昭和東南海地震

提供: miniwiki
移動先:案内検索
昭和東南海地震
昭和東南海地震の位置
地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日 1944年12月7日
発生時刻 13時35分(日本標準時
震央 日本の旗 日本 熊野灘
北緯33度34分12秒
東経136度10分42秒
震源の深さ 40km
規模    MJ7.9, MS8.0, MW8.1-8.2
最大震度    震度6:御前崎
津波 8-10m
地震の種類 海溝型地震
逆断層
被害
死傷者数 死・行方不明 1223人
テンプレートを表示

昭和東南海地震(しょうわとうなんかいじしん)は、1944年昭和19年)12月7日午後1時36分から、紀伊半島東部の熊野灘三重県尾鷲市沖約 20 km (北緯33度8分、東経136度6分)から浜名湖沖まで破壊が進行した(震源としては「熊野灘」)M7.9のプレート境界型巨大地震。単に「東南海地震」または「1944年東南海地震」と呼ばれることがある。また当初は遠州沖大地震と呼ばれていたが[1]、東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことを隠匿するため、「東南海地震」に変更したとする説がある[2][3]

1945年前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した4大地震(鳥取地震三河地震南海地震)の一つである(#震源域も参照)。一般に死者・行方不明者数は1223名を数えたとされる[4]

東南海地震震源域で発生した前回の巨大地震である安政東海地震から90年ぶりでの発生となっている。

地震動

昭和東南海地震の震度分布[5]

現存する数少ない記録によって、三重県津市、静岡県榛原郡御前崎村長野県諏訪市(当時、日本は戦時で軍部によって情報が統制されていたため、単独の『諏訪地震』とされてしまった)で震度6、近畿から中部までの広範囲で震度5を観測していたことが確認されている(ともに旧震度階―烈震・強震)。観測所によっては、地震の強さが測定範囲を超えており(震度計の針が端まで振り切れてしまっており)、強度を記録しきれていないほどである。異常震域の存在が示唆され敦賀市、福井市、甲府市、諏訪市が震源から離れているにも関わらず震害が大きい[6]福地村袋井町など被害の調査によって震度7と推定される箇所もあった[7][8]。また、地震発生後に常設の観測点では無い臨時観測点による集中観測は、地震発生から2ヶ月を経過してから行われたため、地震像の詳細や余震活動については不明点が多い[9]

震度分布は東海地方より西側では1854年の安政東海地震に類似するが、駿河湾周辺や甲府盆地は安政東海地震の方がより激震であった[7]。また、北海道においても森町および旭川市で震度1を観測した[10]。また、海外でも地震計などの情報から、大規模な地震があったことは認識されている。

御前崎では初期微動が17.1秒間、強い振動が3分程続いたが[6]、東京でも周期7秒から12秒の長周期地震動が10分以上続き、地震計の揺れは30-40分間記録されている[11][12]

武村(2015)は被害統計資料の整理と震度分布の再評価を行い、「静岡県袋井市周辺」「愛知県西尾市の旧矢作川流域」などで震度7 に相当する揺れが生じていたとしている[13]

震度 地方 観測所
震度6 東海地方 御前崎村津市
(委託観測所)[5] 諏訪市、豊浜(現・南知多町)、赤羽根村、大野、津島、四日市市、大杉谷
震度5 北陸地方 福井市敦賀市
甲信地方 甲府市
東海地方 浜松市亀山町尾鷲町岐阜市名古屋市
近畿地方 彦根市奈良市
震度4 関東地方 前橋市秩父町東京都麹町区横浜市
北陸地方 高田市富山市輪島町
甲信地方 河口村松本市飯田市
東海地方 熱海市高山市三島市静岡市
近畿地方 宮津町京都市大阪市神戸市洲本市和歌山市串本町
四国地方 徳島市高松市多度津町松山市室戸岬町高知市

この東南海地震と1946年の南海地震は隣接したような形で破壊の開始点が存在し、紀伊半島沖から東に断層の破壊が進んだ[14]

地殻変動

太田川付近では堤が地割れし2m程度沈下したが、これは地震動によるものであった。熊野灘の新宮では0.3m沈下、鳥羽では0.3m沈下、名古屋では0.25-0.4m沈下、渥美半島では0.3-0.4m程度の沈下、浜松では0.3-4m沈下、駿河湾岸の清水では0.5m沈下した。対して掛川では0.07m隆起、相良港では0.3m隆起、御前崎は0.15m隆起した[15]。北西側は沈降、南東側は隆起の傾動は安政東海地震と類似しているが駿河湾西岸が沈降している点が異なり、また地殻変動の幅は小さかった[16]

規模

気象庁によれば地震規模を示すマグニチュードは 7.9 と推定されている。他方、表面波マグニチュードMs=8.0[17]、モーメントマグニチュードMw=8.1[14]あるいはMw=8.2[18]と推定する説もある。

地震断層パラメーターは長さL=120km、幅W=80km、すべりD=3.1m[14][19]、あるいはL=110km、W=70km、D=4.0m(熊野灘沖)およびL=80km、W=80km、D=4.0m(遠州灘沖)の二つの断層[20][19]を仮定する説などがある。地震モーメントM0 = 1.5×1021N・m[14]、あるいはM0 = 2.0×1021N・m[18]などの値が推定されている。

太平洋岸の験潮施設で記録されていた津波波形を利用した滑り量の推定結果からは、志摩半島沖に約3mの最大の滑り量を生じた領域と次いで渥美半島沖に約1.5mの滑り量を生じた領域があるが、東海地震の想定震源域である駿河湾沖の領域が、未破壊領域として残された[21]

震源域

安藤(1975)の断層モデル[22]では、震源域は直線上に広範囲に及び、愛知県三河湾南沖から、和歌山県串本町の南東沖に至る南海トラフと平行した線上の地域で発生したと見られている[23]

上述のように、1940年代の半ばには大きな地震が相次いでおり、この地震から2年後の1946年(昭和21年)12月21日昭和南海地震が発生した。2つの地震は同時発生ではないものの南海トラフにおける連動性があったと考えられている。一方で、昭和東南海地震は安政東海地震のように駿河湾奥(駿河トラフ)までは破壊が進行せず浜名湖南東沖辺りで破壊が止まったとされ、依然、東海地震の震源域が空白域として残されたと考えられている[24]

浜名湖沖で破壊が止まった理由について、「濃尾地震により南海トラフ側では歪みが増加し駿河トラフ側では歪みが減少した為」とする説がある[25]、また茂木清夫(元地震予知連絡会会長)は濃尾地震により東海地震の発生が20年遅れたとする説を発表している[25]

また、紀伊半島沖ではプレート境界の断層すべりが固着域の下限からトラフ軸付近まで達しているのに対し、渥美半島沖ではトラフ軸まで達せず分岐断層が生じたものと推定されている[21]

被害

戦時下における地震被害の隠蔽

当時、日本は太平洋戦争の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が日本の国民や敵国アメリカに漏れることを恐れた軍部は情報を統制した[26][4][27]。翌8日が真珠湾攻撃3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)[4]

地震についての情報は、3面の最下部のほうに申し訳程度にわずか数行触れただけで、具体的な被害状況は一切伝えられなかった[4][27]。被害を受けた各地の住民や、学徒動員され半田市中島飛行機の工場で働いていた学徒らには、被害について絶対に人に話さないように、とする戦時統制に基づく通達の厳しい緘口令が行政側からまわった[4][27][注釈 1]。そのため他の地域からの救援活動もなく、被災地は孤立無援となった[4][注釈 2]

ただ、世界各国の震度計により観測・記録されたため地震が起きたことは把握されており、翌日のアメリカ合衆国の主要紙は日本で大地震が発生したこと(や軍事に及ぼす影響のことを)大きく伝えた。例えば、ニューヨーク・タイムズは「地球が6時間にわたって揺れ、世界中の観測所が「破壊的」と表現した」と、大々的に報じた。「日本の中央部で大地震」といった見出しで、地域まで特定して見出しをつけたものもあった。

この地震の状況を心理戦としてドラゴーンキャンペーン作戦として宣伝ビラ投下作戦を米軍が実行している(B29から投下された宣伝ビラには毛筆で「地震の次は何をお見舞いしましょうか」と書かれていた、という土屋嘉男の証言がある)[4]。また、後述の津波被害の資料となる米軍機による3日後に撮影した航空偵察写真が残されており[29]、連合国側は状況を全て把握し、特に軍需工場等の戦略拠点の被害状況を注視した。地震から6日後の12月13日夜には、津波の被害にもさらされ惨事となっている名古屋地域の航空機工場を中心とする一帯に、アメリカ軍は大規模な空襲を行っている[4][27]

人的被害

1944年、東南海地震の被害。(1977 飯田)
地域 人的被害 住家 非住家
死亡・不明 負傷 全壊 半壊 全壊 半壊
愛知県 438 1148 6411 19408 10121 15890
静岡県 295 843 6970 9522 4862 5553
三重県 406 607 3776 4537 1417 2228
岐阜県 16 38 406 541 459 388
奈良県 3 17 89 177 244 224
滋賀県 0 0 7 76 28 88
和歌山県 51 74 121 604 46 63
大阪府 14 135 199 1629 124 63
山梨県 0 0 13 11 14 3
福井県 0 0 1 2 2 3
兵庫県 0 2 3 0 23 9
長野県 0 0 12 47 1 2
合計 1223 2864 18008 36554 17341 24514
  • 流失家屋 3129戸
  • 浸水家屋 8816戸
  • 焼失家屋 3129戸
  • 火災発生 26箇所

地震による家屋の倒壊、地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県静岡県を中心に、推定1223名の死者・行方不明者を出したとされているが、死者数は重複があり、918名とする説もある[30]。これは、太平洋戦争中でもあり、戸籍などの謄本が津波により消失しているため現在でも正確な実数は把握できない。行政機能が麻痺したため、死亡届を出さずに、現在に至っている例も散在する。
この地震によって関東大震災のような大規模な火災は発生しなかった。これは建物倒潰が比較的少なかったこと、発震時刻が昼過ぎであり火を使っている場所が少なかったこと、天候が穏やかで風が弱かったこと、更に戦時中でいつ本土空襲が起きてもおかしくない状況であり、人々の緊張が高まっていたことなどが要因として挙げられている。

半田市の中島飛行機の山方工場、名古屋市南区の三菱重工の道徳飛行機工場はこの地震によって倒壊し、それぞれ死者130人、60人の被害を出した。この二つの工場は紡績工場を買収して軍需に転用したものであったが、飛行機工場としては狭く、間仕切りや柱を鋸で引いて取り除くなどして空間を確保していた。耐震性を無視した改装工事が倒壊の原因になったとされる[8]

津波

場所 高さ
静岡県下田市柿崎 2.5m
愛知県一色町 1.5m
和歌山県新宮市 2.0m〜5.0m
三重県尾鷲市 2.7m〜9.0m
大紀町(錦村) 7.0m
南島町 5.5m〜6.0m
熊野市 3.0m〜6.3m
紀伊長島町 4.0m
父島(小笠原) 3m

地震後の津波では震源域に近い尾鷲市を中心に熊野灘沿岸一帯に壊滅的な被害をもたらした。三重県、和歌山県沿岸で特に高く、波高は新鹿で6-8m、賀田で7.1m、錦で6m、勝浦で4-5mであった[31]。最大波高は、尾鷲市賀田地区で記録された 9 m 。第一波が襲った後、家へ荷物などを取りに戻り、第二波に巻き込まれ、亡くなった例もあった。津波被害は米軍により空中撮影された[4]

御前崎においては地震後約5分で海水が退き、地震後約40分の14時27分に第一波が襲来し、14時50分、15時0分、15時30分、16時17分と襲来した。最も高いのは第三波の15時で、19時頃も高かった[6]。熊野灘では地震後10-20分で到達した。

津波は伊勢湾にも進入しているが、被害は少なかった[30]

都市基盤と産業被害

被害地域は広範囲に及び、その一部である名古屋市を中心とした中京地域は、当時、三菱重工業中島飛行機を始めとする航空機産業の中心地的な存在であったため、軍用機の生産に多大な被害を受けることになった。

東海道線は掛川より西側で甚大な被害を受け、太田川周辺では貨物列車が脱線転覆、出火した[16]

  • 道路破壊 505箇所
  • 橋梁流失 61橋
  • 堤防決壊 155
  • 鉄道被害 48箇所
  • 船舶流失 1898隻
  • 岸壁破壊 84箇所

前兆現象

直前の8月には、尾鷲付近で小規模な群発地震活動が生じていた。また、11月に東北地方の太平洋岸や関東地方の内陸での地震活動がやや静穏であったとされている。しかし、この程度の群発地震活動や静穏化現象は他の時期にも生じており、特段の前兆現象とは考えにくい[9]。但し、潮位には有意な変化は無かったとする報告がある[32]

前震活動

1944年東南海地震に先行し地震活動が活発化した場所がある。

ユーラシア大陸東部地域

本震発生前の約20年間のユーラシア大陸東部地域(北東中国から西南日本)の浅い地震活動が活発であった[33]

銭洲海嶺付近
  • 1936年12月27日 新島地震 M6.3 の発生以後から一帯の地震活動が活発化した。最も活発な活動をしたのは本震(M8.0)の前後で、1944年9月3日 M6.3、1945年8月25日 M6.4などの地震が発生している。またこの期間に銭洲海嶺の地震活動は南海トラフに接する領域まで西側に移動し、1956年8月13日 新島付近の地震の発生以後は次第に静穏化に向った[34][35]

プレスリップ

地震の発生直前に、静岡県掛川市において、プレスリップと見られる現象が東京帝国大学の今村明恒により観測された[36]

昭和時代初期に東海道沖および南海道沖に巨大地震の発生が懸念されると予測した今村明恒の要請に基づき、折しもこの地震の前日から直前まで陸軍測地測量部が掛川から御前崎付近の測量を行っていた。そこで一等水準測量の中で4mmを越える通常の測量では考えられない誤差が出現した。4mmという誤差は地震当日の午前中の測量に集中し、かつ水準儀の不安定が地震発生10数分前に発生していることから、地震直前に変動が生じた結果であるとされる[37][38]。そしてこれが東海地震予知の根拠とされる前兆的異常地殻変動である[39]

誘発地震

本震に影響を受け、震源域及び余震域から離れた地域でも規模の大きな誘発地震が発生している[40]

  • 1944年12月19日 満州国(当時)と朝鮮(当時)の国境付近、西朝鮮湾近傍で M6.8の地震[33]
  • 東南海地震の47日後の1945年1月13日 愛知県蒲郡市付近を震源とする三河地震(M6.8)。
  • 1946年12月21日 の昭和南海地震、Mw8.1-8.4、深さ24km。同じ潮岬沖で発生した南海トラフのプレート境界型地震は、東南海地震とは逆の西に進行した。死者1330人。串本では地震後約10分で津波が到達し、また最高潮位6.57mであった。
  • 1948年
    • 4月18日 1時11分 和歌山県南方沖で M7.0[10]。昭和南海地震と本震(昭和東南海地震)での割れ残った領域での地震[9]
    • 6月28日 福井県嶺北地方を震源とする福井地震(M7.1)。

研究

戦時下であり、軍部は厳しい報道管制を敷き、被害規模がずっと不明なままだった。1970年代飯田汲事名古屋大学教授が市町村の記録を丹念に集め集計した。

今村明恒東京帝国大学教授が、予想して観測態勢を私費で作った。関係市町村に警報を出そうとしたが、届いたのは地震後であった。

脚注

注釈

  1. 例えば、工場で働いていた少女は、同世代の友人が崩れ落ちてきた屋根の下敷きになって死亡するのを目撃し自身も死にかけたが、そうした出来事・被害状況を「決して人に話さないように。話すことはスパイ行為に等しい」などと、教師から指示されたという[28]

出典

  1. 今村明恒(1944) 今村明恒(1944): 遠州沖大地震所感 地震 第1輯 Vol.16 (1944) No.11-12 P299-303, doi:10.14834/zisin1929.16.299
  2. 山下文男(2002):『君子未然に防ぐ-地震予知の先駆者今村明恒の生涯-』. 東北大学出版会
  3. 「1944東南海地震・1945三河地震」『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』 2007年 中央防災会議
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 4.8 NHK歴史証言アーカイブス[証言記録 市民たちの戦争]封印された大震災〜愛知・半田〜”. NHK (2011年8月10日). . 2016閲覧.
  5. 5.0 5.1 中央気象台「月別全国地震調査原稿」 昭和19年12月
  6. 6.0 6.1 6.2 極秘 昭和十九年十二月七日 東南海大地震調査概報 中央気象台 1945-02-20 三秀舎
  7. 7.0 7.1 中央防災会議(2003) (PDF) 歴史地震の震度分布
  8. 8.0 8.1 山下文男 『隠された大震災』 東北大学出版会、2009年
  9. 9.0 9.1 9.2 岩田孝仁、浜田信生、1944年東南海地震前後の地震活動 地震 第2輯 Vol.39 (1986) No.4 P621-634
  10. 10.0 10.1 1948/04/18 01:11:30.6 和歌山県南方沖 M7.0 気象庁震度データベース
  11. 古村孝志(2006) 古村孝志, 中村操(2006): 1944年東南海地震記録の復元と関東の長周期地震動, 物理探査, Vol.59, No. 4.
  12. 古村孝志 「南海・東南海・東海地震の連動発生による強震動と津波の発生」 (PDF)
  13. 武村雅之、虎谷健司、1944年東南海地震の広域震度分布の再評価と被害の特徴 日本地震工学会論文集 Vol.15 (2015) No.7 特集号「第14回日本地震工学シンポジウム」その1 p.7_2-7_21, doi:10.5610/jaee.15.7_2
  14. 14.0 14.1 14.2 14.3 Kanamori, H.(1972): Tectonic implications of the 1944 Tonankai and the 1946 Nankaido earthquakes Phys. Earth Planet. Interiors, 5, 129-139.
  15. 飯田汲事(1985) (PDF) 飯田汲事(1985): 東海地方地震・津波災害誌2章 東南海地震の地変及び地盤の破壊
  16. 16.0 16.1 広瀬弘忠 『巨大地震 予知とその影響』 東京大学出版会、1986年
  17. 宇津徳治 『世界の被害地震の表』 1990年
  18. 18.0 18.1 Tanioka, Y. and Satake, K. (2001): Detailed coseismic slip distribution of the 1944 Tonankai Earthquake estimated from tsunami waveforms. Geophys. Res. Lett., 28, 1075–1078.
  19. 19.0 19.1 佐藤良輔、阿部勝征、岡田義光、島崎邦彦、鈴木保典『日本の地震断層パラメーター・ハンドブック』鹿島出版会、1989年
  20. Ishibashi(1981), Earthq. Pred., Ewing Ser. 4, 297-332
  21. 21.0 21.1 谷岡勇市郎:津波波形から推定された1944年東南海地震及び1946年南海地震のすべり量分布の解釈 地學雜誌 Vol.110 (2001) No.4 P491-497
  22. Masataka Ando(1975) Masataka Ando(1975), CiNii Masataka Ando(1975): Source mechanisms and tectonic significance of historical earthquakes along the Nankai trough, Japan, Tectonophysics, Vol. 27, 119-140.
  23. 第151回地震予知連絡会資料 (PDF)
  24. 石橋克彦 東海地方に予想される大地震の再検討 駿河湾地震の可能性 地震予知連絡会会報, 17, 126-132, 1977. (PDF)
  25. 25.0 25.1 松村正三:東海地震についての一考察地震 第2輯 Vol.49 (1996-1997) No.1 P85-88
  26. 中日新聞社会部編「恐怖のM8 東南海、三河大地震の真相」中日新聞本社、1983年
  27. 27.0 27.1 27.2 27.3 特集まるごと「“隠された地震”掘り起こす」”. NHK Web News (2014年12月5日). . 2016閲覧.
  28. 当時の少女本人へのインタビューによる体験談(TBS報道特集、2010年8月14日放送)
  29. 佐藤浩、青山雅史、米軍空中写真を用いた尾鷲市南部の1944年東南海地震による津波痕跡の判読 2014年度日本地理学会春季学術大会 セッションID: 624
  30. 30.0 30.1 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書(1944東南海地震 1945三河地震) -第1章 東南海地震の災害の概要- (PDF) 中央防災会議
  31. 首藤伸夫、越村俊一、佐竹健治、今村文彦、松冨英夫 『津波の事典』 朝倉書店、2007年
  32. 1944年東南海地震前の潮位変化と当時の潮位資料 (PDF) 小林昭夫・真砂礼宏・吉田明夫・檜垣将和 験震時報第65巻 pp.1-43
  33. 33.0 33.1 大内徹、張泰雨、黄清華、他:Korea 及びその周辺域の地震・火山活動とアジア東縁のテクトニクスー地震活動に現われる潜在構造 神戸大学都市安全研究センター研究報告 2002-03 研究報告6:211-227,ISSN:13429167
  34. 銭州海嶺における地震活動と広域地震活動との関係について (PDF) 地震予知連絡会会報 第50巻
  35. 銭州海嶺における地震活動と広域地震活動との関係について(2) (PDF) 地震予知連絡会会報 第51巻
  36. 第151回地震予知連絡会資料 (PDF)
  37. Mogi, K., 1984, temporal variation of crustal deformation during the days proceeding a thrust-type great earthquake: The 1944 Tonankai Earthquake of magnitude 8.1, Japan PAGEOPH,122,765-780.
  38. 木股文昭、鷺谷威 「水準測量データの再検討による1944 年東南海地震プレスリップ」 (PDF)
  39. 小林昭夫 「体積歪計観測網による東海地震の前兆すべりの検知能力」 (PDF)
  40. 2011年 東北地方太平洋沖地震 過去に起きた大きな地震の余震と誘発地震 東京大学地震研究所 広報アウトリーチ室