連帯」が発足 2004年12月12日16時37分 中央日報日本語版 [10]
- ↑ "日本の議員が西大門刑務所を「参拝」" 中央日報2004年12月19日18時15分 [11]
- ↑ 『民団新聞』<平和統一フォーラム>北韓核問題中心に論議 2007-12-20
- ↑ 『民団新聞』民主党2議員招き講演会 栃木民団と韓商 2008-06-11
- ↑ フォーラム平和・人権・環境『永住外国人の地方参政権法案の早期立法化を求める緊急院内集会』[12]
- ↑ 在日朝鮮人との共生社会を実現したい
- ↑ 中日新聞2010年11月9日
- ↑ 衆議院議員 末松義規ホームページ [13]
- ↑ 衆議院議員 末松義規
- ↑ “委員”. 日本国際フォーラム. . 2014閲覧.
- ↑ 末松代議士ブログ、「被災地視察珍道中」で「炎上」(J-CASTニュース) - livedoor ニュース
- ↑ 38.0 38.1 公式プロフィール
関連項目
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代: (創設) |
復興副大臣 松下忠洋、中塚一宏と共同 2012年 |
次代: 黄川田徹 今野東 前川清成 |
先代: 東祥三 末松義規 平野達男 山口壮 |
内閣府副大臣 石田勝之、後藤斎、中塚一宏、松下忠洋と共同 2012年 |
次代: 白眞勲 藤本祐司 前川清成 今野東 園田康博 大島敦 松宮勲 |
先代: 大島敦 平岡秀夫 大塚耕平 |
内閣府副大臣 東祥三、平野達男と共同 2010年 - 2011年 |
次代: 石田勝之 後藤斎 中塚一宏 |
議会 | ||
先代: 古賀一成 |
衆議院東日本大震災復興特別委員長 第3代:2012年 |
次代: 後藤田正純 |
先代: 玄葉光一郎 |
衆議院青少年問題に関する特別委員長 2009年 |
次代: 池坊保子 |