朝鮮の歴史

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朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 檀君朝鮮
史前 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
前18-660
高句麗
前37-668
新羅
前57-
南北国 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。

概説

朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで現在より海面が130mほども低かったため、東シナ海の大部分は陸地であったが、紀元前4000年ころにかけての海面上昇により当時の沿岸部は海中に没している。最終氷期でも日本列島とは対馬海峡によって完全な陸続きにはなることはなかった[1]

紀元前4000年頃に櫛目文土器が出現する。櫛目文土器の最古のものは遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されている[2]ことから、遼河文明の担い手であるウラル系民族ハプログループN (Y染色体))が朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。朝鮮民族にはハプログループN (Y染色体)が一定数見られることから、朝鮮民族の基層にウラル系民族がある可能性が考えられる。 (紀元前4000年頃から南部・西部で陸での稲作が始まったとする主張もあるが、証拠となる物は見つかっていない。)

紀元前1500年頃から無文土器が出現し同時に支石墓が多数建造されるようになる。これに先駆けて紀元前2000年から紀元前1500年頃、朝鮮半島より北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化で、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現しており、これらが北方から流入した可能性を示唆している。

紀元前500年頃から水稲栽培が開始される[3]。水稲の栽培は中国から北方周りの陸伝いではなく、海を越えて半島南西部にもたらされたというのが定説となっている。この水稲文化をもたらしたのはハプログループO1b2 (Y染色体)の集団と考える学者がいる[4]

朝鮮半島において文献的な検証が可能となる最初の国家は箕子朝鮮、ある程度実情が分かるのは衛氏朝鮮からである。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、史記等の記述や考古調査から前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め、後に周王朝が侯国に封じたとする[5]。衛氏朝鮮は前194年出身の将軍であった衛満箕子朝鮮の王・準王を追い出して建国した[6]。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡として400年間直轄支配(植民地ともいわれる[7])されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。

4世紀中頃に、満州鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の多くの部分を征服するが、4世紀末までに百済は高句麗により朝鮮半島半島北部から駆逐され、朝鮮半島北部は高句麗によって征服された。

南部はと関係の深い百済新羅が在り共に倭に従属していたが、新羅は7世紀中葉に入って日本が白村江の戦により大陸での影響力を完全に喪失する以前も、度々朝貢を怠るなど叛服常無かった[8]

高句麗は4世紀の広開土王の代に、仏教を篤信するとともに、南に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗を中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。

百済は371年、漢山城(今のソウル松坡区)を都としていたが、高句麗の攻撃により落城し、扶余に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、大和朝廷に従属し、儒教や仏教を大和朝廷へ伝えた。南端部には倭国の影響下にあって[9](旧説では「支配下」にあったとする[10])諸小国の雑居する任那加羅があった。

倭国が大陸での支配力を失うと伽耶は特定の国(金官伽耶高霊伽耶など)が主導する形になったが、倭国への朝貢は途絶えることなく行われていた[11][12]後に諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。

一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。

しかしながら、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人がを避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』によると4代目の王が倭国北東[13]から渡来した王であったり、『三国志東夷伝』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王を遣わしていた記述があるなど、朝鮮民族としての意識の形成がいつ頃から生じたものか不明瞭である。新羅の後に興った高麗が高句麗継承を主張し、『三国史記』や『三国遺事』を編纂したことからすると、朝鮮民族としての民族意識の萌芽は高麗の時期に形成された可能性が高い。

7世紀、新羅は唐と同盟を結び高句麗、百済を相次いで滅ぼし、朝鮮半島の大部分を統一した。しかし、唐は旧高句麗の地に安東都護府を設置するなど、朝鮮半島を統治下に置こうとする。そこで、高句麗復興支援を掲げた文武王の下、新羅軍の支援を受けた高句麗軍が唐軍を攻撃して、唐・新羅戦争が開戦する。この戦いにおいて新羅軍は唐に圧勝し、唐を朝鮮半島から撤退させるも、高句麗復興軍は敗北し、高句麗遺民は大祚栄率いるツングース系の韃靼族と手を組み渤海を建国する。

唐を朝鮮半島から撤退させた後、唐の高宗に一時冊封を取り消された文武王は、謝罪使を派遣し、冊封は復活となった。

10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして南北にわたる初の統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。

高麗は13世紀モンゴル帝国)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親を掲げる女真族ともいわれる[14]李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。

朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蒋英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀簡儀)の製作、時間を表す仰釜日晷自撃漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。

16世紀豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と李舜臣の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てたの侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。

1776年に22代国王の正祖が即位する。正祖は即位初期には洪国栄などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若鏞朴斉家洪大容柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。[15]

19世紀末から欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、伊藤博文安重根が暗殺し、1910年に全土が日本併合された。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から赤化統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、南北統一を如何に果たすかが両国間の課題となっている。

なお、李氏朝鮮末期から日本統治期米ソ占領期、朝鮮戦争とその後の混乱期にかけて、様々な理由で清(中国)、ロシア(後にソ連)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。

先史時代・古朝鮮時代

先史時代

考古学的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。

古朝鮮時代

ファイル:Han Dynasty.jpg
紀元前数世紀ころの朝鮮半島

考古学的考証のない事項はここに記す。

檀君朝鮮檀君神話)
檀君神話上の人物。『三国遺事』に、『魏書』からの引用(ただし、現存する『魏書』にはそのような記述は存在しない)として、中国帝時代に白頭山に降臨した天神の子・桓雄と女の間に生まれた檀君が平壌城で建国したと記されている。大韓民国(韓国)では檀君即位の年をB.C.2333年とし、それから年を数える「檀君紀元」(檀紀)という紀元も存在する。近年朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、コンクリート製の檀君陵を復元しているが、その考古学的根拠は全くない。韓国人の宗教上の崇拝対象である。
箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年
中国を出自[16]とする中国人箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の平壌)。『三国志』魏志書、『魏略逸文などに具体的な記述がある。現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。『三国志』『魏略』および『後漢書[17]』には、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略し、そこで韓王となったという。
辰国

古代の朝鮮半島

衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代

朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[18]戦国時代は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた[19]代は遼東郡の保護下にあった[20]。秦末初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、衛氏朝鮮が成立した[21]

考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家。建国者から名乗って衛満朝鮮とも。中国を出自[22]とする中国人亡命者である衛満朝鮮半島北部に建国した。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時の紀元前108年武帝に滅ぼされた。その故地には楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を統治した。
ツングース民族による国家[23]

からの移民とする説もある[24]。古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という[24]。辰韓十二国があり、その中の斯蘆国が発展して、国家の態をなしたものが新羅と見られている。

三国時代

ファイル:Goguryeo-Relations.jpg
高句麗の系統は消滅したが、遺領は新羅(後の朝鮮民族の母体)と渤海(後の満州族の母体)に分割されている。

高句麗百済新羅の三国が並立。660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林州都督府として半島全域を藩属国から羈縻州としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から冊封を許された。

伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、広開土王碑文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては任那という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている[25]。伽耶諸国の地域(半島南部)は史書[26]や碑文[27]の記録から日本(ヤマト王権)の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡って多くの説が存在する。宋書倭国伝では478年、倭王武が宋の順帝に上表文を奏上し「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任命されたと記されており、倭が六国の諸軍事に少なくとも影響力を行使している状況を認めている。詳細は伽耶任那を参照。[28]
耽羅は498年百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属した。938年に高麗に服属した。1105年に「耽羅郡」で、1108年「済州郡」に改称、ここで「耽羅国」としての歴史は途切れた。
于山国は6世紀初めに新羅に服属した。
唐朝新羅を領土化するために設置した地方機関。都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に都督府を設置する統治制度。
唐朝が設置し現在の朝鮮半島北部から中国東北部に相当する高句麗旧域の経営を目的に設置された地方機関。
唐朝が設置し、現在の忠清南道に相当する百済旧域の経営を目的に設置された地方機関。

5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している[29]

統一新羅時代、或いは南北国時代

新羅による三国統一後、ほぼ同時期に渤海が旧高句麗の支配地域に建国され、両者は渤海が滅亡するまで並立していた。ただし、渤海を朝鮮の歴史の一部とみなすべきか否かについては賛否両論があり、渤海を朝鮮史の一部とする1975年以降の韓国では統一新羅・渤海並立時代を「南北国時代」と称しているが[30]、渤海を朝鮮史へ組み込むことに否定的な日本・中国などでは「統一新羅時代中国語版記事)」と称される。

後三国時代

新羅・後高句麗・後百済の三国が並立。最終的に後高句麗を継承した高麗によって統一された(936年)。

中世の朝鮮半島

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敬天寺十層石塔

高麗

近世の朝鮮半島

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大清帝国皇帝に三跪九叩頭の礼をする仁祖を記録する大清皇帝功徳碑(1639年)
ファイル:Questionning of Simeon Berneux.jpg
丙寅教獄で尋問されるベルヌーEnglish版司教(1866年)。尋問後、信者らとともに処刑され、フランス艦隊の朝鮮遠征が行われた
ファイル:Flight of Japanese Legation 1882.jpg
壬午事変における軍事クーデターにより王宮とともに日本公使館が襲撃焼き討ちに遭い、小舟で脱出した日本領事等、イギリス船に救助される。(1882年)

李氏朝鮮

近代

ファイル:COMFORT Ad.gif
慰安婦募集の新聞広告。

大韓帝国

日本統治時代

現代

連合軍による軍政に反抗して蜂起した朝鮮人(1945年)
軍事境界線(板門店)
初代大統領李承晩
韓国に占拠された竹島
李承晩ラインに進入した日本人の抑留
国連軍に提供される慰安婦の登録実施(1961年)
アメリカ合衆国との韓米貿易協定に抗議する数十万人の市民(2008年韓国蝋燭デモ

連合軍軍政期

連合軍軍政期には「北朝鮮」およびに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。

朝鮮戦争

大韓民国(韓国)


朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)

ファイル:2018 inter-Korean summit 01 (cropped).jpg
第3回南北首脳会談に臨む韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長(2018年4月27日)

脚注

  1. 「最終氷期の海水準変動に対する日本海の応答」松井 裕之, 多田 隆治, 大場 忠道
  2. 中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】「東北アジアにおける先史文化の交流」 王 巍(中国社会科学院考古研究所・副所長)
  3. 松菊里遺跡の水田跡
  4. 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年)
  5. 考古学的には田の形状や石器などに大きな変化が見られる。
  6. 三国志
  7. 『日本書紀』、『宋書』夷蛮列伝、蕭繹『職貢図』
  8. 吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。ISBN 4-00-430510-1。 pp.74-78.
  9. 『任那興亡史』31P-200P
  10. 『任那興亡史』189P-213P
  11. 井上秀雄 『古代朝鮮』 講談社〈講談社学術文庫〉、2004年10月。ISBN 4-06-159678-0。 pp.106-107.
  12. 日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国(→上垣外2003 p.70)、但馬国肥後国玉名郡などに比定する説がある。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか西域の楽神の乾達婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もある(→井上訳注1980 p.35)。『三国遺事』では龍城国とされる。
  13. 14.0 14.1 14.2
    • 池内宏『満鮮史研究 近世編』 中央公論美術出版
    • 山内弘一「朝鮮王朝の成立と両班支配体制」 武田幸男編集『朝鮮史』山川出版社
    • 室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』新潮新書
    • 宮家邦彦『哀しき半島国家韓国の結末』、PHP研究所、160頁「李氏朝鮮は1392年、元が衰退したのちに親『』であった女真族の李成桂が建国し、コリア半島をほぼ制圧したあと、1402年に明に朝貢冊封した。」
    • 豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』、彩図社、70頁「倭寇の撃退に功績をあげた李成桂は1392年、高麗を倒して朝鮮を建国。漢城(現ソウル)に都をおいた。出身については、女真族だったと主張する研究者も多い。出身地が女真居住地域だったこと、李成桂がモンゴル名を持っていたこと、幕下に女真の首領を加えたことなど、数々の傍証がある。」
    • 岸本美緒/宮嶋博史「明清と李朝の時代」『世界の歴史 12』、中央公論社、17頁「全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した。」
    • 倉山満『嘘だらけの日韓近現代史』、扶桑社、34頁「1392年、李成桂という謎の人物が高麗を倒し、新王朝を建国します。謎というのは、どこの誰だかよくわからないからです。韓国は当然ながら朝鮮人だと言いますし、中国人のなかには漢民族だとか、モンゴル軍閥の一人だと言う人もいます。最も信憑性が高いのは、女真人満州人)でしょう。」
    • 岡田英弘宮脇淳子研究室『論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である
  14. 『朝鮮史』武田幸男編184頁
  15. 箕子朝鮮の建国者である箕子については、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮・・・」とあり、殷を出自とする中国人となる。
  16. 後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満箕子朝鮮を滅ぼした際に箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。
  17. 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42
  18. 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.22
  19. 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.23
  20. 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27
  21. 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、燕を出自とする中国人となる。
    • シロコゴロフ、川久保悌郎田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
    • 白鳥庫吉『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
    • 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
    • 加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
    • 三上次男神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
    • 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
    • 浜田耕策『日本大百科全書』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」
    • 村山正雄『日本大百科全書』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」
    • 佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
    • 護雅夫『日本大百科全書』「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」
    • 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」
    • 黄文雄『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
    • 広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
    • 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」
    • 南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
    • 長野正孝『古代史の謎は鉄で解ける』(2015年、PHP研究所)「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。」
    • 宮家邦彦『哀しき半島国家韓国の結末』(2014年、PHP研究所)p160「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した。」
    • 豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』(2016年、彩図社)p9「高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家」
    • 薗田香融『日本古代の貴族と地方豪族』(1992年、塙書房)、p259「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗」
    • 埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
    • 酒井忠夫『世界史研究』(1953年、績文堂)p128「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」
    • 渡部昇一『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
    • 三上次男『古代東北アジア史研究』(1966年、吉川弘文館)p87「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる。」
    • 青木慶一『民衆と戦争』(1978年、東明社)p40「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った。」
    • 成瀬治『世界史の意識と理論』(1997年、岩波書店)p116「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」
    • 沖浦和光『辺界の輝き』(2002年、岩波書店)p32「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします。」
    • 白崎昭一郎『広開土王碑文の研究』(1993年、古川弘文館)p49「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう。」
    • 水野祐『古代の出雲』(1972年、吉川弘文館)p300「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている。」
    • 小島直記『松永安左ェ門の生涯』(1980年、松永安左ェ門伝刊行会)p1073「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという。」
    • 佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」
    • 室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』(2010年、新潮社)p193「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」
  22. 24.0 24.1 三国志』魏書辰韓伝「辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している)」によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という。また、『北史』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている)」との記述がある『北史』新羅伝水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている(『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁)。そのため、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は、公式研究書で新羅に対して、「中国のの亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院 『朝鮮日報』2007年6月4日
  23. 鈴木靖民ほか著『伽耶はなぜほろんだか』<増補改訂版>、大和書房、1998 ISBN 4-479-84047-8(初版1991)
  24. 『三国志』東夷伝、『宋書』夷蛮伝
  25. 広開土王碑
  26. 日本書紀によると、『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載されるなど、任那は日本の影響下にあったとされる。
  27. 拳骨拓史『日中韓2000年の真実』扶桑社新書
  28. 北朝鮮も渤海を朝鮮の歴史の一部とみなしているが、「南北国時代」なる用語は使わない。
    • 森安孝夫『日本大百科全書』「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家」
    • 和田萃『日本史事典』(1990年、東京創元社)「【渤海】7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された」
    • 藤本和貴夫『日本大百科全書』「【シベリア】7~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた」
    • 黄文雄『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
    • 佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
    • 『世界史用語集』(2014年、山川出版社)「【靺鞨人】中国東北部に東部にツングース系諸族。6世紀半ば勿吉の崩壊後の部族の総称」
    • 菊池俊彦『日本大百科全書』「【靺鞨】6世紀後半から中国東北の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系諸族の一派」
    • 広辞苑「【靺鞨】ツングース族の一。粟末靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した」
    • 大辞泉「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」
    • 大辞泉「【靺鞨】中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。七部に分かれ、その一部である粟末部は、渤海国を建国。黒水部はその支配下に入らず、のちに女真と称された」
    • 大辞林「【靺鞨】中国、隋唐時代に東北地方から朝鮮半島北部に居住したツングース系諸族の総称。勿吉崩壊後、有力な七部に分立、粟末部を中心に渤海を建てたが、黒水部は対立してのちに女真族となった」
    • 安藤達朗『いっきに学び直す日本史』(2016年、東洋経済新報社)「7世紀に満州で建国したツングース族の渤海は、唐や新羅に対抗するため、727(神亀4)年に朝貢してきた。」
    • 田村実造『中國征服王朝の研究』第1巻(1964年、東洋史硏究會)「渤海人はもともとツングース系の狩猟民であるが、かつて渤海國をおこし尚文化を掃取したので、キタイ族・奥族よりは定著し農耕化していたようである。」
    • 渡部昇一『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
    • 埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
    • 鈴木俊『東洋史要説』(1960年、吉川弘文館)p176「渤海も唐の制度、文物を輪入し、唐にならって三省六司の制を設け、十五府六十二州の地方区画や五丹江の上流域に拠り、ツングース系の半狩猟半農耕民の靺鞨人を統合して独立し、唐から渤海郡王に封ぜられ」
    • 中国研究所『中国年鑑』(2002年、大修館書店)p393「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある。靺鞨族により創建された渤海国」
    • 今西正雄『民族文化史概説』(1943年、全國書房)「遼の契丹族に遂はれたツングース系渤海の後身で女眞族」
    • 佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」
  29. 『高麗史』一百四 列伝 巻十七 金方慶伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。..(中略)..用本國船様督造。」
  30. 『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」
  31. 朝鮮大飢饉新聞集成明治編年史第一卷、林泉社、1936-1940
  32. 国号改称(明治43年8月勅令318号)- 韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件ヲ裁可シココ二之ヲ公布セシム韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今(じこん)朝鮮ト称ス
  33. 今日の歴史(1月7日) 聯合ニュース 2009/01/07
  34. 今日の歴史(12月6日) 聨合ニュース 2008/12/06
  35. 南北首脳、板門店で会談 正恩氏、軍事境界線越える”. 朝日新聞 (2018年4月19日). . 2018閲覧.
  36. 南北首脳、板門店で会談 正恩氏、軍事境界線越える”. 朝日新聞 (2018年4月27日). . 2018閲覧.
  37. 「完全非核化」目標、年内に終戦 南北首脳が板門店宣言”. 朝日新聞 (2018年4月27日). . 2018閲覧.
  38. 「朝鮮半島の非核化に尽力」、南北首脳が共同声明 AFP BB NEWS Japan 2018年4月27日
  39. “「板門店宣言」の全文を、取り急ぎ日本語に訳してみました”. ハフポスト. (2018年4月27日). https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/27/panmunjeonm-koreasummit_a_23421824/ . 2018閲覧. 

参考文献

  • 吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。ISBN 4-00-430510-1。
  • 井上秀雄 『古代朝鮮』 日本放送出版協会〈NHKブックス172〉、1972年。ISBN 4-14-001172-6。
    • 井上秀雄 『古代朝鮮』 講談社〈講談社学術文庫〉、2004年10月。ISBN 4-06-159678-0。
  • 水野俊平 『韓国の歴史』 李景珉監修、河出書房新社、2007年9月。ISBN 978-4-309-22471-8。

関連項目

de:Korea#Geschichte