木村武雄
木村 武雄(きむら たけお、1902年8月30日 - 1983年11月26日)は日本の政治家である。衆議院議員選挙に12回当選した。ニックネームは木村元帥、放言居士。木村忠三の子。美術商の木村東介は兄。木村武雄の嫡子と嫡孫はそれぞれ民間人。木村武雄の次男にあたる木村莞爾と孫の木村忠三は山形県議会議員。
来歴・人物
山形県米沢市出身。1926年に明治大学政治経済学部卒業。米沢市議、山形県議を経て1936年の第20回衆議院議員総選挙に初当選。当初中立倶楽部に所属していたが、その後中野正剛率いる東方会に入党した。1942年の翼賛選挙では非推薦で当選。
木村武雄の名を一躍有名にしたのが1943年3月6日の翼賛政治会代議士会における一騒動であった。木村は戦時刑事特別法中改正法律案委員会の理事として同改正案に反対の立場をとり代議士会でも真崎勝次や小山亮らとともに同委員会の浜野徹太郎委員長による事実と異なる報告に異議を唱えたが、翼政会総務で主流派の津雲国利が「そういうことはこの俺が許さん」と大手を広げて言ったので反主流派の中谷武世が「俺が許さんとは何を生意気な、津雲をやっつけろ」と叫びそれに応じて木村は津雲に飛び掛っていった。木村はこのことにより武闘派政治家としてその名が知られることになった。その後大日本政治会の結成には参加せず護国同志会に参加。
1952年の第25回衆議院議員総選挙にて山形1区から返り咲き当選を果たし、政界復帰。保守合同後は佐藤栄作派→田中角栄派に所属。西村英一とともに佐藤、田中両元首相に意見できる数少ない人物であった。
1967年に第2次佐藤内閣第1次改造内閣の行政管理庁長官兼北海道開発庁長官、1972年に第1次田中角榮内閣の建設相兼国家公安委員長。
1979年の第35回衆議院議員総選挙で落選したが、1980年の第36回衆議院議員総選挙で返り咲く。
1983年11月26日、81歳で死去。
「元帥」のニックネームで親しまれたが、上記のとおり軍歴はなく木村の独特の風格から名付けられたものである。
主な著書
- 『近代史上3大革命家』
公職 | ||
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先代: 西村英一 |
建設大臣 第33代:1972年 |
次代: 金丸信 |
先代: 二階堂進 |
北海道開発庁長官 第29代:1967年 - 1968年 |
次代: 野田武夫 |
先代: 松平勇雄 |
行政管理庁長官 第31代:1967年 - 1968年 |
次代: 荒木万寿夫 |
先代: 中村寅太 |
国家公安委員会委員長 第28代:1972年 |
次代: 江崎真澄 |
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